トイレの妖精

 俺はおもわず顔をしかめた。


「今日は一段と掃除しがいがあるな」


 しかし、ただようアンモニア臭にもそろそろ慣れた頃。この匂いを嗅ぐと、俺は強烈な使命感に燃えるのだ。


 旧校舎のトイレはさびや日焼けに黄ばみ、老朽化のあとが伺える。タイルや壁には下品な落書きが散見されており、殺風としたトイレというよりも、殺伐とした公衆便所だ。


 それでいて、使用率は高い。


「誰だよ! クソ盛りにしたやつは!」


 サービスが良いソフトクリームでもここまでは盛らない。というか、腸の中にこれ程までに特大を溜め込めるものなのか? と俺は人体の神秘に感心する。


「たくっ。教師もやれよな。つーか。給料もらわないとやってられね」


 中学生とは、クラスメイトの視線や、特に女子達の目を気にする生物だ。誰かに大をするほうから出て来た所を見られたりすれば、あだ名はウンコ野郎か糞野郎と相場は決まっている。


 だからこそ、ひと気のない旧校舎のトイレは有り難い。


 しかし俺たちのオアシスも取り壊されることが決まっていた。だからなのか、駆け込み需要はいちじるしい。ともあれ、俺もときどきこのトイレを使うのだし、取り壊し作業に関わる業者さんたちに気持ちよく使って欲しい。


「よし」


 と、気合を入れ、ブラシとホースを構える。


 この手の特大は水攻めに限る。ホースの口を摘んで、水流で退治しようとしたが、強敵だった。次は量で攻めようとバケツに水を貯め、一気に放流。だが敵はなかなかに強情だ。動かざることウンコの如し。


 こうなれば徐々に小さくしていくしかない。

 俺はゲームの主人公になった気分で、魔物と対決する。


「重てぇな、くそっ」


 俺は水攻めを続けた。


 魔王は徐々に分裂を始め、この戦いにも終わりが見え始めた。半分くらいになり、これならいけるだろうと一気に流そうとしたのだが、見通しが甘かったようだ。今度は詰まってしまい、あふれる濁流だくりゅう侵掠しんりゃくすることウンコの如し。


 俺はラバーカップを手に取った。


 頭の中では歴戦の勇者の如く。

 掃除用具は魔物を倒す武器。


「ふふふ。今こそ成敗してくれるわ。ここであったが百年目っ、覚悟しろ!」


 俺は、秘儀『全身ポンプ運動』を駆使して魔王の汚したトイレという汚い世界への介入を行った。


「そりゃ! てぇや!」


 徐々に水位も下がっていき、俺はラバーカップに全身全霊を込めた。必殺『ジャンピングデストロイ』である。


「食らえ!」


「痛いですぅ~」


「……ん?」


 今、何か聞こえた気がしたよーな? いや、気のせいか。


「よいしょお! どりゃあ!」


「もう少し優しくして下さいですぅ~。痛いですぅ」


 気のせいじゃなかった。確かに声が聞こえた。


 俺は辺りを見渡した。しかし誰も居ない。

 まさかと思って、便器の中に目を落とした。


「喋るウンコ……?」


 いやまさかな。

 気にせず今一度、ラバーカップを押し込んだ。


「道具はもっと優しく扱ってくださぁい!」


 空耳かと思ったが、今度こそはっきりとした声が耳に届いた。

 俺はじっと便器を眺めた。


「何所に目を付けてるのですか。ここ、ここですよぉ。お兄さんが手に取っているそれです」


 俺はラバーカップを見つめた。


「や、やだ。見つめないでくださいですぅ。恥ずかしいですぅ」


 俺はラバーカップを思いっきり、便器に押し込んだ。長靴でラバーを踏みつぶした。汚物の濁流が逆流しようとも殲滅せんめつする意気込みで水を流した。


「きゃー。やめてくださいですぅ! 痛いですぅ! 臭いですぅ」


「……まじで誰かいる」


 ブルルと、俺は寒気を覚えた。


「私はトイレを使った皆さんに幸せを与える、キューティーな妖精です。テヘ」


 俺はラバーカップを洗ってから静かに壁に立てかけた。


 きっと睡眠不足だ。部活に勉強にと忙しい昨今の中学生は疲れてる。昨日徹夜でゲームをしたのもいけなかったんだろう。幻覚でも見てんだ。


 今日は早めに寝よう。俺は無言で掃除を再開した。


 しばらくして便器の一つが綺麗になり、俺は晴れやかな気分でトイレの小窓から夕暮れの景色を眺めた。


「お兄さんが落としたのは金のウンチですか? それとも銀のウンチですか?」


 別の便器の内側にはこびりついた汚れが残っていた。


「茶色いクソだった」


「お兄さんは正直者ですぅ。だから金色のウンチをプレゼントしましょう。私の!」


「いらねえ!」


 思わずツッコんでしまった。


「え? 知らないのですか? 妖精のウンチは金箔きんぱく付きなのですよ?」


 そんな話を聞いたことがない。


「嘘をつけ」


「トイレの妖精にできないことはありません! ムムム、ふんぬぅっ!」


 するとラバーカップは蠕動ぜんどう運動を見せ、茶色いウンチを吐き出した。


「おい、クソ妖精。ゴミに出してやろうか?」


「今日は調子が悪くて、ちょっとしか出ませんでした。でも金粉はちゃんとその中に入ってますよ」


「手を突っ込んで探せって?」


「干し草の中から針を探すというじゃないですか。この場合、ウンチの中から金粉ですけれど」


「そのたとえは、無駄骨という意味なのだが」


 俺は頭を抱えた。


 というか俺は本当に頭がおかしくなっているんじゃなかろうか。改めてトイレの中を見渡したけれども、声の主の姿は見えない。ああでももしかしたら目覚めた俺の霊感が、不透明な存在を感知できるほどにはなっているのかもしれない。


