第29話 それぞれの変化
アルバイトを2年以上経て、素人に毛が生えた程度ながら考え至ったことがある。飲食店とりわけ喫茶店を上手く経営するにはリピータを増やすことが重要だと。この店は本屋に併設されていることもあり一般的な客に加えて本屋からの流入客が多い。子連れの主婦、学生、若年層の社会人、時間帯によって訪れる人はバラバラだけれども、店内で本を読みながらリラックスできるように調度品や音楽、メニューにこだわる必要があるようだ。
その視点で考えたときスタッフの
ただ、残念ながら先輩は3年の終わり、就職活動の開始をきっかけに店を一旦辞めてしまった。先輩と同じ理由で辞める先輩方の送別会は本屋側のアルバイトを含め合同で行われた。会自体はとても楽しく明るく盛り上がり、一方で終わりの方にはきちんとしめやかに行われた。白波先輩に花束を渡した時に涙ぐんだあの姿はもう二度と見られない貴重なものだったと思う。
話題が少しだけ逸れるけれど、その日は湊が俺の居る食事会の席になると酒を飲もうとし始める悪癖が付いていてあの日も必死に止めたことはよく覚えている。
明るい先輩がいなくなって寂しさを感じていたのだけれども。時が流れると別れがあれば勿論出会いもある。見事、当店の看板ウエイトレスの席を射止めたのはあの二人。
「いらっしゃいませ。お二人様ですか?」
先輩と比べるとまだぎこちないタイミングでの挨拶、少しだけ緊張が読み取れる声音。ただそれらを覆い隠すくらいに見目麗しい可憐さはこの店内をそっと照らす灯りになっている。あの笑顔を向けられた誰彼構わず幸せにしてしまう。
これは自慢だけれども、俺自信がそれを一番よく知っているのだから。
「
「わかった。」
二人はいつか話した想像のバイト生活の通り、俺のことを店内では先輩と呼んでくれている。二人が店内に並んでいると誤解を生みかねないのと、二人は生活のためではなくて殆ど趣味で働いているため同時に揃うことは殆どない。シフトの都合上で揃うことは稀にはあるけれど。
今日のアルバイトは
「はい、配膳お願いします。」
「はーい!行きます!」
沙羅は元気よく返事をする。もっと落ち着けばいいのにと思う。パタパタと駆けていく後ろ姿を見ると生まれたての子犬を見ているようで心配になってしまう。そんな俺はきっと過保護なのだろう。
沙羅の後ろ姿を眺めているとまた新規の来客がやってくる。丁度店の表にでるスタッフがいないのでカウンターから挨拶をする。彼女のお手本になるようにしっかりとするつもりだったのだけど。
「いらっしゃいませ……。先輩。」
店の入口にいったのはさっきまで綺麗な思い出の中で回想していた白波先輩だった。
「や、三崎くん……。カフェラテ頂戴。」
すごく忙しいバイト終わりにしか見たことないような、むすっとして疲れ切った表情。黒いスーツに身を包む先輩を見ると随分と心配になってしまう。
「大丈夫ですか……?ああ、大丈夫じゃないですね。」
「大丈夫じゃない。もう面接行きたくない。」
「少々お待ち下さい……。」
典型的な就活によるメランコリーに陥っている先輩が少しでも元気になるようにいつもよりも砂糖多めにしておく。客として現れた彼女は依然からは考えられないほど態度悪くカウンターに肘をついてため息をついている。
「はぁー……。」
いい意味で内面がわかりやすい性格の人だとは思う。
「今日は沙羅ちゃん?愛ちゃん?すごくよく働いてるね。」
「そうでしょう。あ、今日は沙羅ですよ。」
先輩にトレイに載せたカフェラテを手渡しつつ答える。
「二人を想う愛情があればあの双子の見分けが付くのね……。みーくんも立派になったね。」
どこかしみじみと先輩がつぶやく。
「先輩のお陰ですよ。」
「じゃあ、お礼に私に就職先を斡旋して。」
沈んだ声音で濁った眼をする先輩は冗談を言っているのかどうか分からない。
「それは……無理です……。」
「冗談言っただけじゃない。もう、真面目ね。」
