(秋)
気が付けば秋。
八月の間にアリサさんの姿はほとんど見なかった。
海デートがお流れになったのは、仕事が忙しくなってしまったことももちろんあるけれど、僕の反応が薄かったことに対してアリサさんのテンションも次第に着陸していったことにある。
男の娘デートじゃなければよいとそれとなーく説明したが、彼女は僕を女装させることを断固として譲らなかった。
なぜそこまで女装させたいのか訊くと、実は夏休みの課題に衣装の作品を提出しなければならないらしかった。それでちょうどいいモデルを探していたそう。そこに飛んで日にいる夏の虫だったのが僕らしかった。
つまりだ。
ハナから彼女の目に僕は恋人候補ですらなく、異性としてでもなく、ただの男の娘モデルにしか映っていなかったのである。
そんな事実を知ってしまった夏。
僕の失恋は確定的であった。
もっとも、普段お世話になっているので、課題に関しては協力した夏休み。これといって問題もなくアリサさんの課題は片付いた。しかしそれからことあるごとに彼女は僕を女装させようとした。最初は僕もそれで距離を縮められるならと思い、されるがままだったのだけれど、ついにアリサさんはSNSで「この可愛さを世界基準に!」なんて壊れ始めたので丁重にお断りした。
そこからだった。彼女の勢いが減速したのは。
ちなみに、「アリサさんがコスプレしたほうが映えるんじゃない?」と言ってみたけれど、どうにも初デートの天使の傷が未だに尾を引いているご様子。あと彼女はこうも言っていた。「男の子に女装させるのがわさびです」と。「いや、わびさび、ね」と訂正しておいた。
気になった僕は女装の歴史について調べた。『記紀』や『平家物語』の中でも女装は描かれており、日本は想像以上にHENTAIだった。もしかしたら僕の方が日本人じゃないのかもしれない。
先週の短編は『男の娘ニンジャ』というものを書いたが、めちゃくちゃ不評だった。
ところでアリサさんは夏季休暇の間、実家に帰省していた。帰国と言い直した方がいい。
そんなわけで、お盆を過ぎたあたりから彼女の姿を見かけることなく、僕のテンションも下がっていき、なんなら執筆にも熱が入らず、とうとう締め切りがやばくなっていた。
実は長編の依頼を受けていた描画があったことを読者の皆々様は覚えていることだろうけれど、全然進んでいなかった。
季節は秋に変わっていたのだけれど、したがって僕はいつもの喫茶店にも行けず、自宅で缶詰である。
まともに恋愛もしたこともない僕が、そもそも想像だけで人の恋を描くことに無理があったのかもしれない。そんな折に出会ったアリサさんは、僕にしてみても飛んで秋の虫。蛍は綺麗である。
しかし改めて思えば、ネタにしてきた罪悪感もある。
ちなみにだけれど、例の音無の曲は無事にロールアウトして、再生回数はそれなりに伸びているらしい。僕は原稿料を既にもらっていたので、春過ぎくらいにはノータッチだった。
けれど、こうして自分たちの作った作品が世に出るのは感慨深いものがある。
一日二〇回は聴いている。
思えば、完成させられなかった学生時代のあの頃に比べれば、僕らは遠いところまで来たもんだ。
そうそう、入絵川さんは『ロリポップ』のほぼ専属絵師として活動する
かくいう僕は、締め切りがやばいのに、恋に悩んでいたりして立ち往生である。アリサさんに会いに行きたいのだけれど、さすがに今回の長編を落とすと、滞納している家賃が払えない。
と思っていると、電話が鳴った。
相手はちょうど話題の入絵川さんだった。
「——入絵川さんから電話してくるなんて珍しい」
「あー、あんたさ、最近煮詰まってたりする?」
「……ちょっと怖いぞ。なぜわかった?」
「いやだって、こないだの短編微妙だったし」
常に自分のことで全力な入絵川さんにしては、珍しいと思った。他人のことなんてあまり気にしない彼女ですらわかってしまうほど、『男の娘ニンジャ』は酷かったということなのだろう。
「人間は完璧ではない。誰にだって調子の悪い時もある」
「ところでさー、音無がまた一緒にやりたいって言ってんだけど、あんたどうする? あたし的にはあんたに物語作ってもらったほうが楽なんだけどね」
「今回はパスかな」
「そ。じゃあ、音無にはそう伝えとく。でも、今回もアリサちゃんに歌お願いするそうだけど、いいの?」
「……僕には関係のない話だよ」
