届かない恋文

(春)

 気が付けば夕暮れ。


 今週も連載の短編退治たいじを終え、僕は深いため息を吐いた。


 ウェイターさんにコーヒーのおかわりを頼み、窓際席から外の様子をながめる。都会でも田舎でもないベッドタウンの午後は穏やかに時間が流れていた。


 町は緋色ひいろに染まり、仕事を終わらせた人たちがポツポツと見受けられた。


 街ゆく彼らにはどんな物語があるのだろう。どんな家族を持って、どういう風に生きてきたのかを想像するのが夕方の醍醐味だいごみ


 そんな想像をきっかけとして、僕は世界に人を作る。


 と、こんな風に語れば、まるで暇を持て余した小説家のように思えるかもしれないけれど、これは仕事の一部だということを強調しておきたい。


 コーヒーが届いて、僕は綺麗なウェイターさんに「ありがとうございます」と頭を下げたのだけれど、頼んでもいないホットドッグが添えられていた。


 疑問符を向けると、ウェイターさんはにこりとして「お仕事頑張ってください。私からのサービスです」とホットコーヒー&ホットドッグよりも温かい言葉をくれた。


 重ねて僕は深く頭を下げた。

 お腹の虫も一緒にグゥと鳴った。


 僕はホットドッグをありがたく頬張ほおばりながら、これまで投稿してきた作品を改めて流し見た。先々週の『物書きAI』の出来はわからない。これまでの短編の出来がどうなのかもわからない。果たして僕は面白いものを書けているのだろうか。


 毎週毎週、あるいは毎日、そんなことを考えている。


 しかし虎視淡々こしたんたんとやってくる締め切りの前に、僕は工場ラインの如く無心っぷりで短編の製造し続けた。常に七〇点。それが自分の能力値上限だとわかっているから、高望みはしない。


 ただ、文芸誌のページを埋めるお仕事。そんな心持ちで読者に届けるのは失礼だとは思うけれど、これ以上の話を思いつかない自分が恨めしい。


 何か変化を。

 進化のきっかけはないか。


 そう思って、一昨日買った文庫本を広げようとした時、スマホが着信を知らせた。


 大学時代の友人だった。卒業後から今の今まで何の音沙汰もなかったので、きっと宗教の勧誘かんゆうか、怪しい商品の押し売りなのだろうと思って応答しなかった。


 だが、しつこいくらいに着信がなるので、仕方なく応じることにした。


「よ、書間。おひさ。最近どうよ?」


「ああ……とどこおりなく日常は過ぎゆき、連載の評判もよくなり始め、人生に春の訪れを感じ始めていた矢先、何年も音沙汰のなかった音無くんから連絡があった以外には順調かな」


「……文学チックにディスるなよ」


「それで、何? あいにく僕は忙しいのだけれど」


「母親に想いを届けたい」


「音無はロリコンだけではなくマザコン症も併発したのか? 馬鹿は死んでも治らないと言うけれど、刑務所に入った人はちゃんと更生するから、良い刑務所を調べておいてあげるよ」


「自ら服役していくスタイル! 民主主義の細かい手続き!」


「相変わらずのツッコミ役は健在けんざいで、柄にもなく昔日の時を懐かしんでしまった。若さと熱だけがふんだんに溢れていた四年間、モラトリアムという執行猶予待ちの僕らは、けれど自由だった。まるで僕らは、子供と言う罪人から大人へと変わる免罪符めんざいふをもらいはしたけれど、社会という牢獄の中で飼われるいびつな歯車だったことを大人になって知る」


「お前も相変わらずの口調で安心したぜ。んでよ、書間。お前にストーリーを頼みたい。ちゃんとしたビジネスの話だ」


「旧友の頼みならば、喜んで脱獄を手助けしてやろう」


「人の話聞いてた?」


「大丈夫だ。実は水面下で準備している長編は、ノリの軽い男がロリコンの罪でムショ送りにされて、実は大学時代から密かに想いを寄せていた漫画家を志す女子がムショに殴り込みをかけて愛する男を救出するというスペクタクル大作だ。二人は互いが救われ合うことによって、互いの愛を知っていく。亡命先の南国で、二人は幸せに暮らしましたとさ」


