全力乙女
締め切りがヤバかった。マジでヤバイ。どれくらいヤバイかというと、八月三十一日になのに夏休みの宿題を一個も手につけていないくらいヤバイ。絵日記なんて空白だ。それでいて友達のいないヤバさである。
完全な詰みであった。
だが、漫画家という生き物に休載の二文字はない。気合と根性と不可能を可能にする奇跡的精神論で原稿を上げなければならなかった。
それなのに朝っぱらから約五分おきに携帯が鳴っていた。最初は担当さんからの
「一回死ね! そのまま地獄に落ちろ! 地上に帰ってくんな!」
つか、卒業してから今の今までただの一回も連絡してこなかった癖に今更……。
どうせ、金を貸して欲しいとか、合コンの誘いか、あるいは変な宗教の勧誘とか、怪しい商品の押し売りとかなのだ。そう決めつけてはみたけれど、さっきからあたしは妙に気にかかって、ペンは一向に進まない。
いよいよ痺れを切らしたあたしは、電話を取ることにした。
「はい、ただいま留守にしております、またのご連絡を――」
「携帯に居留守使うんじゃねえ! そして録音させる気すらねえな!」
ああ、このツッコミとリズム——ふとあたしは懐かしさを感じた。
「なによ急に。さぞかし『ロリポップ』様は広告収入で
「……そんなにヤバイの?」
「ヤバイわよ! どれくらいヤバイかっていうと、医者とか弁護士とか機長とかが来る合コンの前日に酒
「……いや、そのヤバさは男の俺にはわかんねーわ」
「わかってたまるか! 大体、あたしは普段からおしゃれとか気にしないヤバさだよ! 絶賛ノーブラノーパンにジャージ・オンだよ!」
「せめてパンツは履いてくれ」
「パンツ履く暇もねーってことだよ! スキンケア? なにそれ食えねーよ!」
「なんか全部俺が悪かった。また日を改めるわ」
「——ちょっと待ちなさいよ。何か用事があったんでしょ?」
「いや、急ぎってほどじゃないし、そっちの原稿終わってからでいい」
「終わるわけないじゃない! 十二時間後には締め切りなのに、ネームすら上がってないヤバさなのよ!」
「もう諦めた方がいいんじゃね?」
あたしは唇を噛んだ。
「……人気もヤバイの」
あたしはきっと誰かに聞いて欲しかった。
「次で人気回復できなかったら打ち切り。そう言われた。だから……その、」
「必死だったわけだ」
そう。ネームすら上がらないのは、この絶望的な状況を大逆転できる素晴らしいアイデアが思い浮かばなかったがゆえ。いや、そんなものは、きっとすごい天才でも無理筋なのだ。ましてやあたしは凡人。もう何週も前から打ち切りは既定路線だって気付いていた。でも、それを認めたくなくて、認められなくて、あたしは現実逃避していたのだ。
「……あんたにはわかんないわよ」
「俺、漫画家じゃないし」
「あんたはいいわよね。締め切りとか考えなくていい身分でさ」
「俺にも悩みの一つや二つくらいはあるんだがな」
「……死ね。貯金しこたま銀行に預けたまま使うことなく死ね!」
かつての同級生にこんな汚い言葉を吐き捨てる自分が嫌いだ。
「なあお前さ、今晩出てこれるか?」
「人の話聞いてた!?」
「もう諦めろ。担当さんにごめんなさいして、今の連載は諦めろ。そこがお前の今の限界ってことだろ」
あたしは奥歯をすり
「ま、限界を超えなくちゃならないルールもないけどな」
こいつにあたしの一体、何がわかるっていうんだ。
何よりも一番むかつくのは、全部見透かされていたことだった。
事実、限界を感じていた。いや、ずっと限界だった。その度にあたしは気合と根性と、なんだかよくわからない精神論で乗り切ってきた。ただ、連載を落とさないことだけに全力を注いできた。もちろん、試行錯誤もした。本を読んで、映画を見て、美術館に行ったりなんかして、他分野から吸収した。けれどそれでも足りなかった。
