壁の向こう

 新曲のアップロードが完了して、俺は自分のご褒美ほうびに缶ハイボールを開けた。タバコセットを抱えてベランダに出ると、一人乾杯を始める。


 おっと、SNSで宣伝も忘れちゃならない。


 作品を売るには宣伝は不可欠だ。クリエイターたるもの、ただ作品に没頭ぼっとうするだけの時代は終わったのだ。何なら9・1の割合でSNSが重要と言っても過言ではない。


 フォロワー数に登録者数こそが絶対正義。

 中身なんてゴミでも構わない。


 は、言い過ぎにしても、曲の質に時間をかけるより、SNSで繋がった方が現実として数字は伸び始めたし、SNSの利点はそれだけではない。


 生の声――皆の求めている曲が何なのかとか、時代の空気感とかをリアルタイムで知れるのは曲作りに大いに貢献した。


 作曲を始めた頃は純粋にいい音楽を作りたくて、あるいは誰かの胸に染みるような音を作りたかった。けれど、そんなものは世に溢れていて、才能なきものが当たり前のことをやっても響きはしなかった。だからとがれば刺さるだろうと、奇抜なことをやろうとした。見事にスベりまくった。


 自分が世間から求められていない事実を知って、天才に時代が追いついていないと俺はさらに独りよがりになっていった。


 そんな時、フォロワーが知らせてくれた。『その才能を伝えることもしてみれば?』と。もちろん俺は、そいつに噛み付いた。朝まで大激論だった。だが、夜通し付き合ってくれ、真剣に向き合ってくれたことだけは気づけた。


 それからはバランスをとりながら試行錯誤の日々で、ようやく広告収入で生活できるくらいにはたどり着いた。その過程に間違いがあったとは思えない。事実、売り上げこそが正道だ。


 ただ、最近の俺は大衆受けばかり狙って、角が取れた気はしていた。

 俺の理想の音楽とはなんかなんか違う感。

 ま、成長と思えば、悪くないんじゃないの? 売れてりゃ正義でしょ。

 さて、次は切ないラブソングを作ろうかな、と思っていると。


 耳触りの良い歌声がどこからともなく聞こえた。


「あ、すげ……」


 女性の声だった。その優しくも透き通った歌声に、俺は聞き耳を立てていた。音痴の俺でも上手いか下手かくらいはわかる。うまい奴なんて腐るほどいる。だが、上手い奴の中でも、神様に愛された歌声というものがある。


 彼女の声は、音楽の神様に愛されていた。


 まぶたを閉じれば、全身の細胞に染み入っていくような心地がした。それでいて情景が自然と脳裏に浮かんでいく。


 有名なJ-POPのカバー曲だった。今の若い子はあまり知らないだろうちょっと古い曲だけれど、素晴らしい曲である。俺も好きな曲だ。毎回この曲を歌って帰らないとカラオケに行った気がしない。