今の先輩の姿を見た上で、来年の自分のことを考えると全くもって冗談では済まない。
「ゆっくりして行って下さい。」
その言葉を聞いてトレイを慣れた手付きで運ぶ先輩は器用に片手で持ちながら後ろ手で手を降ってくれる。
「あ、いらっしゃいませ。白波先輩!」
「沙羅ちゃん。こんにちは。お邪魔するね。」
すれ違った沙羅は満面の笑みを先輩に向けて挨拶をしている。その姿はやはりこの店を明るい雰囲気に仕立て上げられる立派な看板ウエイトレスだと思う。
「……!」
そんな姿を目で追っていると沙羅と視線が合った。その後にニコリと微笑まれる。本当は手を振り返してあげたいけれども店内で公然といちゃつくわけにもいかず苦笑いするしかない。いつ見ても目に入れても痛くないくらい可愛らしい。そんな子が、想ってくれる存在が二人も居るのだから俺は果報者だと思う。
⁂
喫茶店の変化といえば思い浮かぶのはもう二つ。
一つはメニュー表。明らかにデザートメニューが豊富になった。先輩がいた頃に店長に進言をしていた改革があることがきっかけでトントン拍子にすすんだ。以前はロールケーキといくつかの定番的なパウンドケーキなどがいくつかある程度。美味しいけれども、他店と比べて良いラインナップとは言えなかった。
ただ今は季節限定のフルーツ。今はイチゴをあしらったタルトやモンブランなど、以前に比べると格段に華やかなラインナップが追加されている。
このデザートは
確かなことは新米の社員として朝早くから働く彼女が一部作っただろうそのデザートは申し分なく美味しい。今度はどれもドリンクメニューの味が申し訳なくなるくらいなのである意味ではバランスがまた取れていないとも言えるのだけれど。
自分の夢を叶えた彼女は眩しいくらい羨ましい。そう心から思っているのだけれど、口に出して褒めると彼女はそっけない態度をとる。先週に出会ったときもこんな様子だった。
「今月のメニューも美味しかったよ。藍沙はやっぱりすごいね。」
「私が作ったのは少しだけよ。……少しだけ。……でも……ぁ……とう。」
顔をあらぬ方向に向けてぼそっと喋る彼女の言葉は聞こえなかった。
「ん?どうしたんだ?」
「なんでもない!」
ちょっとだけ怒ったような口調の言葉を投げ捨てて彼女は踵を返した。
「またね、
「あ、おい。」
追いかけるようにかけた言葉は宙を舞って彼女に届かず地面に落ちてしまった。
ショーケースにもう数少なく並ぶデザートを眺めると。見えない苦労が積み重なって出来上上がっただろうその繊細な装飾を眺めていると、彼女自身の繊細な心が表現されているようにも見える。そんなことができる彼女が本当にすごいと感じて羨ましい。
⁂
喫茶店の変化はあと一つ。ウエイトレスではなくて俺と同じ主には裏方を行うアルバイトスタッフに一人の後輩が入った。もう2年目以上になる俺はそんな後輩の教育担当となった。まあ、名ばかりの担当で特別な何かをするわけではないのだけど。
「三崎先輩。休憩終わりましたー。」
「
「先輩、過保護ですよー?くすくす。」
彼女は
「えー過保護かな?」
「先輩は女の子に対して誰にでも優しくしすぎじゃないですかぁ?」
その言葉には少しドキリとする。彼女は俺の周りに全くいなかったようなタイプ。不思議な雰囲気を醸す眠たげな眼とゆるくウェーブがかった金髪を今は帽子の中にしまい込んでいる。
有り体に言えば彼女は少し苦手だった。可憐な沙羅と愛とは違う系統の美人でイケてる容姿の女の子。湊や白波先輩のように割り切れるような性格のようでもなく、藍沙のように幼なじみでもない彼女とはどんな風に接して良いのか分からない。俺はいつもどこか挙動不審になっていないか心配だった。
「八方美人にはしてないつもりなんだけど。」
「そーですか?ま、確かに梅ヶ谷さん達には特別優しいですもんね。」
紫雨さんは眠たげな眼が少しキラリと輝かせてどこかあやしく笑う。
「あはは。やっぱり?」