「こないだ連絡した時、アリサちゃん元気なかったから。もしかしてあんたとなんかあったのかなーって」
「……別に」
「ならいいんだけど。てか、アリサちゃんやばくない? 可愛すぎない? なのになんであんたあんな子と知り合いだったの? てか世間狭すぎない!?」
「ああ、そうだね」
「……やっぱなんかあったの? ほれほれ、入絵川姉さんに話してみ?」
「本当に何もないと思う。強いていうなら、コスプレが趣味の彼女とは価値観の相違があったとしか」
「よくわからん!」
僕にだってわからない。
自分の愛情がそこまでだったのかと僕は僕に落胆している。たとえ愛する人がどんな趣味嗜好を持っていようが、愛せるものだと思っていた。
いや、僕は怖くなったのだ。
美人な彼女に僕は不釣り合いで、売れっ子ではない僕が彼女を幸せにすることなんてできないのだ。
きっと住む世界が違う。
彼女に近づいていくごとにそれを知って、僕は踏み込むのを躊躇った。
きっと今頃は向こうの、心優しいイケメンと幸せにやっているのだろう。それでいいと僕は切に思う。
「——そだ、書間。お前あれな、アリサっちに次の曲の依頼しとけな」
と、いつの間にか電話の相手は音無に変わっていた。
「……なんで僕が」
「それから、書間は強制参加な。次、純愛ラブソングで行くから。ストーリーと詩もよろしく。できればポップ路線だが、切ない感じも出して、書間ワールド全開かつ、きゅんきゅんくる感じで頼むわ!」
「ちょ、ま——」
ぷつり、と電話は切れた。
なんなのだあいつは。
僕は今、それどころではないのだ。締め切りがやばいのだ。詩なんて毛色の違うことをやっている余裕なんて……。しかもなんだ。ポップで切なくて僕の世界全開とか。そんなもの、僕が一番知りたいぞ。
僕は長編の答えを探そうと、天井のライトを見上げた。
頭の中では、男の娘が恋に奔走していた。
ところで僕はアリサさんの連絡先を知らなかった。そこで、音無の話を伝えるため、僕は久しぶりに行きつけの喫茶店に向かった。正直、どの面下げて会えばいいのかわからなかった。
そんな躊躇い。
のち、僕は決心して喫茶店の扉を開けた。
店主のおじさんはいつも通り「いらっしゃいませ」と渋い声で言ってくれ、お客さんの何人かが
そんな中。
ウォーターピッチャーがごとりと地面を叩いて、水がぶち撒けられていた。
目を剥いたアリサさんはものすごい勢いで接近すると、僕の手を握り締めて、キラキラと輝く目を向けた。
「いとほし、かなし、らうたし、いと美しき」
文語で可愛いを連発するアリサさんは鼻血を出していた。
今更だけど、別に僕はイケメン俳優ばりにイケてるわけでもなければ、アイドルばりに可愛い面立ちというわけでもない。
「——その子、アリサちゃんのお友達?」
と、渋い声の店主さんが問いかけた。彼は僕のことを覚えているはずなのだけれど、そう問いかけた理由を、説明するまでもなかろう。
「そうですよー、てんちょさん。この人は日本でできたアリサのお友達なのですっ」
ぎゅーってされた。
とてもいい匂いがした。
無駄に女装したご褒美だった。
作家辞めて、女装配信でもやろうかと思った。
アリサさんは僕の手を引いて、奥のテーブル席に案内すると、「いつもの卵サンドですか? それともタピオカドリンクに苺パンケーキにします?」
可愛いもの攻め。
喋ると正体がバレかねないので、僕はひたすらに頷くだけだった。
「にゅふぅー、かわゆしかわゆし」
頭を撫で撫でされた。
こんなテンションのアリサさんを初めて見た。彼女は僕の頬をつんつんして、「ちょっとお乳揉んでもよろし?」とエロ親父みたいなことを言ってきた。もちろん断っておいた。パットを入れる女子の気持ちが少しわかった気がした。
そうして注文の品が到着するまでの間、バレやしないかとソワソワしながら待つことになった。
アリサさんは、タピオカドリンクとパンケーキを二セット運び込んで、
「午後から半休を頂きました。ご一緒してもいいですか?」
僕は頷いた。
するとアリサさんは、なぜか隣に腰掛けた。手慣れた様子でフォークとナイフを操った彼女は、「はい」と切り分けたパンケーキを向ける。
もうこれは恋人同士と言っても過言じゃないかしら。
いや、わかっている。わかってはいる。アリサさんに他意はなく、ただ彼女は可愛いものと男の娘という特殊な人種に対して熱狂的なだけなのだ。