「……なんか、どこかかで聞いたようなキャラが使われている気がするんだが。ちょっと面白そうだし」


「主人公の名は音有おとありくんに、ヒロインは絵川えがわさんにしよう」


「悪意しか感じられない。大丈夫だよな、それ。音有くんと絵川さんはよく文芸である官能的な展開にはならないよな?」


「案ずるより産むが易し」


「絵川さんご懐妊!」


「と言っている間に、いいアイデアが浮かんできたよ」


「本当か! 朗報だな!」


「母と息子の近親姦もの」


「ウェイウェイウェイ! ちょっとウェイト! 違うから! 股間にダイレクトなやつじゃないから! あと、主人公は女の子!」


「熱くて激しい思いをたっぷり込めればいんだろう? シモい意味で」


「そうそう、俺の股間が大噴火間違いなしなロリユリ路線を……って、チッガーウ!」


「ちょっとみない間に音無の性癖が凄まじい速度で開発されていて僕は嬉しい限りだよ。その調子でネタ製造機として活躍して欲しい」


「全年齢対象でオネシャス!」


「わかってるよ、愛する母親への想いを抱える幼女の純粋な気持ちを表したものだろ?」


「……ちょっと今、寒気がしたぞ。え、何? お前もしかして俺の部屋に盗聴器とか仕掛けてんの?」


「まさか。さすがに犯罪は犯さないよ。実は音無と入絵川さんが同棲どうせいを始めているらしいと風の噂では聞いているけれど、盗聴器なんてまさか」


「……頭の中覗かれてるぅ!? あいつが困ってたら部屋くらい貸してやろうと考えている俺の脳には読み取り機的な、SFとかでありそうな超科学的装置が仕掛けられてんの!?」


 もっとも、最近の入絵川さんの連載が怪しいなと、漫画に関してはズブの素人である僕ですらもわかるほどだったのだ。


 ああ見えて他人の心理に敏感な音無が、入絵川さんの心情を敏感に汲み取らないわけがなく、きっとそれくらいは容易くやってのけるのだろうという人物像分析からの発言である。


「けど、入絵川に絵を描いてもらおうとは思ってる」


 あの二人、なんでひっつかないのかなーと学生時代からずっと不思議ではあった。まあ、入絵川さんがツンデレで鈍感音無の組み合わせが最悪だったこともあるけれど、どうやらゴールインも間近なようで安心した。離れて初めて気づく恋情——これで一本書けそうだ。


「音楽の方はできてるの?」


「ああ、だが、曲に合わせて作って欲しくない。俺が合わせるからその辺は心配するな」


 こういうところは、本当に柔軟性がすごいというか才能の塊だ。


「とりあえずやってみるよ。愛する友のため」

「おう、頼むぜ。涙腺にガンガンくるやつな」


 てな感じで、古い知り合いとのやりとりを終え、僕は視線を外へ放った。


 ちょうど時間もあったことだし、適宜てきぎなタイミングでもあった。もしかしたら、音無からの依頼は僕に新しい色を混ぜ込むきっかけになるやもしれない。そんな予感。


 最近の僕は創作が生きる手段に変わり始めていると感じてもいた。しかし青い熱を思い出させてくれた音無からの提案は燃えるものがあった。


 僕の考えた話に入絵川さんの絵がついて、そこに音無の音楽がついた時、すごいものができるような気がした。


 さて、と僕はキーボードに再び向かった。


 母と娘か。


 正直、僕の作風には似つかわしくない設定ではあるけれども、音無の想像している世界の輪郭は頭の中でくっきりと浮かんでいた。


 音無はロリコンだから、主人公は当然ロリとして、そこに母を絡ませるとなると親子丼……はダメか。入絵川さんも加わるだろうから、少女漫画が主食の彼女にエロ同人みたいなことはさせられない。


 何か妙案を。


 そう思って再び僕は窓外を見た。


 夕暮れの時間は、家に帰らなくちゃならない寂しいひと時。でも、子供時代は家に帰ったら家族がいて、大人になってから夜は孤独なんだと気づく。自分が大人になれたか、なんてわかりはしないけれど。こうして時間が経つと、世界の感じ方が変わっていくのだけはわかった。


