5 園芸部の三人
香澄と共に部室へ向かっていると、丁度プレハブが見えたところで、窓を開けて顔を覗かせている雛子が目に入った。
雛子は私たちの姿を見つけるなり、パッと顔を輝かせて部室の外に出てきた。そして、真っ直ぐにこちらへ駆け寄ってくる。
何と言おうか、甘えたがりのわんこのようである。
「お姉さま、八重山先輩、こんにちは」
「はい、こんにちは。出迎えご苦労様」
労いの言葉とともに頭を撫でると、雛子は首をすくめて嬉しそうにはにかんだ。
可愛いやつめ。
部室に入って荷物を置き、バッグからエプロンを取り出すと、雛子が不思議そうな顔をして私に視線を向けてきた。
「八重山先輩ってどうしていつも制服の上にエプロンなんですか?」
何を聞くかと思えばそんなことか。
確かに、香澄と雛子のふたりは、いつも活動直前に汚れても問題のない体操着に着替えている。香澄は特に、作業中に地面にお尻をつけたり、土にまみれた手で平気で髪や制服を触るため、着替えることを私が強制しているのだ。
「エプロンだけでも、気を付けていればあんたたちみたいに汚れないの。さすがに夏場は体操着に着替えるけどね、汗かくし」
雛子が、ふーんと言って、自分が着ている体操着を指でつまんで引っ張った。その横から、香澄が口をはさむ。
「雛子には特別に本当の理由を教えてあげる」
真剣な面持ちの香澄に、雛子がごくりと喉を鳴らした。
「やえの制服エプロンはかわいい」
真面目な顔でそう言って、香澄は私に向かって親指を立てた。雛子が両手を合わせ、「確かに」と納得の表情をみせる。
「すっごく似合ってますもんね!さすがお姉さまです、八重山先輩のことはよくわかってるんですね」
「結構長い付き合いだから」
香澄は当たり前だと言わんばかりに力強く頷いた。よくわからないところで意気投合するふたり。付き合いきれない。
「香澄も早く着替えちゃいな、先に始めとくよ」
「今日は何をするんですか?」
「そうだねえ、今日は小庭園のお手入れが主かな。草取りして、花壇に水あげて、プランター類の摘芯に切り戻し……まあ、状況によって適宜やっていくよ」
「頑張ります!」
雛子が両腕でガッツポーズをつくり、やる気を露わにした。
「じゃあ私は温室の様子見てからそっち行くね」
着替えながら言う香澄だが、頭を袖の部分から出そうとしていて、かなり間抜けな格好だ。
手を伸ばして袖をつかみ、手前に引っ張ってやる。すると、香澄の頭が正しい場所からすっぽりと抜け出てきた。
「様子を見るなんて軽く言うけど、あんたが満足する頃には日が暮れるでしょうが」
「まあまあ、ついあれこれと世話を焼きたくなるんだよ」
「別に文句があるわけじゃないけどさ。細かいところまで丁寧にやってくれるし、それに今日はそんなにやることも多くないしね」
私がため息をつくと、傍で私と香澄のやりとりを聞いていた雛子が、なにやら可笑しそうに笑った。
「お姉さまのそれって、何だか八重山先輩みたいですね」
ああ……香澄にはいつも世話を焼くし、雛子と出会ってからはこの子のこともかなり気に掛けている気がする。雛子が言いたいのは、たぶんそういうことだろう。
「やえは私たちのお母さん代わりだからね」
「はい、優しくて面倒見がよくて、ちょっと心配性で、お弁当まで作ってくれて……」
「そうだね。いつもありがとう、お母さん」
「ありがとうございます」
なんだこの流れは。このふたりがもっとしっかりしてくれれば、私も世話を焼く必要がなくなるというのに。
「はいはい、どういたしまして」
まあ、感謝をされるというのは全くもって悪い気はしない。
それに、もし本当にこのふたりが完璧に自立をして、私が気に掛ける必要がなくなったとすれば、それはそれですごく寂しいと思うことだろう。そう、まさに心にぽっかりと穴が開いたように……。
もしかしたら私も、このふたりには精神的に支えられているのかもしれない。
「あ、そうだ、忘れないうちに渡しておきたいものがあるんです」
雛子が思い出したようにそう言って、かばんを開けて中を探った。
何だろう、また香澄にプレゼントだろうか。
中から取り出した箱……綺麗にラッピングされた、どこか見覚えのあるその箱を持って、雛子は香澄ではなく私に駆け寄った。
そしてその箱を私に差し出してきた。
「はい、八重山先輩にも。遅くなりましたがバレンタインのチョコレートです」
雛子の天真爛漫な笑顔に撃たれ、ほんの一瞬だけ私の思考は停止した。
何、私に? 例の二ヶ月ごしのバレンタインチョコを私にもくれると? いや、別に私と雛子はバレンタイン以前に出会っていたわけではないから、二ヶ月ごしというわけではないし、早いも遅いもバレンタインデー当日も何もあったもんじゃないが。
「あ、ありがと……」
ごちゃごちゃと頭の中で思考を巡らせながらも、ぎこきない動きでなんとか受け取り、やっとの思いで言葉を発する。
「あっ、でもお姉さまにあげたのとは意味が全然違いますからね! これは、アレです……そう、お世話になってる人へのお礼という意味です! あと材料とか色々余ってたので、都合の良い処分先なんです!」
照れくさそうにして目を泳がせながら言い訳を並べ立てる雛子に、私は思わず覆いかぶさるように抱き着いた。
嬉しい、お母さん嬉しいよ!