「……そろそろ俺も厨二病を卒業する日が来たようだ」


「お兄さんも構ってくれないのですね」


 微妙に会話が噛み合っていないのは、人間と妖精という種族の垣根の違いゆえだろうか。


「お話し相手になってくれれば、お掃除お手伝いしてあげようと思ったのに……」


「本当か?」


「妖精は嘘つきません!」


 嘘どころか、クソしか出さない妖精を信じる気は起きなかった。しかし次の瞬間、俺は目を疑った。ブラシやホースなどの掃除用具は、突然ひとりでに動き始めたのだ。


「一体、何が起こっているんだ……?」


「どうですか? すごいでしょ!」


 俺が驚いているさなか、掃除用具たちはまるで踊るように掃除をしたのだった。相変わらず妖精とやらの姿は見えないけれども、どこからともなく聞こえる鼻歌が楽しそうで、俺も楽しんで掃除に加わった。曰く、謎の妖精はトイレに住う座敷わらし的なアレらしい。心の汚れた大人には姿が見えないのだとか。


 ショックを隠せなかった。


 こんなに健気にトイレ掃除をしている純粋な中学生の心はもう汚れているらしい。


 ……いや、俺の心にすくった闇がおそらくは妖精とのリンクを断絶しているのだろう。しかしトイレの妖精の持つ清浄なエーテルが辛うじて俺たちの絆を保っていると考えれば、まだこの世界は救いようがあるのかもしれない。


 ここまでの戦いは虚しくも悔しい戦いだった。トイレ掃除班の仲間たちには捨てられて、俺は独りいばらの道を進んできた。しかし俺の戦いは無駄ではなかったはずだ。今では魔王を退治した達成感に包まれてさえいる。


「いつもこのトイレを掃除してくれる君にお礼がしたかったのですよぉ~」


 俺は別に誰かに喜んでもらうためにトイレ掃除をしていたわけではないが、こうして感謝されるのはとてもいい気分だ。


 そうこう言っている間に、掃除用具たちが隅々までピカピカにしてくれた。普段よりもずっと早く掃除が終わってしまい、暇を持て余す俺は疑問を投げかけた。


「ところで、君は明日からどうすんだ?」


 旧校舎はゴールデンウィーク中に取り壊されてしまう。もしかしたら妖精は消えてしまうんじゃないだろうかという不安があった。


 すると妖精は落ち込んだ声色で、


「さよならです……。でもこうして最後にお話をしてくれて幸せで一杯です」


 妖精がいなくなると思えば少しだけ寂しさがあった。


「君の望みは? 最後にして欲しい事とかないか?」


「えっと……その……」


「このトイレにはお世話になったんだ。そのお礼になんか出来ることないか?」


「いいえ、もう充分です。私は君が少しだけ幸せになってくれればそれで。うんちの金粉で幸せになってください」


 あまりありがたくないお礼だった。


「君には実態とかあるのか?」


 俺がそう聞いたのはデッキブラシが微かに揺れていたからだった。


「妖精は人や物の背中に貼り付けます」


「よし、今から運んでやるから、しがみついておけよ」


「えと?」


「新校舎のトイレに移してやるから。また来週からも一緒に掃除やろうぜ」


「はいっ!」



      *



「――くん。ねえってば? 聞いてる?」


 俺は目を開けた。


 目の前には同じクラスの女子がいた。彼女は旧校舎の女子トイレを唯一掃除している珍しい人。


「立ったまま眠るなんて器用だね。というかサボってたんじゃないよね?」


「えっと……」


 トイレを覗き込むと綺麗な状態だった。どうやら俺は掃除を終わらせた後、壁にもたれたまま居眠りしていたらしい。


「お、きれいになってるね」


 やっぱり俺は疲れていたらしい。肉体は限界だったがトイレ掃除という使命だけは果たして、ほんの幾ばくかの休眠をむさぼっていたようだ。


「じゃあ、教室もどろっか」


「あ、うん」


 さっきのは夢だったのだろうか。


 まあ夢に違いないのだろうけど。


 しかしなんとなく夢ではないような気がした俺はブラシを手に取った。


「それ、どこに持って行くの?」


「あ、えっと……余所よそから持って来たから元に戻さないと」


 適当に言い訳をつけて誤魔化した。正直、夢や幻や、あるいは厨二病の妄想や、はたまた妖精だろうがウンチの怪人だろうがなんだってよかった。俺とあいつは約束したのだ。約束を守らねばならない。それが勇者というもの。


 そもそも金なんてもらわなくとも、旧校舎のトイレ掃除からはずっと報酬を頂いていたのだから。


 俺が旧校舎のトイレ掃除係になっている理由——それは、教室までの帰り道、好きな女の子と二人っきりの会話が出来るからだ。


「そうだ」


 彼女は笑顔を作って、スカートのポケットに手を入れた。



「はい、いつもお掃除を頑張っている君にご褒美なのですよぉー」



 それは金のウンチだった。

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