 見え方が違ってくると、また違う世界に出会える。


 他人と比べても、自分に才能がないことしかわからない。けれど過去の自分と比べてみればちょっとくらいは成長しているかもしれない気になってみたりする。


 そんな時に誰かに求められたりなんかした日には、自分が天才になってしまったかもしれないと気持ちが大きくなる。ならば全力で応えたい。


 僕は思考を回す。


 孤独。想い。母。ロリ。

 このワードから導かれる解は。


「歌うまロリ幽霊か」


 我ながらなかなかいいアイデアかもしれないと思ってからの筆は早かった。

 エンジンの点火したように僕の手はフル回転した。


 何気なく癖でカップに口をつけると、飲み切ったはずのコーヒーが入っていた。いつの間にれてくれたのだろうか。気が利く店である。


 ウェイターさんに会釈を向けると、彼女はにこりと笑った。


 ところで、僕の行きつけであるこの喫茶店は常連がぽつぽつといる程度の、実に静かで執筆にはもってこいの環境だ。


 というのは理由の半分。

 もう半分の理由はウェイターの彼女だった。


 輝かしい金髪に陶磁器とうじきのような肌、薄いブルーの瞳は知的な印象を授ける。異国の留学生か、混血なのだろう。客観的に見ても美人な彼女は引く手数多だと思う。


 ふと見せる笑顔が無邪気な少女のようで、いつしか目で追うようになった。


 例えばこれが小説の中の話なら、ビタースイーツ(笑)な物語が展開するのだろうけれど。


 名前はまだ知らない。

 聞き出す勇気もなければ、デートに誘う勇姿もありはしない。


 恋とは幻想であるからこそ美しいのかもしれない。もしかしたら綺麗なあの子は家でお尻を搔いたり鼻毛を抜いたりしているかもしれない。


 ……萌だな。


 彼女の被覆ひまくされた他所行きの仮面が取り払われて、僕にだけ見せてくれるだらしのない姿を想像してさえ、愛してしまえる自信があった。そんな風に誰かを愛してみたい。そんな風に愛せる誰かと出会えることはとても幸せなことなんだと最近思うようになった。


 そんな人に出会ったことがないからこそ。


 薔薇ばらとげがあるからこそ美しさは際立ち、桜は一瞬で散ってしまうはかなさがあるから人は魅了され、限りあるゆえ命は激しく燃え、真実の愛なんてものは存在しないからこそ人は愛を追い求める。現実とは常に美しさと醜さが同時に存在し、妄想の中では綺麗なところしか見ようとしないから、思いは勝手気ままに膨れ上がっていく。


 きっとそれは、叶いっこない夢のような話であるから、焦がれてしまう。


 あの子が他の常連さんと仲睦まじく世間話をしているのを何度か見た。今もにこやかに青年と話しているのが見えて、僕はモヤモヤとした想いを抱く。


 彼女は気が利きすぎるのか、執筆中の僕に話しかけてくれることはなかった。会計の時、「今日はいい天気ですね」「曇りですけど?」程度に噛み合わぬ会話をすることはあったけれど、それ以上の進展はなかった。


 しかしながら、彼女の仕事を頑張っている姿を眺めるだけで幸せをお裾分けしてもらえる気がして、僕はそれだけで満ち足りる。


「しかし愛とはなんだろう?」


 最大級の哲学的問題に打ち当たり、思わず僕は呟いた。


「人に与えること、じゃないですか?」


 小鳥のように綺麗な声が響いた。


 予想外の返事に僕は振り返る。あの子だった。ウェイターのあの人だった。心の声を聞かれてしまった気恥ずかしさに、僕の思考はあっという間に沸騰して気化してしまった。言葉が咄嗟に出てこず、僕は親鳥にえさを所望する雛鳥ひなどりのように口をパクパクしていた。


「あ、ごめんなさい。お仕事の邪魔をして」


「いえ……今日は……いい天気ですね」


 春らしい陽気な夕暮れ時。

 こんな日にはきっと、爽やかな恋物語が似合うことだろう。


「そうですね?」


 何か言葉を繋げようとしたけれど、事、文章では饒舌な僕であるけれど、恋する女性に対して途端に無口になってしまう。無口にならなければ、思わず「好きです」を言いそうになるからだ。


