第24話 妖精のイタズラ

 カタカタカタとチェーンとスプロケットが擦れる音が不気味に響く。上空数十メートルに吹く秋風は地上の比ではないくらいに強い。

 ジャケットを羽織ってきた俺はまだ暖かいけれども、もしかすると長袖のTシャツ一枚の沙羅さらは寒いかもしれない。さっきから隣の彼女はじっと神様に祈りを捧げるように必死な表情で真っ直ぐと目の前だけを見ている。

 目をつむると視界が暗くなりすぎて音に敏感になってしまう。けれども、横を見ようものなら今俺達が今から放り出される高さが身体で分かってしまう。だからこそ彼女は今、前だけを真っ直ぐと見つめている。

「大丈夫―?」

 風に負けないようにしっかりと大きな声を出す。俺も本当は内心は怖いのだけれども、彼女の手前そんなことをおくびにも出すわけにはいかない。

 

 意地が悪い設計なのか登りの天頂を超えた先、地面と対自する角度で車体が停止する。このまま止まらなければ無重力とカーブの加速度に振り回されて終わりのはずなののに、どのタイミングで落ちるかわからない緊張感に支配される。地面を見て目を回しているのか彼女は口元をいつになく歪めて今にも叫びそうだ。


「みーくん、大丈夫、大丈夫、うんー!手、手を握ってて!」

 泣きそうな声で彼女は大きな声をだす。他の客も似たようなもので風の音に負けないように皆大きな声を出しながら動揺を隠しきれていない。

 沙羅の願い通りにロックカバーにしがみつく手に俺の手を上から添える形で包み込む。


「まだー?まだー?落ちないのー!」

 そんな沙羅の声に呼応するように、カチリと機械的なロックが外れる音がする。その刹那、レールと車輪の間の摩擦以外車体を止める要素は無くなって重力にすべてを任せ落下が始まる。ふわっと内蔵が浮く無重力の感覚とぐっと迫る地面。

「だめー!やっぱだめー!落ちないで―!きゃぁーーー!」

「あぁーわぁーー!」

 地面との距離が0になる手前、ぐっと90度横へねじれた急カーブが始まる。ふわりとした感覚から一転して内臓がぐっと下へ押さえつけられる感覚が襲う。

 本来なら俺も目をつむりたいけれども必死に横目で沙羅を見る。叫んでいるその声は悲鳴にしか聞こえないし絶対に怖がっているはずなのに不思議と彼女は笑っているように見える。


「あはは。っぁああー!」

 何度も空に上がって地面に降りて、また90度にねじれたと思ったら1回展して。肩に掛かったロックカバー以外に身体を押さえるものはなくなってしまう。

「きゃぁー!えへへ、ぁーーまだーー!?」

 朝方に気合を入れてセットした髪はとうに崩れてしまったに違いない。沙羅の縛られたロングヘアも自由気ままに宙を飛び跳ねている。そうだった。ジェットコースターってこういう楽しさだった。久しぶりに味わう感覚に嬉しさがこみ上げる。


 最後の急カーブを超えて車体は急減速していく。ガラガラとチェーンが車体を元の入り口に運んでいく。時間にしたらきっと始まってから3分も経っていないはずなのに想像よりもずっと高いその密度と振り回された身体が高揚しているのが分かる。

「あはは、怖かったー!ふふ、えへへ。」

「楽しかったねー。」

 沙羅は落ちる前の泣きそうで必死な表情から一変して、満面の笑みに戻っている。手は相変わらずにぐっと握りしめたまま小さく震えているのだけれ

 ど。


「みーくん!別のやつにも行こー!」

「いいよ、さあ行こう。」

 足元がおぼつかない彼女を車体からぐっと手を引っ張りあげながら支える。

「うん、ありがとう!」 

 まだ三半規管がおかしくて地面が揺れている気がしてくる。2人して階段をゆっくり手すりへと頼りきりながら降りていく。

 やっとの思いで地面にたどり着いた俺は一息つこうかと思ったけれど、いつの間にか立場は逆転して沙羅が俺の手を引っ張りドンドンと進んでいく。

「ほら!いくよー!」

「わかった、わかったよ。まってまって!」

 弾けるような明るい沙羅の声に身体だけじゃなくて、ぐっと心までも引っ張られてしまいそう。もうすっかり俺は虜になっていて彼女の重力から逃れられないのにまだまだぐっと引き寄せられてしまう。


 ⁂


 次に来たエリアは流れるプールを巨大にして凶悪にしたようなアトラクションだ。上空は寒さを感じたけれども、元通りに地上にいると陽射しが暖かいので多少の水濡れ自体は問題ないと思う。だけれども、多少、で済むのだろうか?出口から笑いながら出てくる先客達は皆ずぶ濡れという表現に近い。