 原曲には原曲の良さがあるけれど、今聞こえている歌声にはまた独特の世界観があった。


 音の出所は、どうにもお隣さんらしい。


「でも、この曲サビが難しいんだよなあ……」


 さてどう表現してくるか。


 俺は、まるで売れっ子音楽プロデューサの如く高みの見物であった。リズムに体を揺らしながら、こっそりハモろうと口ずさんだ時。


 ぞくりと――寒気。


 なんだ、これ……。

 どんな声帯してやがる……。


 突き抜けるハイトーンボイスが俺の細胞を沸騰させた。


 気が付けば俺は、部屋を飛び出していた。

 気が付けば俺は、呼び鈴を連打していた。


 これだ。俺が探し求めていた音はそれなんだ。欲しい――。その音が欲しい。その音さえあれば、俺の音楽は俺の追い求めた領域に近づける。


 どんな奴なんだろう。これほど俺を感動させてくれる歌声を持つ人物はどんな奴なんだ。早くその顔を、生の声を近くで――。


 そう思っている中、扉が開かれた。


「――なんですかあなたは! こっちは録音中なのですよ!」


 声がどこからともなく聞こえたが、眼前に人の姿はなかった。


 俺は首をひねり、気のせいだったかと肩を落とした。落とした時、眼下にちっこい女の子がほほを膨らませていたのが見えた。


 俺は表札を見て、苗字を確認した。


「あー、隣の住人だけど、お母さんと変わってくれない?」


 するとちっこい女の子は、睨みを利かせた。


「お母さんはいません」


「じゃあ、お姉ちゃんとか、親戚の人とか、とにかく話の通じる大人をだな」


「さては子供だと思って馬鹿にしてますね?」


「馬鹿にはしてない。なにせ俺はロリが大好物だ」


「これが犯罪者予備軍、幼女誘拐犯……。通称、キングオブロリですか。略してキンロリ! さては金髪ロリも好きですね!? 略して金ロリ!」


 金髪ロリは好物だが。


「俺はロリじゃねえ、ロリコンだ」


「自称ロリコンとは! 最低最悪です!」


「言っておくが俺は無害なロリコンだ」


「無害ならとっと帰るです。私はこの部屋に一人暮らしです。それを聞いても何もしないと誓えるロリコンですか?」


「ちょっと君、お兄ぃちゃんとお話しようぜ、ぐへへ」


 幼女はスマホを取り出して無言で110番。


「ウェイウェイウェイ、怪しいもんじゃないから! ロリコンだけど、害のないロリコンだから」


「犯罪者は皆そう言います」


 俺は大人の渾身の力を持ってしてスマホを奪った。幼女はちょっとバカなのか、177番にかかっていた。天気は晴れだった。


「一体何用ですか? 私は歌うので忙しいのです」


 俺はハッとした。


「もしかして……さっきの歌声は……」


「さてはクレーマーですか。お隣さんとの騒音トラブルは近年問題となっていますものね。でもはっきりと申し上げておきます。私の歌声は騒音にはなり得ない」


 にわかには信じがたいことだったけれど、確かに俺はこの耳で聞いたのだ。その歌声は奇跡の音であったことを。


「本当に……さっき歌っていたのは君、なのか?」


 すると幼女は腰に手を当て、鼻を高くした。


「どうだ、まいったか!」


 俺は幼女の手を掴んだ。


「君が欲しい」

「は?」


「君の全てを俺にくれ。君の体(声帯)が欲しい」

「何言ってんだこいつ。警察を呼びますよ」


 そこで再びハッとした俺は、財布からお手製の名刺を取り出した。


「俺はこういうもんだ。動画サイトでオリジナル曲を配信して生計を立てている」


「音楽クリエイター『ロリポップ』……やっぱりロリじゃねえですか!」


「ペロペロキャンディって意味だよ!」


「ロリをペロペロする変態の極み!」


 もう変態でもなんでもいいや。俺はあの音さえ手に入れられれば、なんでもいい。


「金で買ってもいい」

「売春とか……最低のロリ王だなこいつ」


「いや、結構マジな話なんだ。なんなら俺が君に曲を提供する形でもいい」


 すると幼女は目の色を変えた。


「ほほう、この私に釣り合う曲をロリ王如きが書けるとでも?」


「君に釣り合うかどうかは、君自身が判断すればいい。とりあえず、俺の発表した音楽を聴いて、興味が出たら声をかけてくれ」


 そうしてこの日は一旦別れることにした。

 去り際、幼女は疑り深い視線を送り続けていた。




 その日の晩、俺は動画サイトを漁りまくって、あの奇跡の音色を探し続けた。もちろん本名を名乗っているわけはないし、音だけを頼りに彼女が投稿している曲を探すのは困難を極めた。


 気が付けば朝になっており、頭もにぶくなってきたところで広大なネットでの捜索は諦めた。


 のだけれど、ふと俺は大事なことに気づいてしまった。


「一人暮らしつってたよな。母親がいないって……」


 もしかしたら俺は薮蛇を突いてしまったかもしれないと思い至る。

 タバコに火をつけて、ぼんやりと考えに耽った。


 ひとまず冷蔵庫に頭を突っ込んで、何もなかったので買い出しに出かけることにした。菓子パンとか牛乳を多めに買い込んで、俺はそのままお隣の呼び鈴を鳴らした。


「……またあなたですか。なんですかこんな朝っぱらから」


 パジャマ姿のロリはいいもんだ。


「今日から俺はロリ誘拐犯になる」


 俺は許可も得ずに幼女宅へ進入。キッチンを占拠。グラスに牛乳を移し替え、テーブルにパンを広げた。


「食え」


「……もはや睡眠薬か媚薬入りを疑うのですが」


 改めて見渡すと、部屋の間取りは俺の部屋と変わらないが、ずいぶんと殺風景であり、生活感がまるで感じられなかった。テレビもなければ家具らしい家具はテーブルに椅子が三つだけだった。