「……でも僕は、それだけじゃないと思うんです」


 僕は先ほどの話を蒸し返した。愛とはなんたるかに対する疑問だ。まだうまく言語化はできていない。あるいは愛を分解して語ることなんて不可能なのかもしれない。


「そうですね、恋は受動的ですけれど、愛は能動的ではないでしょうか?」


「確かに。そこには必ず感情が生じ、また恋とは好きな人に対する限定的な状態を指しますが、愛とは分け隔てなく人間すべてのみならず、他の動植物に対しても適応されます」


「言語には壁がありますけれど、愛という行為には限界がない。私はそう思います」


「自由で形もなく、ましてや正解不正解もない」


「はい。しかし愛には唯一無二の欠点を持ち合わせています」


「それが愛だと受け取れない場合は、愛にはなり得ない」


 彼女は静かに頷いた。


 面立ちは僕よりもずっと若いと思うけれど、僕よりもずっと確たる考えを持っていた。


「ところで、あなたは今、誰かを愛していますか?」


 真顔でかれ、僕は思いの丈をぶち撒けるかどうかに煩悶はんもんした。


「……はい、そうだと思います」


「届くといいですね」


 と、彼女は穏やかに微笑んで、コーヒーのおかわりをくれた。


「お仕事頑張ってください。サービスです」


 それもまた、無自覚な愛だった。


 砂糖をたくさん入れたコーヒーは、ほろ苦い。

 でも、正解の一つを掴めたような気はした。





 翌日。

 僕は、いつもの喫茶店に入って、卵サンドでランチを済ませた。


 昨晩は筆が乗ったので、朝にはロリ幽霊の話は出来上がり、ついさっき音無にデータを送ったところだった。


 次回の締め切りまで少し時間があったので、手持ち無沙汰になってしまった。この間に長編の骨組みを立てようと思うのだけれど、燃え尽き症候群だった。いや、燃えまくり症候群だった。


 不意にウェイターの彼女と目が合った。手を振ってくれた。


 心が萌え悶え症候群である。


 芸術は爆発だと偉い人は昔言った。ともすれば芸術は恋である。

 どちらも爆発する。

 おあとがよろしいようで。


 散々悶えたあとには急性心不全じゃないかと思うほどの胸苦しさがやってくる。しかし、乱高下するそんな心理状況こそが、僕の執筆における栄養素ではあった。


 そう言う意味じゃ、やはり執筆に適した環境だ。


 どこかで誰かが何かに悩んでいたり悩んでいなくとも、僕の物語を見て僅かでも情動の揺れ動くことを感じてくれれば、僕が無駄に恋をしている理由もあるというもの。なんてカッコつけてはいるけれど、やっぱり願いは叶って欲しいからこそ願いではある。


 果たして僕の妄想恋文は銭にはなるが、恋にはならない。なんと皮肉なことだろう。


 気が付けば僕は恋文を書き殴っていた。

 もちろん、あの子に向けて。


 しかし自己嫌悪に耐えられず、データのブラックホールへポイした。


 きっと今頃、音無と入絵川さんは創作という名の共同作業の元、イチャラブしてるんだろう。


 燃え上がって焦げてしまえ!


「……はあぁ」


「——お悩みですか?」


 と、これまた小鳥のような軽やかさと美声を響かせて声をかけてくれた。


「ええまあ……」


 その悩みの原因はあなたです、なんてのは口が裂けても言えない。


「愛することへの躊躇ためらい、それもまた愛ではないでしょうか?」


 彼女はそう言うけれど、僕が今抱えている感情を知ってしまえば、引かれること間違いなし。


 名前も知らぬこの人に対する、無垢でどうしようもない思い。自重でつぶされてしまいそうになる重い想い。燃やしても燃やして飽き足らず、どこから燃料は調達されるのか不明なほど僕の感情は燃焼を続ける。


 しかし面と向かって恋の悩みだなんて恥ずかしくて言えないので、僕はもう一つの悩みの方を話すことにした。


「実は昔の仲間から連絡があってですね——」


 実を言うと、音無が僕を指名してくれたのはとても嬉しかった。だが同時に、自分でいいのだろうかと言う不安がないと言えば嘘になる。原稿を渡した今でもあれでよかったのかと疑問は尽きない。あれが正解だったのだろうか、あそこが探し尽くした究極の形なのだろうか。


 いや、この疑問は音無の件に限らず、今まで書いてきた作品に関しても同じことを思っている。だが締め切りは無慈悲にやってくるので、妥協ではないけれど、どこかで和合しなければならない。創作者のジレンマだ。


「あなたはクリエイターなんですね」


「ただ優柔不断なだけかと」


「私がこんなことを言うのはおこがましいかもしれませんけれど、クリエイターには三種類の人間がいると思います」


 彼女は繊細せんさいで長い指を一本ずつ立てていった。


「それが能力的に得意だからやっている人。自身を含めて他者に想いや感動などの情動体験を届けたいと思っている人。それから最後は、自身が面白いものを見てみたい人。この三者を端的な言葉で言い表すと、最初の人がいわゆる天才タイプで、二番目が努力家タイプ。言い換えればこのタイプは愛にも似たものを皆に届けようと必死なのです。そして最後は変態です」