元々あたしは筆の早い方ではなく、それなのに細部の書き込みにまで気合を入れる方だし、クオリティをギリギリまで上げることに
小学校からずっと描いてきたことだけがあたしのアイデンティティだったし、漫画家を続けられる根拠だった。絵だけなら負けない。そう思っていた。だけれど、プロの世界に入って絵だけじゃ勝てないことを毎日突きつけられた。
「飯なら食わせてやるしさ、部屋も空いてるから、俺んとこ転がり込んできてもいいぞ?」
「誰があんたの世話になるか。下心見え見えなのよ!」
「そんかわし、お前にやってもらいたい仕事があるんだ。今日はその話がしたかった。じゃな」
と、あいつは一方的に通話を切やがった。
……一体なんなのだ。
急に電話してきて、まるであたしの現状を全部知ったみたいに。
ただただ悔しかった。
でも、あいつに泣きつくくらいなら、担当さんに電話の一本入れることくらい、なんでもないように思えた。
あたしはひたすらに頭を下げることにした。
その夜、あたしは大学時代の友人である
いや、自分でもどうかと思うよ? 連載落としておいて、男に会いに来るなんて社会人としてあるまじき行為だろう。けれど、あのまま家に
ちなみに担当さんは慈悲深い人で、今週は体調不良ということで休載を許してくれた。まあ、別にあたしの漫画なんてあってもなくても変わらないんだろう。新人の読み切りで穴を埋めるらしかった。
「よ、久しぶりだな。
「で? 仕事の話って?」
「母親に気持ちを届けたい」
こいつはなにを言っているのか。
「……あんた、マザコンだったっけ?」
「ロリコンだよ」
「警察紹介しようか?」
「お巡りさん、俺です! アイム、クリミナル!」
そうだった。こいつはサークルでもこんな風にテンションを作ってあたしたちを盛り上げてくれた。
あたしはお揃いのハイボールを飲みながら、
なんか、和むな。
さっきまでの
「それで? 具体的な話は?」
「実は今、ロリポップの名でちょっとした企画があるんだ」
へえ、と
かたや、ようやくプロデビューが決まったものの、人気は常にドベで、本日正式に打ち切りを告げられて明日から仕事のない身。正確に言えば、次回でそれなりにまとめて最終回にしようって話だった。当然、締め切りを落としたあたしに主張する資格はなかった。
「曲に紙芝居的な絵をつけた動画をやろうと思ってんだ」
「ああ、よくあるやつね」
「そそ。んで、お前に絵を描いてもらいたい」
「……話、多分面白くないよ」
「んなもん知ってる」
こいつ、研いだ氷で腹わた
「お前、話はヘッタクソだったもんな。でも絵は」
あたしは飲みかけのハイボールを顔にぶっかけてやった。
「……絵は抜群にうまかった。まで聞いて欲しかったな」
あたしはハンカチをやり、
「つっても、そんなのもうだいぶありふれてるでしょ?」
「まーそうだけどさ、俺には届けたい曲があるんだ。でもそれだけじゃ足りない。俺の才能とお前の才能足して、なるべく多くの人に届けたい」
へえ、こいつ、そんな風に今は創作と向き合ってるんだ。
意外だ。大学時代は金儲けしか考えてなかったし、口を開けば「俺はビッグになる!」と馬鹿の一つ覚えだったのに。
「この間、幽霊に会ったんだ」
「頭大丈夫?」
「んで、そいつの歌声が最高でよ。今、歌い手探してるんだが、なかなか見つからない。その間にできることをやろうって思ってな」
「だから頭大丈夫? え、何? あたしの耳が故障中なの?」
「なんかさ、タイミングかなって」
だから話を聞けっつの。
え、幽霊っているの? それ前提で話進めるの?