「で、『ロリポップ』は調べてくれたか?」

「まあ一応」


 幼女はクリームパンを一瞥して、申し訳なさそうに押し返した。


「さっき思いついたんだがな、やっぱり契約はなしだ」

「一方的ですね」


「奴隷契約にしよう」

「とうとう本性を剥き出すゲスロリの鏡」


「俺は食事と曲を提供する。見返りはいい」


 すると幼女は目を皿にし、すぐに眉間を寄せ、俺を睨みつけてくる。


「何を考えてんですか」


「俺も独り身の年頃の男だ。生活に華がなくて寂しい。君を妄想の中でペロペロする」


「最低の発言だなこいつ」


「君は俺を利用すればいい。つまりだ。表向き、俺は君を誘拐するってこと。だがその実態はロリの奴隷。どうだ?」


「……何同情してくれちゃってんですか。言っときますけど、私は別に寂しくなんてありませんです」


「これだけは先に言っておくがな、君の体(声)がマジで欲しい」


「いいことを言った風な後で、全力で欲望をむき出しにするロリ魔王」


「そういえば、学校はいいのか?」


「はっ、そうだったです。こんなことをしている場合ではありません」


 そう言って、慌てて玄関に向かう彼女の背中に俺は「いってらっしゃい」と声をかけた。


 少し振り返った彼女はボソボソと「いってきます」を返した。





 一旦自宅に戻り、五線譜とにらめっこしていると夕方はあっという間にやってきた。


 インタホーンが鳴り、玄関を開けると、学帽をかぶった幼女が不機嫌そうに立っていた。


「おやおや、すっかりほだされて従順になったな。はっはーん、さては兄ちゃんに保健体育を教えて欲しいんだな」


「キモいですおっさん」


 おっさんと言われたことにショックはデカかった。まだ二十代だ。


「ま、ともかく入れよ。あ、でも手洗ってうがいしろよ。歌手は喉を大事にしないとな」


 と、うながしたが、彼女は俯いたまま、まだ不機嫌だった。何か言いたげな様子だ。


「どうした? 腹が減ったか? ピーナッツならあるぞ」


「酒のつまみじゃねーですか」


「じゃあ、明日はケーキを用意してやるよ。もちろんボイトレちゃんとできたらな」


「子供に何かさせる時、餌で釣るとろくな大人に育たないですよ。大体が守銭奴になって、人と人との繋がりのわからねークソ野郎になるです」


 あ、そう言えば俺、親の手伝いする時はいつもお駄賃だちんもらってたっけ。ああ、だから今の俺はお金大好きクズ野郎なのか。


 幼女に俺の人間性をすっ裸にされて、ちょっと悔しかった。


「じゃあケーキいらないか?」


 幼女は頬を膨らませ泣きそうな顔をしていた。


 やっぱり彼女は幼女で、俺は汚い大人だった。


 彼女が洗面所に向かっている間、俺は自称スタジオ室で機材の準備を始めた。


 音を二、三鳴らして、早くロリちゃん来ないかなぁ、とウキウキ気分で待っていると、入り口で幼女が申し訳なさそうに佇んでいるのが見えた。


「ほら、遠慮するな」


 コクリと頷いて、彼女は部屋に入ってくると、ぐるりと見渡して感嘆の声をあげた。


「……結構、本格的ですね」


「俺を誰だと思ってる。そろそろ人気が暴発してもおかしくない新進気鋭のロリポップだ」


 一人暮らしに3LDKは広すぎる気もしなくはなかったが、スタジオと書斎を分けると、やはり部屋はたくさん欲しかった。そのうち、彼女と暮らしたいとも思っていたからこれは未来への準備なのである。


「話題になる前に警察さんのお世話にならないことを祈ります」


 うっせ、と軽口を叩き、俺は電子ピアノに腰掛けた。


「じゃあ、発声練習から」


「発声練習とは?」


 え、そこから?