 最後の変態だけにはなりたくなかった。


「あなたは面白いものを作りたい人でしょう?」


 変態認定された。


「……面白いってなんなんでしょうね?」


「あなたが面白いと思えばそれでいいんじゃないですか? 少なくともあなたが面白いと思えばその作品が産まれた価値があるじゃないですか」


 やっぱりこの人は、僕なんかよりもずっと大人だ。


 少し肩のき物が取れたような気がして、「ありがとうございます」と礼を言った。


「じゃあサービスです」


 と、彼女はにこやかな笑顔を見せて、エプロンのポッケから飴玉あめだまをくれた。


「ナイショですよー」


 口元に指を立ててウインクする姿が可憐かれんすぎた。


 彼女が仕事に戻っていく中、僕は音無に「リテイクがあったら遠慮なく」とメッセを送ると、物凄い速さで「完璧! あとは任せろ!」と返事が来た。


 これで、音無と連絡し合うことはまた減るのだろう。

 あいつはそういう奴だ。


 どうしようもなく困っている奴には手を差し伸べるけれど、自分でなんとかできる奴には何も言わないし、何もしない。なぜだか昔からそういう嗅覚だけは敏感で、大学生になってぼっちだった僕に声をかけてきたのからあいつとの今日までの物語はあった。


 ともあれ今は自分のこと。

 長編だ。


 僕は執筆に取り掛かる。どんな感じで行こうかと頭の中で広げていって、真剣に恋愛小説を書きたいと思った。


 それは純度百%の妄想物語かもしれない。


 現実でむくわれる保証なんてないからこそ、物語の中でが報われると、きっとそれを気がした。果たしてそれが担当さんや、あるいは読者さんたちに幸せの一片を届けられるかはわからない。


 いや。


 この作品を世に出すつもりはそもそもないのかもしれない。これまで積み重ねてきた技術とかテクニックとか脱ぎ捨てて、オチとかまったく考えずに、ただ僕の言葉で〝僕と彼女の物語〟を書き始めた。


 自分でも、それが大変重たい愛情だとは思う。迷惑千万な話だとも思う。そもそもそれが愛と呼ぶべきものなのかすらわからない。


 けれど、ただ一つだけ言えることは。


 彼女だけのために今書いたこの言葉と物語に何ら嘘偽りはないということ。


 筆がさらに乗ってきたので、自宅で書き上げようと会計を済ませて僕は喫茶店を後にした。


 いつもなら彼女が会計をしてくれるのだけれど、休憩中らしく、店主が応対した。


 それから約ひと月、彼女の顔は一切見なかった。





 プリンターから吐き出された原稿用紙をひもじるのに、三十分も掛かってしまった。なぜかというと、この時の僕の手は一人大地震だったからである。書き下ろしの長編は、新人賞ぶり以来だった。


 最初の読者の反応を見て、世間に叩きつけようか決めようと思う。もしもたった一人の読者の心すら動かせなかったのなら、僕は作家を辞めようとさえ決意していた。


 ちなみに、音無の動画の方も順調に進んでいるらしいのだが、肝心の歌い手が見つからないのだそう。僕の方も探してみるよとは言ったけれど、正直、音無以外に友達のいない僕に歌のうまいキャラなんて頭の中にしかいなかった。


 まあ、あいつはあいつの方でうまくやろうから心配はしていない。

 そんなことよりも、僕は今、自分のことで手一杯なのだ。


 そうして僕は戦場に向かう決意の如く足取りで、例の喫茶店に向かった。もしこの日、あの人がいなかったらその時点でご縁はなかったのだと諦めることにしていた。


 果たして。


「——いらっしゃ、あ、来てくれたんですね。久しぶりです」


 彼女は、いつもと変わらない可憐な笑顔を向けてくれた。僕は二度目の恋に落ちた。


 おお、神よ……時にあなたは微笑んでくれるというのか。いいだろう、ならば僕も腹をくくるしかあるまい。


 僕は原稿用紙を入れた封筒を差し出し、深く頭を下げた。


「あの、これ、よかったら、その……あなたのために書きました!」


 受け取った彼女はパラパラと用紙をめくり、やや困惑した表情を浮かべた。


「ごめんなさい」


 申し訳なさそうに頭を下げた。


「私、日本語は話せるけどリーディングは苦手です」


 あ。

 そうだった。


 彼女には異国の血が混じっている。いやはや、とても流暢りゅうちょうな日本語であらせられたからすっかり忘れていた。


 というわけで綺麗にオチた。

 次の原稿を書こうと思った。


 僕は涙でどろどろだけれど、読者諸兄はどうか笑ってやって欲しい。


 事実は小説よりも無慈悲なり。

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