そんな彼女の言葉に頭を押さえて笑って誤魔化すしかない。どこかいつも試されているようで落ち着かない。
「ふーん。」
「ちょっと、紫雨さん近くない?」
「くす。そうですか?」
彼女は狭いカウンターの中で口元を釣り上げて半歩近づいてくる。面白い玩具としてでもからかわれているのだろうか。
「……三崎先輩。3番追加ですけど。」
「あ、はい。」
いつの間にかそんな俺たちの様子をカウンター越しに沙羅がジトッと見つめていた。ああ、まずい。きっと何か誤解されている。
「ほら、紫雨さん。オーダー作ろう。」
「はーい。わかりました。」
どこからかくすくすと笑う紫雨さんの声が漏れ聞こえてくるようだ。一方で沙羅はさっきみたく甘い微笑みは何処かへ行き大層ご機嫌ナナメのよう。帰り送る時に誤解を解いておかないと拗れると厄介だ。ただ、もうどんなフォローをしても愛にまで話が共有されてしまう気がするので手遅れ感はある。
⁂
「三崎先輩。お疲れさまでーす。」
アルバイトが終わった後もご機嫌ナナメな彼女は継続していた。
「沙羅。向こうの駅まで送るよ。」
「ふーん。」
分かりやすく拗ねる彼女はとても可愛らしい。心のなかではそう思うけれども俺は必死だった。でもちゃんと手を伸ばすと彼女は手を繋いでくれる。今日も彼女の手は温かくて小さい。春の陽気に包まれる4月の空気は夜でも随分と温かくなった。彼女の手はそれよりもずっと優しくて心地良い。
「みーくん。さっきはごめんね。」
電車に乗ると沙羅は小さな声でそう言った。
「いや、俺と紫雨さんがちょっとだけ近すぎただけ。」
「まあ、カウンター狭いもんね。しかたないよー。」
それも確かなのだけど彼女の距離感は近い気がする。
「でも、ちゃんと私達に構ってねー。」
彼女は少しだけ混み合った車内で繋いだ手を小さく揺り動かして、いつもどおり優しい笑みを浮かべる。
「……今度3人でお花見にいこうか。」
「あ、うん!あーちゃんとお弁当作ってくるね。」
「作ってくれるの?すごい楽しみ。」
「ふふーん。任せてね。いっぱい作ってくるから。」
彼女たちが作る料理は間違いなく美味しい。割となんでも器用にこなすし、通じ合った二人が並列で作業するのできっと効率も良いのだろう。
「えへへ。あーちゃんにも言っておくね。」
「いや、後で愛にも俺から言っておくよ。」
「あ、みーくん。分かってるー。みーくんから言われたほうが嬉しいもん。」
彼女達の片方に伝えて伝言をするのはあまり良くないのは分かっている。特に今回のようなデートの約束だとなおさらだ。
彼女達の最寄りの駅へとたどり着き、改札をくぐると愛が待っていた。
「あ、さーちゃんとみーくん。おかえりー。」
愛はサンダルの音を響かせてパタパタと駆け寄ってくる。
「あーちゃん、ただいまー。」
「愛、ただいまー。ふふ、違うか。」
「んー。みーくんも私達のお家に住んでくれるの?」
「いつでも良いよー!」
「「えへへ。」」
二人は俺の手を左右で取り合ってくるくると回るように笑う。
「ちょっと居候になるには……。」
「えー。いいのにー。」
二人は甘えるように俺のことをみてくる。そんなこと御両親が許してはくれないだろうに、ただ俺を困らせて遊んでいるだけだ。
「愛、今度3人でお花見に行こうか。」
「あ、うん!さーちゃんとお弁当作ってくるね。」
期待通りさっきと同じ言葉を聞くことができる。2度楽しそうな彼女の表情が見ることができるのでお得なのかもしれない。
「楽しみにしてるよ。」
「「私達に任せてねー!」」
どんなお弁当になるだろうか。いまからとても楽しみになってくる。さっきまでのご機嫌ナナメな嵐は過ぎ去ってくれたようだ。
「みーくん。もう帰っちゃうのー?」
「もう遅くなるからね、今度は愛のことを送るから。許して。」
「んー。わかった!約束ね。」
愛は小指を立てて小さくそっと差し出してくる。その細い指と指を絡み合わせて指切をする。
「ああ、約束だよ。」