 もしかして、先日聞いた声は幻聴だったのだろうか。俺はマジでただの幼女誘拐犯ではなかろうか。しかしそんな疑問は音を聞けば一発で払拭された。ピアノの和音に合わさる天使のような歌声に、俺は天国で響くハープの如き音色を想像すらした。


 ああ、この音だ。


 どんな楽器でも実現し得ない、この音。人間という複雑な楽器だからこそ鳴り響く、極上の音色。


 ピアノと少女の声がハーモニーを奏でるたび、頭の中で音符が光り輝き、新曲のアイデアが次々に浮かんでくる。


「じゃあここいらで、」


 俺は一旦発声練習を中断した。


「一曲やってみようか。そこの棚から好きな曲を選んでくれ」


 彼女は迷うことなくスコアブックを手にした。昨日も聴いたラブソングだ。


 伴奏が始まると彼女の目つきは幼女らしからぬ真剣なものとなり、歌い出しの一音で俺が気圧けおされてしまうほど。


 果たしてこの子の鬼気迫る迫力は、痛いほど刺さる切実さはどこから来るのだろう。


 ……ああ、そうか。


 探している——いや、届けようとしているのか。


 誰を、なんてのは馬鹿な俺でさえ、わかってしまう。


 そこに彼女の確かな感情があるから聴く者を感動させるのだ。どうしようもない切なさを含んでいて、ある種の悲鳴が音という表現によって心を揺さぶってくるのだ。


 原曲はおそらく男女の恋愛を語った曲だと解釈されるけれども、少女の生の感情が別の解釈をもたらせて母に対する愛を謳う。詠う、唄う、歌う……。


「……なんで泣いているのです?」


 休符が打たれ、幼女は問いかけた。


「ちょっと目にゴミがな」


 この俺が幼女に泣かされるなんて不覚だ。学生時代は〝女泣かせのゴミュージシャン〟と呼ばれた俺がだ。


 だがそれほど彼女の声には心がこもっていた。純粋に彼女のために曲を作りたいと思った。いや、思っただけじゃない。今すぐに曲を作って届けるのが俺の使命だった。


 それでいて、ウヘヘ、再生回数ガンガン稼いでがっぽり儲けてやる。


「……なんだか大人が悪いことを考えている時の顔が漏れ漏れなんですが」


 こほん、と咳払い。


「なあお前、明日からも俺がボイトレ付き合ってやる。その間に曲を書いてやるから歌ってくれないか?」


「ロリ王の癖にこの私に命令するとはいい度胸です」


「朝夕ご馳走するってでどうだ?」


「むむ、これが背に腹は変えられないというやつですか。さては私の胃袋を掌握して幼女の貞操を奪おうという魂胆なのですね」


 最近の小学生はマセてやがる。きっと、大人になったら悪女になるんだろうなあ……。


「天才のオリジナル曲に、天才の歌声を乗せる。これで再生回数は億を突破すること間違いなし!」


 俺は笑顔を作った。


「するとだ、きっと届けたい人にも届くだろうさ」


 彼女は疑り深い視線をじと、と向けていたが、


「まあいいでしょう。どうせ、誰も帰ってこないので付き合ってやりますよ」


 言い回しに若干の引っ掛かりを覚えたが、そこは小学生の大味なニュアンスなのだろうと気にはしなかった。


 それから、俺たちのちょっとした共同生活が始まった。


 夕方、学校から帰ってきた彼女のボイトレに付き合って、その後は二人で夕食。約束通りケーキをやると、幸せそうだった。隣の部屋まで送ったあとには、ベランダ越しに歌声が聞こえた。熱心な幼女は愛おしい。


 三日目の晩にはこっちで風呂に入りたいと言ったので入れてやった。一緒に入るかと誘われたが、紳士として丁重にお断りしておいた。妄想の中でロリをペロペロする趣味はあるが、現実のロリをペロペロすれば犯罪者である。しかし彼女は目にシャンプーが入ったと煩くて、俺は結局、裸ロリの頭をわしゃわしゃする羽目はめになった。


 四日目の夜には帰りたくないと駄々をこねて、一晩共にした。もちろん、警察に事情聴取されても無実潔白を貫ける。俺はロリコンだが、ロリコンだからこそロリを大切にする真のロリコンだ。同時に俺はロリを調教ちょうきょうする楽しさも十分に味わわせてもらった。


