ナビ

「フォロミー」


 ダッシュボードから女性の声がした。


「フォロミー。次の信号は黄色で通過する確率四〇パーセント。減速をオススメします」


 ナビは言った。


 俺は、ナビの指示通りに速度を落とした。

 予測通り、信号が黄色から赤に変わり、車を止める。


「この先に渋滞は現在ありません。また都内の天候は晴れ、今日はとても良いドライブ日和ですね」


 信号が青に変わり、俺はひたすらに車を流した。特に目的地があったわけではない。「どこでもいいから一人になれるところを」と言って、ただただ車を走らせていた。


 世間では、そろそろ自動運転が主流になり始めたけれども、俺はあえて人工知能搭載のAIナビゲーションを買った。もちろん、自動運転車が馬鹿みたいに高かったのはある。俺の貯金では全然足りなかった。


 しかし、金があったところで自動運転車を買おうとは思わなかったろう。俺は、世間でいうところのアラフォーにそろそろ差し掛かった年齢であり、今の若い子たちから見れば、俺は時代に取り残された化石みたいなものだ。令和の土器としてスマホとかと一緒に発掘されたりするんだろうか。


 今時の若い子は、適応力が高く、多くの仕事がAIに代替されても、自分の価値やら居処いどころをちゃんと考えて、生きていた。かくゆう俺は、そんな時代の潮流ちょうりゅうに乗り切れず、マックジョブで生計を立てている。その仕事も、一寸先は闇である。


 今の生き様に俺は限界を感じていた。


 十年ほど前、「働けクソニート」とネットで高みの見物をしていた俺だったが、いざ自分が近しい立場になってくると、何気なく吐いた暴言がブーメランのように突き刺さる。


 あいつらは、こんな気持ちだったのか。


 自分が社会に必要とされていない劣等感。周りに置いていかれる焦燥感。生きる意味とか、自分が何者なのかとか、そんな哲学を探しても見つからず、産んでくれた母親にただただ申し訳なく思った。


「才能の一つくらいは付随して産んでくれればよかったのになあ」


 八つ当たりだとはわかっている。働いてさえいれば、俺のアイデンティティは保たれるはずだった。税金を納めていない連中を見下して、自尊心を保っていたのだ。


「カウンセリングAIにお繋ぎしましょうか?」


 と、ナビは言った。


「いらねえよ、馬鹿野郎。俺のことは俺がよく知っている」


「私はあなたのことをよく知りません。お話をしてくれませんか?」


 俺は口をつぐんだ。それにいったい何の意味があるのか。俺のことをナビが知ったところで、何にもならない。


 この世は無意味で溢れている。俺がそうなのだと、気づいたのはほんの最近のことだ。仕事の淘汰とうたが始まって、いよいよ自分が替えのいくらでも利く代替品であることに気づいた虚しさといったらなかった。俺は、何のために産まれ何のために生きてきたのだろう、と。


「案外、話すだけで気が楽になると言うじゃないですか」


 もしかしたらこのナビは、俺の目的地を知っていたのかもしれない。


 結局、人が最後に行き着く場所は皆同じだ。果たして、灰になった俺は地球に還元されるのだろうか。


 人もまた無意味だ。

 そう思うと、たまらなく自分を語りたくなった。


「……妻がいたんだ」


 自分の口が軽いことに俺は驚きつつも、けれどもまあ、聞いて欲しかったのだろう。


 海岸線をゆく中、ぼんやりと記憶を掘り返す。


「昔々あるところに、しょうもない男と気立てのいい女がいました——」


 俺も妻も絶賛ブラック企業勤めで、週一の貴重な休日がかち合うことはそうなかった。金のなかった俺たちは、金のかからない遊びをした。遊びといっても、近くの公園を訪れるとか、近くの山に登って夜景を見下ろすとか、水着も買えず、電車賃だけ握り締めて海を訪れたり。


 あの頃は、何をするにしてもきっと幸せだった。しかし歳を重ねていくごとに、俺たちは当たり前の夢を抱くようになった。


 特に妻は子供を欲しがった。


 だが、子供に不自由をさせない程度の金は俺たちになかった。いや、俺は怖かったのだ。この俺が一人の人間を育てることが。


 俺は親の愛情を知らない。


 親父は酒飲みで、毎晩酔っ払って帰ってくると、暴力を振るった。いつ拳が飛んでくるかの恐怖に母はただただ謝るだけだった。俺は、いつも押し入れに隠れていた。何もできなかった自分が嫌いだった。父の帰って来なかった日は、健気に用意した夕食を母は泣きながら食べていた。果たして父が帰って来ない寂しさに泣いたのか、この生活が永遠と続く悲しみに泣いていたのかはわからない。


 道化の家庭が崩壊したのは、母が忽然こつぜんと消えてからだ。学校から帰ると、置き手紙が一つ、母がコツコツ貯めたヘソクリが十数万のみが置かれていた。その手紙にはこう書いてあった。『あんたも逃げなさい』。その時俺は気づいた。自分が不必要な子供だったのを。


 俺は荷物をまとめて、父からただひたすら逃げた。逃げた先、ふと目についたアルバイトの張り紙を見て、スナックのアルバイトを始めた。


 そこで出会ったのが、妻だった。


 彼女も学生でアルバイトをしていた。最初は欲しいものがあるから働いていたと言ったけれども、打ち解けていくと、彼女は身売りをされたのだと打ち明けた。今の時代に身売りとはまるで小説のような話だが、現実には闇が満ち満ちていることを俺は知った。