「沙羅、これは水族館の二の舞じゃない?」

「えへへ。だーじょーぶ。今日はねこれがあるから。じゃーん!」

 おそらくこのエリアについては下調べをしていたのだろう。沙羅はカバンから折りたたんだ雨合羽を取り出して見せ付けてくる。

「おおー。凄い。下調べバッチリだね。」

「えへへ。そうでしょー?」

 ただ、彼女が手に持っているのは1枚。もしかしたらの可能性にかけて一応聞いてみる。

「俺の分はある?」

「あ!――んふふ、ないよ!」

 彼女の視線が一瞬泳いだのを見逃さなかった。きっと忘れていたのだ。

「そうだよねー!」

 それでも悪気なんてまったくない満面の笑みで答えられたら彼女に怒る気持ちなんて微塵も沸かない。

「タオルは持ってきたし、もしもまたみーくんが風邪引いたらおうちに行って看病してあげる!」

「なら……いいか!」

 横の出口を通る先駆者達は水も滴るいい男女か雨合羽を被る用意周到な人たちのどちらかだけ。勝者がどちらかは火を見るよりも明らか。そして俺はきっと敗者に違いない。自分自身を鼓舞してアトラクションの列を進んでいった。




「みーくん。びしょびしょだねー!」

 大きな浮き輪みたいなボートに2人で乗った俺達は滝のような落下や渦潮のような流れや水しぶきににもみくちゃにされた。透明なコートに包まれた沙羅はジェットコースターの時と違って満面の笑みのまま俺の姿をニコニコ見ている。俺はずぶ濡れなので目の前が見えにくい。

「もう濡れないかなー?」

 始まってからそれなりに時間が経ったので終盤に差し掛かっているはずだ。

「ふふ、どうだろー。後もう一回くらい……。」

 トンネルの暗闇を進んでいたボートは急に角度を変えてがくんと穴へと吸い込まれる。トンネルの先に見えていた光の出口はフェイクだったようで、その手前で急に流れ落とされる。

「きゃーー!」

 沙羅は進行方向に背を向けていた関係もあって気がつくのが遅れてしまった。ボートがずるっと流れ落ちた先、本物のトンネルの出口をくぐり抜けると最後の水の洗礼が待っていた。入り口から見えていた流れ落ちる滝はここのようだ。水飛沫と太陽の光は容赦なく2人に降り注ぐ。

 

「あぁーーー!あははは!」

 水に濡れた顔を拭って、陽の光に晒され明るくなった辺りを見渡すと沙羅も顔を手で拭いている。直前まではコートのフードが降り注ぐ水しぶきから沙羅の全身とその頭を守っていた。

 けれど、運悪く最後に油断したのが仇になったようだ。驚いてフードを必死に押さえていた手を離してボートにしがみついたため、衝撃で外れあらわになった彼女の髪はしっかりと濡れてしまっている。

「沙羅も髪だけはびしょびしょだな。」

「えへへ。風邪引いたらみーくんが看病してねー!」

 ポニーテールから水を垂らしてニコニコとしている。ゆらゆらと揺れているボートの上でまた看病の約束をして笑いあった。


「はい、みーくんタオル。」

「先にアイの髪を拭かないと。」

 そう言って手渡された彼女のタオルをそっと頭にかぶせる。

「髪ゴム外した方がいいんじゃない?」

「えへへ、そうだねー。ありがとう。」

「アイのタオルなんだから、お礼なんて要らないよ。」

 彼女の髪を押さえていた髪ゴムをするっと外すと、ふわりと髪の毛が広がる。

「髪の毛長いから大変だなー。」

「お手入れ大変だけど、みーくんは長いほうが好きでしょう?」

「え、そうかな?」

「ショートカットの私も見てみたい?」

 その言葉に想像を重ねる。クリクリとした目にサラサラとした短い髪。きっと、いや間違いなく似合う。

「いつか、アイが切りたくなったら見せてよ。絶対似合うから。」

「んー。えへへ。わかった!」

 いまは春じゃなくて夏だけど。青春ってこういうことなのだろうか。胸の奥が誰かが居座っているみたい。苦しいような甘いような言い表し難い感情。だけれども確かなきらめきは感じる。ああ――幸せだな。



 ⁂


 

「当園が誇る感情の反映展へようこそ。このアトラクションは光と鏡の相互作用で会場へ訪れていただいた皆様に空間知覚と位置認識の曖昧さを体感してもらうことが目的です。」


 暗い通路の先には光反射する部屋が見える。その中でしっとりとして落ちついた女性のアナウンスが繰り返し流されている。このアトラクションは鏡張りの迷路の中、方向感覚を失わせた状態で光と音のアートが楽しめるらしい。

「みーくん。感情の反映だって。んー私の綺麗かな―。」

「俺のも綺麗だといいけど、鏡だらけなんだろう?ぶつからないでちゃんと歩けるかな?」

 パンフレットには最低限の情報しか書かれていないし迷路の中の情報をあまりSNSで拡散しないように願い書きがされている。じっくりとネットで調べたらこっそりとネタバレしている書き込みもある気はするが折角だったら前情報なしで楽しみたい。