そういえばこいつは昔から自分のペースでしか話さない。いつも一方的で独善的。他人の事情なんて考えやしない。でも、こいつが音楽の才能にだけは恵まれていることを知っていた。
「何、タイミングって」
「ほら、昔俺ら全員でなんか作品やろうって言ってたじゃん。総合エンタメ! 的な! でもなんだかんだポシャってさ。あの時の約束、俺的には保護にしたくないんだよね」
「そうは言うけど、レベルが違うじゃん。あたしとあんたじゃ」
「うわ、ひで。こう見えて俺もそれなりに売れてきてんだぜ?」
いやだからさ。
そうじゃなくて、あたしが……さ。
「まーそりゃ、その道のプロってか、売れっ子に比べたら俺らなんてヒヨコの卵かも知んないけどさ、だったら俺らそれぞれの得意分野足せば、百にも千にもなんでしょって話。俺は曲。入絵川は絵。ど? 珍しく天才的発想じゃね?」
こいつの言動は軽いけれど、嘘がないことをあたしは知っていた。だから音無は本当に、あたしの絵がうまいと言ってくれているのだ。
「——ちょ、おまっ、何泣いて……」
あたしはハイボールを頭からかぶった。
「泣いてないし! 分かってるし! あたしには描くしかないのに、でも、話が絶望的に普通だってのわかってるし! ……これ以上どう戦えばいいのかわかんないし」
「別に俺らは誰かと戦ってるわけじゃないと思うけどな」
「そんなの綺麗事よ。結局クリエイターも売り上げによって作品の良し悪しなんて決められるんだし」
「俺はお前の絵好きだけどな」
「……だから、絵以外も褒めなさいよ」
「ツンデレ可愛い」
「な!? あたしがいつデレたって言うの!? ててててか何にいきなり!? 口説いてんの!?」
「さっきからずっとお前(絵)が欲しいって口説いてるけど」
今なら抱かれてもいいとすら思った。
「で、どうすんの? 入絵川がやらないってんなら、他を探すけど」
「ヤリます。ヤリたいです」
「……なんかイントネーションおかしくね?」
「ヤリまくりたいつってんのよ! こちとら、漫画しか描いてなくて枯れかけてんのよ!」
すると、頭にポンと音無の手がおかれ、音無は
「ま、お前は頑張りまくったんだ。きっとお前のことだから一人で頑張ったんだろう。しばらく休めよな。面倒は見てやるから、充電して良い絵を頼むぞ」
「……ばか」
そんなこと言われたら惚れてまうやろ。
酒で理性のネジが吹っ飛んでいたかもしれない。
目が覚めると音無の部屋にいた。
……本当にやってないだろうな? と疑問してしまうのは、キッチンに立つ裸エプロンの変態が朝食を作っていたからだった。
「なんであんたが朝チュンの定番やってんの!?」
「いや俺、裸で寝る派だし」
昨晩、こいつにちょっとでもキュンとしてしまった過去のあたしを消し去りたい。
「そーそー、昨日言い忘れたけど、実はストーリーの方は
「書間って、あの書間くん?」
「そ。あの書間」
「彼、今はどうしてるの?」
「今文芸誌で連載やってんだとさ。話してみたら、すんなり良いって」
へえ、とあたしは生返事を返した。
書間くんと言えば、あまり印象に残っていない。同じサークルだったけれども、かなり地味だった。言っちゃあ悪いが、才能という点で彼に光るものはなかった。あたしらは卒業する際、互いの世界でプロを志すことを誓い合ったが、正直、書間くんだけは難しいんじゃないかと勝手に思っていた。
その彼が、文芸誌か。
「これ。読んでみ」
と、音無はとある文芸雑誌の束をわたしに手渡した。音無の股間がエプロンからコニチワしていることにツッコミを入れたかったけれど、それ以上にあたしは書間がどんなものを書いているのかの方に興味があり、何も言わずページを繰った。
『石屋』と銘打たれたタイトルの短編からは、書間くんの匂いがした。『お花見』も『トイレの妖精』も全部、書間くんらしい物語だった。
次第にわたしは次号の文芸誌に手を伸ばしていた。
正直、強烈なものはなかった。普通だ。これくらいならわたしの方が絶対面白い話を書いている。そんな嫉妬がふつふつと込み上がって、けれども、『ヒューマノイド』を見終わったあとにはその評価は変わっていた。そして、最新号の『物書きAI』で、すっかり書間くんの世界にのめり込んでいた。