 要は、彼女には親の借金があったのだ。その親は無理心中をして、彼女だけが生き残ったのだと言う。彼女の背中には、未だ火傷の跡があった。


 俺たちが通じ合うのは簡単だった。


 全部とは言わないけれども、俺は彼女のことを理解できたし、彼女は俺のことを理解してくれた。与えられなかった愛情を埋めるように、俺たちは共依存した。


 それからは必死だった。必死に生きた。生きるために働いた。それは、なけなしの愛を手放さないためだったことは互いに気付いていた。金がなければ人は幸せになれない。そのことを教えてくれた両親には一応の感謝はしている。


 俺と妻は、夜の世界を渡り歩いた。


 けれども、水商売の世界は――と言うか世の男たちは若い女にばかり興味が行き、歳を経ていく妻が、夜の世界から放り出されるのもまた必然であった。


 この頃、彼女の借金こそ完済していたものの、ようやく手にした仕事は以前の収入の十分の一ほどまでに落ち込み、二人ともヘトヘトになって帰ることが多かった。それでもたまの休みには現実を忘れて、幸せになろうとした。かけそば一杯を二人で分け合ったり、コンビニ弁当を遠慮合戦したり。かびた食パンを切って、残りを二人で半分こに。すっからかんの冷蔵庫から賞味期限とにらめっこしてマーガリンチャーハンを一緒に食べた。おやつにはアメリカンをもっと薄めたコーヒーに水飴みずあめけ、不味いと言い合いながら笑いあった。


 妻との出会いは、俺にお金がなくとも幸せになれることを教えてくれた。


 ある日のこと、


『あのね、ショウちゃん。私、そろそろ子供が欲しいなって思うの』


 妻は言った。


 欲しくない、と俺は即答した。

 そこからは沸騰ふっとうしたヤカンの如く水掛け論。


 気が付けば、俺は家を出ていた。俺の中に眠る父親の遺伝子が牙をいたことに、俺は絶望と恐怖を覚えたのだ。いつか、妻や、生まれるかもしれない子供に同じことをするんじゃないかと。


 俺と彼女は籍を入れていなかった。いわゆる内縁の関係というやつだ。それは、互いのためでもあった。いつでも逃げられるように、との。


 今にして思えば、妻は結婚をしたかったのだろう。


 切り離し難い強固な絆を結ぶために子供を欲しがったのだろう。そんな考えが開け透けて見えてしまったことに苛立ちを覚えた。自分たちのために子供を利用すべきではない。一人の人間を育てるというのは、生易なまやさしいことではないと俺も彼女も知っていたはずだった。


「……最低だろ?」


 俺はそうAIナビに問いかけた。


 あいつは、俺と一緒にいるべきではない。働き者で慈悲深く、あと顔立ちも整っていた。俺のようなゴミムシにはもったいない奥さんだった。だからあいつは幸せになるべきなのだ。


 だから俺は道化を演じた。


「お腹が減りはしませんか?」


 ナビは、まるで脈絡みゃくらくのつながらない言葉を返した。


 いつの間にか夕陽は沈み、海岸線から見覚えのある街並みに変わり始めていた。


「フォロミー」


 ナビは言った。


 嘆息をつきながらも、俺はナビに従った。一体、どこに連れて行くのやら。そんなことをぼんやりと思いながら車を走らせていると、みるみる俺の眉根はひっついていく。


「おいお前、ここは――」

「フォロミー」


 ハンドルを握る手が、汗ばんでいく。


「……からかってるのか?」


 しかしナビは返事をしなかった。


 とある駐車場に車を止め、俺はハンドルに突っ伏した。


「まったく、何を考えているのやら」


 怒る気にもなれなかった。


「今でも奥さんを愛していますか?」


 しばし逡巡しゅんじゅんし、俺はあえぐように「ああ……」と吐き出した。


「目的地に到着しました。案内を終了します」


 しばらくして俺は、車を降りた。


 その、飲み屋の連なる場所は、俺と妻が出会った場所だった。ゲイバーの入る雑居ビルの裏路地を進み、行き当たりには古民家のような建物。


「潰れちまったのか……」


 もうあの店はなかった。


 何故だか俺は笑えてきた。同時に涙が溢れてきた。ここへきて、俺はあの頃と何も変わっていない感情を思い出したのだ。しかし今更それを思い出したところで何の意味もなかった。


「……ショウちゃん?」


 聞き慣れた声がして、俺は振り返る。


「なんでここに?」


 妻だった。


 ぐるりと頭を回し、俺は苦笑した。ママチャリでここへやってきた妻の手にはスマホがあり、ナビゲートされていたらしい。時代は変わったというか、もしかしたらそのうち人間はAIに支配される日も遠くないのかもしれない。


 そう思って、俺はやっぱり車を売ろうと思い至った。


「あのね、ショウちゃん。私ね、やっぱりショウちゃんといたい。ショウちゃんがいてくれたから、今の私があると思うの。だからその……」


 妻の口から次の言葉が出てくるには、とても長い時間を要した。同時に俺も同じことを思っていたことだろう。


 こんな俺を欲してくれる女は他にいない。


 言葉よりも先に、俺は彼女を抱きしめていた。


「ショウちゃん」耳元で彼女はささやいた。「私、結婚したいな」


 俺はただただ頷いた。


「私ね、すっごいことを思いついたんだ」


「なんだよ?」


「私たちが出会ったこの場所で、お店始めない?」


「けどしかしお前、金が……」


「大丈夫、ヘソクリがあるから。……えっとその、ごめんね? 今まで貧乏で。お金なかったのは貯金してたからなの」


 俺の人生は誰かに案内されてばかりだった。


 しかし悪い気はしなかった。


「ラーメン屋を始めようと思うの。どう?」


「いいんじゃないか」


 妻は嬉しそうに笑う。


「私ね、すっごい美味しいスープの作り方思いついたの!」




 のちに俺たちのラーメン屋は、でそれなりに売れた。

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