「視覚という情報を制限されたこの空間で音響効果に包みこみ、新たな感情の視点を提供致します。この展覧会では足元と目の前に十分にご注意頂きますようお願い申し上げます。特に隣と前後に歩かれる方との距離が分かるよう警告を発するお渡しした器具を手放さないようゆっくりとお進み下さい。」


 入り口で手渡された小さなデバイスは沙羅と他の客との距離に応じて心臓の様に鼓動する。確かに彼女に近づくとビートが早まって近づきすぎなのが分かる。


 長い通路の先暗闇を超えると、光の氾濫のような光景が目の前に広がる。

「わぁ……。」

「おぉ。」

 地面と入り口以外の4方向すべてが鏡に包まれて足元や天井からは様々な光りが降り注ぐ。乱反射を繰り返した先には俺達の姿が無限に思えるくらい続いている。光だけじゃなくて音まで反響するように設計されているのか、足音や漏れ出した感嘆の音も残響のように広がっていく。


「みーくん。」

 沙羅がささやく耳元でささやく。近づいたデバイスが一段と強い振動を発する。

「ふふ、どうしたの?」

「ううん、なんでもないよ。すごいねぇ。私たちがいっぱい。」

 沙羅は鏡にぶつかるのが怖くないのか先に進んでくるりと踊るようなステップを刻む。

「わ、危ないよ。」

「大丈夫だよ。えへへ。」

 アナウンスの警告通りに俺は空間知覚の機能がすっかりと麻痺してしまっているようだ。一歩彼女に踏み出すだけでもかなり緊張する。

「ほらほら、みーくんこっちだよ。」

 手招きする彼女が2方向に見える。いや、2方向どころじゃなくなっている。3方向、4方向。気がつくとあらゆる方向に彼女が立っている様に見える。

「サラ急ぐとぶつかるよ?」

 彼女が怪我しないか心配になる。

「みーくん。大丈夫だよ、ここにいるよ。」

「わっ。」

 もう少し先にいると思いこんでいた彼女はすぐ側に立っていた。袖をそっと引っ張られて頬をちょんと突かれる。

「イタズラ好きだなー。まったく。」

「ふふ、みーくんが可愛くてつい。」

 そういって彼女は1歩、2歩下がっていく。光のゆっくりした揺らめきの中彼女の手を取ろうとするけれども届かない。まるで夢の中で欲しい物がいつまでも手に入らないようなもどかしさを感じる。


 白昼夢に襲われたような幻想的な光景の中で、彼女は優雅に妖精が踊るように揺らめく。

「みーくん。」

 右から聞こえた気がするけれども、左から聞こえた気もする。もしかしたら前かもしれない。

「みーくん?沙羅はこっちだよ。」

 北欧神話のピクシーは旅人が出会うとくたくたになるまで時間の感覚を失わせて踊り合うらしい。そんなことを思い出した。

「降参だよ、良く歩けるなこの鏡の中で。」

「うふふ、コツがあるんだよ。目の前に自分の顔があっても別の感覚で歩かないと。」

「実はこんな感じの展覧会に来たことあるのか?」

 沙羅は手を後ろに組んだままコツコツと足音を鳴らす。

「んーそんなところかな。」

「ずるいなあ。俺はまったく苦手だよ。」

 そう言うと沙羅は静かに微笑みこちらに手を伸ばす。

「みーくんもそのうちに慣れるから大丈夫。ね?」

 そんな彼女にそっと手を伸ばすとそこは鏡だった。プラスチックの冷たい感触が掌に伝わる。外れを引いたので別の方向へと進む。

「沙羅?こっちか?」

 もう一度恐る恐る手を伸ばす。

「うふふ、正解。」

 今度伸ばした手はしっかりと温かで小さな彼女の手を掴み取った。

「もう離さない。」

「えへへ、そうしてね?」

 デバイスの振動が確かに強くなって彼女が側にいることが確かになる。そのまま手を取り合ってゆっくりと彼女に案内されるがまま迷路を進んでいく。


「綺麗だねー。」

「ああ、これはネタバレされていたら残念になっちゃうな。」

 キラキラと水晶の屑が崩れ去るような音、真っ平らな水面に一滴の水滴が跳ねる音、流星群がきらめく光の線。蛍が飛び交うような不規則な光のゆらめき。それらが反射して残響して、四方八方に拡散しては溶けさっていく。

「御波先輩と来れてよかった。」

「また先輩後輩イメージか?」

 行きの電車の中で話した内容を彼女が蒸し返す。

「えへへ、そうなの。なんとなくねー。」

「音結構響くから前後のお客さんにも聞こえてそう、ちょっと恥ずかしいね。」

「もしも聞こえてたら確かにちょっと恥ずかしいね。ふふ。」

 辺りから鏡が徐々になくなっていく。もうすぐ迷路の出口のようだ。

 ようやくこの夢から覚める事ができる。そろそろお昼時になる。今日の時間はまだある。夢から起きたら彼女と何をしようか。握りしめた手を強く握りしめるとしっかりと握り返される。それを合図に見つめ合って互いに微笑みあってもう一度暗闇を抜けて太陽の元へと戻っていった。

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