けれど、パンケーキをもぐもぐするアリサさんは実に幸せそうにしていたので、僕は何も言わずその横顔をありがたく拝めることにした。
「ホースホース、うまうま」
それじゃあ、馬が美味いみたいに聞こえるので、ちょっと残酷だった。
『ところで』
と紙ナプキンに書いて、僕は用意していた大学ノートを開いて見せた。
僕は無駄に女装をしにきたわけじゃない。実はここに来る前、音無からの依頼のことをノートに書いていた。
文面を追っていく彼女の目は流麗な動作だった。いつもは指で丁寧に追って理解するのだけれど、どうやらほとんど自然に彼女は理解しているようだった。
いつもの柔らかい笑みを彼女は向けた。
「もちろん、私で良ければ是非」
これで、音無からの言伝も済ませたことだし、自分のことに戻ろうと、パンケーキを素早く食べて立ち上がった。
するとアリサさんは僕の袖を掴んだ。
「……少しお時間を、いただけますか?」
そう問いかけた彼女の綺麗な瞳が強く何かを訴えかける。
ええ、と疑問形気味に返事をすると、アリサさんは小走りで一旦店の奥へと消えていった。
戻ってきた彼女の胸元には白い紙束が抱きしめられていた。それがなんなのか僕はすぐに思い出さなかった。
「あの、私、読めるようになりました」
そう言われても、僕はまだ思い出さなかった。
それが、いつかの春に送った物語という名の恋文だったことを。
「好き、です」
え、と聞き返した僕は間抜けな顔をしていたことだろう。
「夏の間勉強しました。この作品……とても好きです」
ああ、作品って意味ね。
夏休みの間にアリサさんは原稿を翻訳してくれたようだ。しかし数万字にものぼる原稿を突きつけて、普通なら「イタい」「キモい」とバッサリ切り捨てるところであろうけれども、そこがアリサさんの心の清浄さなのである。もはや僕は何度目かわからない恋に落ちるしかなかろうて。
けれど、嬉しいような、虚しいような、少し複雑な心境。
「あなたのファンになりました」
でもそれは。
好きな女の子に告白されるよりも、作家にとっちゃ一番幸せな言葉だった。
「それであの、感想を書かせていただいても? 自分の言葉で伝えたいと思うのです」
僕は笑顔を返した。
「もちろんだよ」
それからアリサさんはテーブルとノートに向かって、あの物語の皮をかぶった恋文への感想を
彼女の言葉を見るに、純粋に物語として見ているようだった。それだけではなく、どうやら音無から紹介されたらしく、僕のこれまでの短編なども読んでくれたそう。彼女は全部の作品に対して素直な感想をくれた。
それはもう、熱心なファンレターだった。
どんな綺麗な言葉よりも。
どれだけ選りすぐられた言葉たちよりも。
アリサさんがくれる言葉に、僕は胸震える思いだった。
化粧が崩れないように、僕はそっと涙を拭く。
——気が付けば、夜が降りていた。
結局、いつもの勉強会みたいに閉店まで居座ってしまった。厳密には閉店時間を過ぎていたのだけれど、店長さんは暖かく見守ってくれた。彼の「駅まで送ってあげなさい」という後押しがあり、僕とアリサさんは天高く馬肥ゆる秋のもと、紅葉に萌ゆる並木道を歩いていた。
不意に、冷たいものが指先に触れた。
「……少し、肌寒いですね」
それが彼女の冷え切った指だと遅れて知る。
「……うん」
暗闇の中を
「あの、私……」
僕は素早く行間を読んだ。
あとに続く彼女の言葉がなんであるか、あるいは彼女が何を言わんとしているのか。
これはもう、ゴールイン間際だろうて。
僕はチキン王であるけれど、未だに女装男子ではあるけれど、ここはやはり男の子の威厳というか、男らしく決めたいと思う。
「月が、綺麗ですね」
満月の夜だった。
月が落っこちて来そうなほど存在感を主張していた。
それは漱石を引用した渾身の告白。
まさかチキンの僕に「好きです」なんて面と向かっているはずもなく、ましてや愛しているなんて口が裂けても言えなかった。漱石先生は実に素晴らしい告白の言葉を後世に残したと思う。
「何を言っているのですか? 月は綺麗ですよ?」
うん、知ってた。
伝わんないよね。
ちなみに、アリサさんの言わんとしていたことは、お腹が空いたのでご飯を食べようとのことだった。
現実は小説のようにもどかしい食欲の秋。
たいへん彼女がいと愛おしく。
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