「な? 悪くないだろ? 今のあいつならそこそこ面白い話を書いてくれそうな気がする。んで、そこにお前の絵と俺の曲を足してさ。エンタメは爆発だ! ってなるわけよ」
「ねえ、音無。あんた、動画の話、本気なの?」
「俺はいつだってマジだぜ」
とはいえ、あたしに選択肢なんてなかった。週刊連載の仕事はもうないのだ。音無の詐欺まがいな話に乗っかるしかないのである。もっとも、担当さんからはまた読み切りからやり直そうと言われていたけれど、正直、自信はなかった。あたしは限界を尽くしたのだ。これ以上、面白い話を作れる気がしなかった。
けれど、いつ以来だろうか。
まるで学生時代のサークル活動を思い出す。
サークルといってもほとんどの日々はだべり倒すくらいだった。やれこの作品はすごいだの、自分たちもちょっとやってみようかなと唾をつけてみたけれど、全然うまくいかなかった苦い記憶しかない。
だけれど、いつしかあたしらは本気になり始めていて、そのうちにそれぞれの道へと進んでいた。
もう混ざり合うことはないのだろう――、どこかそんな
あたしは部屋にある姿見を見て、相当酷い顔をしていると知った。よくもまあこんな顔で音無は会ってくれたもんだ。
だから。
こうして声がかかったことに少なからず嬉しさはあった。
ついさっきまで忘れていた熱情がぐつぐつと煮えていく。
その時、ノートパソコンの通知音が鳴り、音無は画面を眺めた。
「お、入絵川。来たぞ。書間から」
え、もう? 早すぎない? 昨日の今日でしょ? さすがにあらすじだけよね?
と思いつつ、覗き込んでみると、十数枚にわたる原稿が出来上がっていた。
昨晩、音無から作品の方向性やら設定なんかを大まかに聞いていた。それで書間くんが話をやると聞いて、私はミスマッチだと思った。
書間くんの世界観や方向性は、脱力ダウナー系や、アイロニーが効いていたり、ポップなファンタジー調であったり、とにかく、今回音無のやろうとしている悲劇的な話の中に射し込む光みたいなものは、彼の
だけれどそれは。
書間くんが新たに見出した領域で。
きっと彼一人ではたどり着けない物語だった。
隣でニヤニヤしている音無を覗き込んで、あたしは「こいつはクリエイターを目覚めさせる才能もあるかもしれない」と思い始めていた。
もしかしたら。
今なら、もっと面白いことができそうな予感があった。
こいつと仕事をやれば——いや、書間くんともやれば。
あの日、プロになることを誓ったこの三人でやれば、あたしはもっと先に行けるような気がした。
「画材取ってくる」
そう告げると、音無は少年のように微笑んでチャリの鍵を投げ渡した。
「ほどほどに頑張れよ。俺はいつまでも待ってやるから」
あたしは久方ぶりに笑った。
「なに? 惚れさせにかかってんの?」
「言わせんな。俺らはずっと互いの才能に惚れてんだろうが」
「……部屋、貸しなさいよね。あたしが原稿上げるまで」
「最初からそのつもりだ」
もしかしたらこいつは、本当に最初から全部知っていたのかもしれない。
ふと、本棚に目をやると、あたしがお世話になっていた少女雑誌が置かれていた。それはあたしが連載を始めた頃からずっと。
まあでも、音無のことだ。別に深い意味はなくて、ロリコンだからロリの嗜む少女漫画を読んでいただけのこと。きっとそうに違いない。そうでなければ。
ヤバ……好きになりそう。
あたしは泣き顔を見られないように駆け出した。
絶対に届けようと思った。
根性と気合と奇跡を呼び起こす精神論を駆使して、あたしは今のあたしにできることを全力でやろうと思った。
足りないかもしれない。足りてないと思う。
二人には追いつけないかもしれない。
悔しい。
でも置いていかれたくない。
一人じゃきっとたくさんには届かない。でも、音無や書間くんとなら届けられる。そう思えた。だからあたしは二人に届ければいいんだ。
自分の居場所を掴むため、あたしはペダルを全力で漕ぐ。
何度でもやり直そう。
だってあたしは。
「描くのが好きだ!」
それ以外にやり方なんて知らない。
それ以外の自分なんて知らない。
「それから! あんたのことも好きかもしれない!」
好きなことを全力でやる。
恋も仕事も全力でやってやる。
そこにしかあたしの居場所なんてないんだ。
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