ダシの秘密
ファーストキスはニンニク味だった。
最低だった。最低の元カレだった。
彼と別れたのはそれが理由。キスは脳が
別れてからもう半年が経とうとしているのに、なぜそんなことを思い出したかというと。
そのスープが舌先に触れた瞬間、私はファーストキスを思い出したのだ。どうにも元彼は私とキスする前に、このニンニクましましラーメンを食べたらしかった。
とはいえ、そのスープを口の中で転がした瞬間の至福は、キス以上の幸せだった。なぜニンニク味のキスはダメで、ニンニク味のラーメンは許せるのか、ちょっとした哲学的問題に私はぶち当たる。
しかしそんな疑問など
舌先から喉奥までスープが通り過ぎる瞬間にはえも言えぬ充足感があった。さらりとした舌触りとまろやかでありながらも濃厚な味わい。止まらない。次に私は麺を運んだ。その時の私と言ったら、極上の恋愛映画を見終わったあとのように、感動に震えていた。
「最高かよ」
私は店主に称賛を向けた。
照れ屋なのか、小太りした店主の男ははにかんだ。
まさに命を頂いている気分だった。
私はあっという間に器を空にしていた。少々値段が張ることに目をつぶれば、このラーメンは星五つだ。しかし腹は満たされたはずなのに、私は食べ足りないとさえ思った。
だけれども。
脳内で悪魔と天使がささやく。
今年に入ってから体重は増加の一途を辿っている。そりゃそうだろう。週十四でラーメンを食べていれば、体重増加どころか、健康がやばい。
けれども。
どうしてもあと一杯食べたかった。
ベルトを緩めた私は、
「大将。塩と醤油を」
食欲には勝てなかった。
自分の胃袋の吸引力には驚くばかりである。
塩ラーメンは塩らしい品性があり、醤油は立体的な香りがさらなる旨味を感じさせた。
私がラーメン狂であるのは、失恋のショックであることは疑いようもない。やけ食いだ。私とキスをする前にラーメン食べるとか、そんなにラーメンの方がいいのかよ。そう思って私は当て付けにラーメンを食いまくった。ラーメン屋を巡りまくった。全部元彼が悪い。そうに決まってる。
私は味噌ラーメンを追加した。
味噌は日本人の舌に適した調味料であるにも拘らず、味噌ラーメンを看板にしたラーメン屋とは全国でも数少ない。なぜならラーメン屋が調整できる味とは限られているからだ。スープに情熱を燃やす人たちが味噌ラーメンに掛ける情熱は少ないのである。だがその味噌ラーメンは濃厚でいながら、
こうなるとトンコツを頼まないわけにはいかぬ。
私は元彼と再会した。
その味を私の舌が覚えていた。
どうやら元彼はこの店のトンコツを頼んだあと、私とキスしたらしい。最低だなあいつ。
しっかりとしたコクに、ガツンとくるニンニクのインパクト。しかしなかなかどうして、のどごし滑らかである。ついつい依存性を引き起こす。
それはまるで、キスのように。
気がつけば、私のお腹はたぽたぽだったが、キス以上の幸福感に包まれていた。
もう、彼氏とかいいや。
「大将、ご馳走様でした」
相変わらず店主は無口な男で微笑を浮かべるだけだった。
私は食後の運動がてら、会社までの道のりを徒歩で帰ることにした。同世代のOLたちが自然食やらダイエットランチの人気店で行列を作っているのが目に見えて、私は少し惨めさを思った。
「……幸せの半分も損してるし」
うまいもん食って死んでやるし。
そうして私は一ヶ月――、二ヶ月――、とあのラーメン屋に通った。その中毒性は凄まじく、もちろん一杯だけで終わる事なんて無かった。当然、私の身体ははみるみる膨れる風船のように肥大していった。休日になると、ゴキブリの如くわらわらと湧いてくるカップルたちが呪い死んでくれないかなと思いつつまたラーメン屋に足を向ける。
しかし私は天才的な発想に至った。ペンは剣よりも強しである。私はグルメ誌を任されている。
日本人全員デブ化計画だ。
あのラーメン屋を全国に知らしめてやろうと思ったのである。
不思議なことにあの店は、最高のラーメン屋であるにもかかわらず、行列ができる店ではなかった。
立地の悪さが主な要因のように思えた。怪しい大人のお店の連なる雑居ビルの路地裏という場所は、女子的に敷居はかなり高い。しかし一度食べれば誰もがあの店の虜になることだろう。なぜなら常連はデブしかいなかった。私を含めて。
私は毎日毎日飽きもせず、三食そのラーメンを食べ続けた。
だがまったく飽きない不思議さだ。いや、三ヶ月近く毎食味わえば、変化に気づくことができた。味が微妙に変わるのだ。塩や醤油、味噌と豚骨ですら毎日微妙に味が変わるのだ。しかし芯というか根底にある立体的なコク深い味わいには変わりがない。ずっと食べ続けても飽きない原因はここにあった。
「――ところで大将、スープの秘訣ってなに?」
いささか直接的な質問であったか、とあとになって思った。命の
「今度、この店の特集を組もうと思うの。どう?」
私は名刺を差し出し、取材を申し込んだ。
「いやぁ……そういうのはちょっとねえ……」
よくよく見ると大将の肌はつややか。奥さんもふくよかな体型……で収めるには太り過ぎている。おそらくは五〇代頃だろうけれど、肌の張りは二十代と言っても否定出来ない若々しさだ。
私の視線に気付いたのか奥さんは、
「コラーゲンを毎日タップリ取っているの」
と言った。
秘密はコラーゲンなのだろうか。
「スープの秘訣、知りたい?」
やっぱり店主は無口で、代わりに奥さんが会話を持ちかけた。
「ええ、もちろん」
「だったら今晩、零時ぐらいに来てくれる? 教えてあげてもいいけれど、決して記事にしないこと。誰かに言ってもダメ。それを約束してくれたのならば、教えてあげてもいい。ただし――」
奥さんは、不可解なことを言った。
その夜、私は約束の一時間前から張り込んだ。しばらく観察していると、常連客が店に入っていくのが見えた。男女ペアだったのが憎かった。
「なあ、ヨシコ。一体どういう風の吹き回しなん――」
「黙って」
私は元彼を連れていたのだった。
なぜかといえば、奥さんが突き付けた条件とはこうだった。
『ただし、必ず愛する人と来てください』と。
訳がわからない。
よって恋人のいない私は、恥を忍んでこいつに頼み込むしかなかったのだ。元彼は大福みたいにもっちりとしているけれど、愛の粒あんくらいは残っているだろう。
そうしてラーメン屋に入った私はスープの秘密をすぐに知った。
ずんどう鍋の中には大将と女将や、出入りしていた夫妻やカップルたちが湯に浸かって愛し合っていた。彼らはラーメンを食べて、ラーメンの出汁になって幸せそうだった。
脳裏に浮かぶは。
『注文の多い料理店』。
「お二人も入ったらどう? さっぱりするわよ」
ラーメン屋の秘密は人間のダシだった。
料理のスパイスは愛情とも言うけれど。
きっとこいつら頭おかゆになって、お花畑から良い出汁が出ているんだろう。
「なあ、ヨシコ。やっぱり俺らやり直さないか? 今度は苺パフェキスするからさ!」
どういう理屈だ。こいつの頭はスムージーか? いやしかし、苺パフェ味のキスはしてみたい。私はもう一度チャンスを与えることにした。
ところで翌日のラーメンは不味くなっていた。
愛はこしあん、世は情け。
私、ダイエットはじめました。
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