最後の補填
私は高度成長期を支えて来た誇り高き企業戦士。
高卒から定年を迎える今日まで身を粉にして戦って来た。
五十年弱の長きに渡る戦いであった。
雨にも負けず風にも負けず、営業に明け暮れた。私は会社の製品を売り歩く男だった。マッチ売りの少女ならぬ、空気清浄機売りのおっさんだ。
私の積み上げた実績を、会社は特別営業係長のポストで評価してくれた。肩書きに不満もないが、近年の不況により、退職金が減ってしまった事は少し残念である。
仕事人間の私は妻にも愛想を尽かされたが、離婚には至っていない。忍耐強い妻には感謝だ。残りの人生はこれまで支えてくれた妻に恩返しをしよう。
娘達も独り立ちし、昨年、長女に子供が誕生し、私はおじいちゃんと呼ばれる立場になった。明日からは悠々自適な隠居生活だ。靴底をすり減らす心配もない。孫とお
とはいえ、会社を去ることに不安がないわけではない。ウチの会社は苦境の真っただ中だ。そんな中で会社を去る事は少々悪い気もしていた。だが影では若い子たちに老害と呼ばれていることを知っていた。我が子たちのようだと思っていた身からすれば悲しかった。おそらく飲みニケーションで親睦を深めようとしたのがいけなかったんだろう。今の子たちの除湿機能は優秀だ。ドライである。
私は女子社員に小さな花束を贈呈されながら、別れの寂しさや達成感を感じていた。
私の物語は今日で一旦幕を下ろして、今度は人生の最終章が幕を開けるのだと思えば、感慨深さもあった。
もし、自分が別の道を歩んでいたのならどうであったか。そんな事を考えない日はなかった。
私は昔からそろばんが得意であった。本当は経理部が財務部を志望していた。営業とは
そんな人生を振り返ってみると、存外悪くない気もした。人生をやり直そうとも思わない。ベストではないかもしれないが、私はその時々で全力を尽くしたはずだ。もちろん間違うことも多々あった。会社にとって損失を招いた事もあるし、その逆も待た
仕事を通して得られた補償の精神とサービス精神は私の哲学であり、人生観であろう。
そんな事に考えを巡らせながら花道を歩き終わる。
エレベーターに乗り込んだ私はふと逡巡した。
しかし私は正当に評価されて来たのだろうか。
私の貢献度や会社が私に対する献身度を退職金に換算してみよう。
もちろん、自分を高く見積もるつもりも低く見積もるつもりもない。
あの時はこうだった、と私はサラリーマン生活を振り返った。自己査定も問題なく終わり、私は
退職金が少ないことは致し方がない。昨今は不況だ。今日まで働かせてくれた恩を思えば、それくらい目を
だが人間とは間違いと修正を繰り返す生き物であると私は思う。この、人としての根幹だけはどれほどの未来になったとしても変わらないと思うし、変わって欲しくない。しかし古い角質私は新陳代謝され、新しい世代がこれからの未来を作ってくれることを切に願う。
と、心の中で思いを巡らせながら、私はエレベーターの階層表示を見上げた。少し寂しかった。もう明日からこの会社に来られないのか。
途中階で、社長と秘書が乗り合わせた。
「今まで本当にお疲れ様でした」
社長は深く私に頭を下げて、恐縮な思いである。良い会社だ。一兵卒の私に対して、頭を下げる社長が他にいるのだろうか。いや、普通にいるだろうが。
「ところで、今晩、送別会があるようだね?」
「ええ」
しかし私はふと思う。大きな見落としに気付いてしまった。私の仕事ぶりに対する評価は
はて、この補填をどう埋めるべきか。
最後の補填をしなければ。
私は考えに考えた結果、社長に尻を向けた。
『――続いてのニュースです。某電機メーカーで異臭事件が発生しました。エレベーターに乗り合わせていた人たちは意識不明の重体で救急搬送され、今なお、原因の究明が急がれております。警察はテロの可能性もあると見て捜査を進めており、事件を知る男は涙ながらにこう訴えております。『まさか自分の屁が生物兵器級など今まで知りもしなかった。ただちょっとした悪戯心で――』』
この屁こき事件によって知名度を得たその会社は、空気清浄機の売り上げがかなり上がったとか。
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