なだめるように愛に声をかけて約束する。
「みーくん。私とも約束しよ?」
「沙羅とは何の約束したらいいの?」
「えー。うーん。……なんでもないけどするだけ!」
両手の小指をそれぞれと絡め合って揺らす。二人の揺れが揃って身体に伝わる。
「沙羅、愛。二人とも好きだよ。」
「「うん。みーくん、好きだよ。」」
こちらから発するくすぐったい恋慕の言葉も最近はようやく言い慣れてきた。ただ、相変わらず両側から多重で言われるのは心を直接揺さぶられるようにどこか落ち着かない。
「またね。」
「「またねー!」」
二人共に別れの挨拶をして元来た電車に乗り帰宅していく。すっかりと夜に染まった外の光景を眺めながら、いつもどおり答えがでない考え事をする。二人のことが好きなのは違いないけれども、どうやってこの先関係を深めていけば良いのか全くきっかけが分からない。
愛情表現の過激な男女ならさっきのような別れ際に物陰でもしかするとキスくらいするのかもしれない。こんな下らない事を思い悩んでいるこの半年。以前はどこか彼女達の受験を自分の中での言い訳していたけれど、大学に進学した彼女達との関係をこのまま停滞させるわけにはいかない。
大学の3年の間でも文芸学部に通う新1年の美人双子のことは小耳に挟む。二人を狙う余計な男だって増えているだろうからこのままうかうかしているのは良くないとは分かっている。
だけれども。
「3人で同時にキスなんて出来ないよね。」
思わず小さく言葉にしてしまうくらいには分からない。頬にならまだしも口にどうしてしたらいいのだろう。沙羅か愛、どちらか先にするのは軋轢が生まれそうで良くない。
「はぁ……。」
贅沢で大層下らない悩みだと思う。双子って難しいな……。
✢
「店長。お疲れさまでーす。」
「ああ、紫雨さんお疲れ様。」
春から大学の近くで始めたカフェのアルバイトは思っていたよりも楽だった。前のアルバイトみたいに忙しくもなく店内で声掛けしてくるような変な客もいないし、基本裏方だからとっても気が楽。
一応入りたてなので心象が悪くならないように店長に声をかけて店を後にした。外に出るとふわりと吹く夜風はどこか生ぬるくて居心地が悪い。駅前から聞こえる喧騒は煩い。こうしてような無駄に騒がしいのは嫌い。
「沙羅。向こうの駅まで送るよ。」
そんな騒音を塞ぐ様にイヤホンをはめる直前、聞き覚えのある声が聞こえてふと駅前を見る。アルバイトの先輩の三崎さんが私の同期の梅ヶ谷さんが仲よさげに並んで歩いている。
私は自分で言うのもアレだけど結構見た目が良いと思う。街を歩いていたり、バイト先で知らない男の人に声をかけられるのは大嫌い。だけど、まあ。可愛いと評価されているからと考えればそこまで悪いことでもないのだと思う。
だけど、梅ヶ谷さん達はそんな私でも羨ましいくらい美人だと思う。それでいて中身まであんないい性格しているような子には初めて出会った。最初は演技かと思っていた。彼女とはあまり話さないけれども演技でないことは傍から見ていればすぐに分かった。
「なんで、あんなに可愛いのに三崎先輩のことなんて好きなんだろう。」
それはずっと疑問だった。三崎先輩は見た目がそこまで悪いとは言わないけれど、梅ヶ谷さん達ならもっとカッコイイ男子と付き合えるのに。それに双子二人して同じ人を好きになるなんてどんな感情なのだろう。それがすごく不思議だった。
「ま、私には関係ないか……。」
そうつぶやいて、煩い音が飛び込んでくる耳にイヤホンを差し込み、綺麗な音で重ねて塞ぐ。
一人暮らししている寮に向けて、ぽつぽつと一人で歩いていった。アルバイトするのもお金が欲しいからっていうよりもただの暇つぶし。今日、先輩をからかったのだって暇つぶし。もしも先輩が勘違いして面倒くさそうになるならまたバイト変えるだけ――。ただ、それだけ。
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