 幸せ太りというやつかもしれない。俺の体重はいつの間にか五キロも増えていた。


 朝食を与えて、夕方にお出迎え。いつの間にか俺は「いってらっしゃい」と「おかえり」を言い合う日々が流れていった。そうした一週間、二週間が、あっという間に過ぎ去って、とうとう楽曲が完成した。


 曲の具体的な指導をして、軽くリハを行った。


 俺はこの時ほど震える想いをしたことがない。自分の書いた最高の曲が最高の歌手に歌ってもらえる幸せはなんと素敵なことだろう。


「じゃあ、本番行こうか」


 この時の彼女はやや気負っている節があった。そりゃそうだろう。どこにいるのかもわからない母親に歌で想いを届けようとしてきた彼女からすれば、これは人生を賭けた大勝負なのだから。


「ま、あまり肩の力入れなくていい。いつも通りにな」


 一発りをするつもりはなかったのだけれど、俺が指摘をすることなく、修正を加えることなく、最初の一回で彼女は完璧に歌い通した。


 俺はしばらくの間、感動の余韻に浸って時間が過ぎるのを忘れていた。


 ふと我に帰って、出来上がりを確認しようと頭からの再生を始めた。


「……あれ?」


 いくらボリュームを弄っても、あの歌声は聞こえなかった。

 おいおいマジかよ、しっかりしてくれよ俺。


「悪ぃ、録音するの忘れ——」


 と、声をかけたが、幼女の姿はなかった。

 いつの間にいなくなったんだろう?

 まあ、明日やればいいか。





 そう思ってから、二日が経った。


 あれから一度もあいつの姿を見ていない。ほぼ同棲生活をしたというのに、あいつは気まぐれな猫みたいにぱったりと姿を見なくなった。そればかりか、夜中に聞こえていた歌声もまったく聞こえなくなっていた。


 痺れを切らした俺は、お隣さんの呼び鈴を押した。だが、本日は日曜だというのに人のいる気配がなかった。友達と遊びに行っているのならそれはそれでいいのだが。

 ふと、表札を見上げて俺は眉根を寄せた。


 そこに表札はなかった。


「——おや、音無おとなしさん。908号室がどうかされたのですか?」


 と、声をかけられて振り返ると、箒を持った大家さんが見えた。老年男性の彼は不思議そうに首を傾げている。


「あの、大家さん、ここの住民って、」

「ああ、もうずいぶん前に部屋を引き払ってますよ」


 今度は俺が首を傾げる番だった。


「いやいやいや。つい先週まで俺はここの、ろ——じゃなかった女の子と遊んで、」


 大家さんは困惑した顔を浮かべた。


「一年以上前のことですよ。確かあなたが来るちょっと前のことですね」


 俺は首を傾げたままだった。


「あまりプライベートに突っ込むのは良くないのですけれどね、」


 そう言って大家さんは身を寄せてくると、耳打ちをした。


「事故だったそうですよ」


 へ?

 俺は、頓狂とんきょうな声をあげた。


「通学途中に事故で娘さんを亡くされて、それで夫婦二人には部屋が余るからと、引っ越しされたんですよ」


「ちょっと待ってくれ……」


 じゃああれは。あいつは一体なんだったんだ?


 まさか俺は……。

 ああ、でもだから。


 

 


 俺はそんな風に幻覚を——いや、まるで実在しない存在を見ていたのだ。


 と考えれば、すとんと落ちる気さえした。


「歌うのが好きだったようで、毎晩、綺麗な歌声が聞こえていたもんですよ。……寂しいものですね」


 俺は勘違いをしていた。あいつは家庭の事情で家族と離れ離れになっていたのだと思い込んでいた。だが事実は逆だったのだ。


 あいつだけがこの世にいなかったのだ。


 だったら、あいつが母親に伝えたかったことって……。


 俺は曲の解釈を変えなくちゃならなかった。それに俺は、音楽に対するスタンスを根底から変えたいと思った。今の俺は音楽を始めようと思った最初の気持ちを思い出していた。


 会いたいじゃなくて、ありがとうを。

 この世界にいる誰かに届けるために。


 曲を書こう。

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