長い間目をかけて育ててきた植物が立派に成長した時と同じ喜びを感じる。まあ雛子と出会ってからはまだそんなに経っていないのだが……そんなことはどうでもいい。
雛子の小柄で華奢な身体を力の限り抱きしめていると、背中に何かが当たる感覚に気づいた。
「先輩、力が強いです、苦しいです」
どうやら雛子の訴えだったようだ。名残惜しいが、仕方なく身体を離す。
「八重山先輩喜びすぎです」
「いやあ、ごめんね、衝動には逆らえなかったよ。ありがとう雛子、すごく嬉しいよ」
雛子が、えへへと気恥ずかしそうにして頬を掻いた。
こんな後輩をもって、私はなんて幸せ者なんだろう。
幸福に浸っていると、今度は香澄が朝にうちの店で買った苗の入った紙袋を持って、私と雛子に近づいてきた。
「ついでに私も今のうちに渡しとこうかな。はい雛子、チョコのお返しだよ」
香澄がチョコレートコスモスの苗を手渡すと、雛子は目を丸くして驚いた。
「えっ、いいんですかお姉さま」
「もちろん。大事に育ててくれると嬉しい」
雛子が、首が千切れるんじゃないかと思う程に激しく、何度も首を縦に振った。
「はい! 大切に育てます!」
苗に添えられた、簡単な花の紹介と写真が載った小さなラベルを凝視する雛子の全身から、嬉しさが滲み出ている。
その様子を静かに見守っていると、
「こっちはやえの分ね。いつも迷惑かけてるから、たまにはって思って」
と香澄が別の苗を私に差し出してきた。
二つ買ったうちの、ストロベリーチョコレートの方の苗だった。
「あら、そういうことだったのね。ありがとう」
お礼を述べて香澄に目をやると、満面の笑みでなぜか諸手を広げている。これは……もしかして胸に飛び込んでこいということだろうか。
思わず怪訝に眉をひそめると、香澄は不服そうにジトっとした目で見てきた。
「なんか雛子にもらった時と反応が違いすぎて腹立つ」
「あんたそういうキャラじゃないでしょうが」
「キャラとかじゃないし」
「はいはい。香澄もありがとうね、嬉しいよ」
ハグの代わりに頭を撫でてやると、香澄は気の抜けた気持ちの良さそうな顔をした。
しかし、雛子にも香澄にもプレゼントをもらってしまった。私も何かお返しを考えなくてはならない。
……いや待てよ、私は毎年のバレンタインデーには香澄にチョコをあげているが、そのお返しをもらった覚えが一切ない。今まで特段気にしていなかったが……まあ、香澄の言っていた通り、このチョコレートコスモスはそれを含めた日頃のお世話のお返しだと捉えておこう。
というわけで、雛子へのお返しだけ考えることにする。
その雛子はというと、依然として幸せそうにニヤニヤしながら苗の観察を続けていた。
「雛子、せっかくだから自分用の新しい植木鉢買っちゃおうか。それで一緒に育てよう」
私の提案に、雛子は肩を落として顔を曇らせた。
「えっと、私もそうしたいんですけど……実は今お小遣いが全然残ってなくて」
ああ、香澄へのチョコレートにお金を注ぎすぎたか。
「いいよ、私に買わせて。チョコ貰ったし、そのお返しってことでさ」
すると、雛子の顔に明るさが戻った。
「いいんですか?そんなに大したものじゃないんですけど」
「いいのいいの、私にとっては大したものだから。じゃあ明日、部活は午前中に終わらせて、買い物に行こっか」
雛子が、「はい、楽しみです」と笑みを浮かべる。その横で、香澄が右手を高々とあげた。
「私も行きます」
「お姉さまと一緒にお買い物!」
「いいけど、あんたが買い物についてくるって珍しいね。何か買うの?」
「私も植木鉢買う」
澄まして言う香澄。私と雛子は顔を見合わせた。
「あの子、除け者にされたみたいで嫌なのよ」
「お姉さま可愛いです」
私たちのやり取りに、香澄が眉間にしわを寄せて口ごもった。私はそんな香澄にクスリと笑いを漏らした。
「じゃあ今度、香澄の分のチョコレートコスモスの苗も持ってきてあげるから。あんたがくれたコレのお返しってことで」
香澄に貰った苗を指先でそっと撫でてそう言うと、香澄は満足そうにして頷いた。
香澄と、そして雛子とも、この園芸部で活動を共にできるのは今年が最後だ。その後どうなっているかなんて私にはさっぱり見当もつかないが、今過ごしているこの時間は、きっと何よりも大切にしなければならない。
香澄と平和な日常を過ごしているとつい忘れそうになってしまうが、それはずっと、この学園に入学して園芸部に入部した時から変わらないことだったはずだ。
「さ、そろそろ部活するよ」
二人を促し、道具一式を抱えて外に出ると、春の強めの日差しが照り付けた。
「八重山先輩、荷物私が持ちます」
「ありがと、じゃあ半分こね」
遅れて出てきた香澄がやる気のなさそうに見える敬礼をして、「温室は任された」と言った。
「別に任せてないけど、よろしく頼むわ」
「お姉さま頑張ってください」
香澄が親指を立てるのを見届け、私と雛子は小庭園に向かって歩き出した。
きっと一年なんてあっという間なんだろう。過ぎていく近しい未来を想像するとため息もつきたくなる。
大切なものを我が手からこぼさないように日々を噛みしめていると、その儚さに落胆することもある。
でも、だからこそ、大切にした今が手の内で輝きを見せるのだ。それは私自身の経験で知っていて、絶対に間違いのないことだ。
すぐ横を歩く雛子を見下ろすと、視線に気づいた雛子が私を見上げてにっこりと笑った。
さて、今日もこの時間を精一杯楽しむとしよう。
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