4 極悪人め


 土曜日の朝。家業の手伝いをしているところへ、珍しい客がやってきた。


「あら、よく来たね。まだ開店前だけど、いらっしゃい」


 その珍しいお客様、長谷香澄が寝ぼけまなこをこすりながら頷いた。

 学園の寮からここまではバスで三十分、徒歩十分といったところだ。わざわざ香澄が来てくれるなんて、一年に三回あるかないかくらいだ。


「髪の毛乱れてるよ。で、何か入り用だった?」


 香澄の髪を手櫛で整えながら訊くと、香澄は立ったままうつらうつらとして、意識があるのかないのか、「襟も曲がってる……」と漏らした。

 確かに香澄のブラウスの襟が折れている。いつもは気にしないくせに……さては寝言か。

 襟を直してやり、ついでにリボンとブレザーとスカートも整える。


「ほら、起きなさい」


 香澄の額を指の腹でぺちんと叩くと、「起きてるよお」と言って私に正面から抱きつき、もたれかかってきた。

 寝起きがひどく悪いくせに朝っぱらからひとりでこんなところまで来るからこうなるんだ。バスに揺られながら熟睡していた姿が目に浮かぶ。


「ほら香澄、大好きな木酢だよ」


 丁度エプロンのポケットに入れていた木酢液の容器を開け、香澄の鼻先に近づける。すると、香澄の目がカッと見開かれ、瞬時に後ずさって私から距離をとった。


「ひどい、極悪人め」


 香澄は涙目になって鼻をつまんでいる。私も木酢液の匂いはあまり好きではないが、そこまで過剰に反応するほどだろうか。

 とは言え、いつものことながら、香澄の木酢液に対する反応は何度見ても面白くて可愛くて飽きない。

 容器をポケットに仕舞い、完全に眠気が吹き飛んだであろう香澄に目を向ける。


「それで、今日は何しに来たの」

「そうだった。アレ入ってるかな」

「アレじゃわかりません」

「チョコレートコスモスの苗」 


 ああ、そういうことか。つまり、香澄が雛子へのお返しに考えたのはそれだったのだろう。バレンタインチョコのお返しとしても、そして何より香澄らしさとしても、その両面からすごく良いチョイスだと思う。

 ただ、花言葉が少し気にかかる……“恋の終わり”、“恋の思い出”そして“移り変わらぬ気持ち”。

 香澄のような植物好きはあまりひとつひとつの花言葉を気にしないものだが、乙女チック満開の雛子のことだから、悪い方向に向かないか少々心配だ。

 香澄から貰ったということだけで喜びが爆発するのは間違いないだろうけど、もしものときのためにフォローを考えておくか。


「品種は?」


 香澄に問うと、人差し指を顎に置いて眉間にしわを寄せた。


「何があったっけ」

「裏においで。母さんが何種類か入れてたと思うから、好きなの選べばいいよ」


 香澄を連れて店の裏に回り、苗の置いてあるところに案内する。整然と並んだ苗たちに、香澄が顔を寄せる。


「苗ってことは最初から雛子にお世話してもらうんだよね?」

「うん、そう。まだ園芸部に入ったばかりだし、まずは花を育てる楽しさを知ってほしいから」


 こんなことを言える香澄に、思わず頬が緩む。植物が関われば途端に人の心の深くまで考えが及ぶようになる。そんな香澄が私は好きなのだ。

 もちろん、選んだチョコレートコスモスを雛子にあげるということをうっかり漏らしてしまっていて、あまつさえそれに気が付かない薄ぼんやりした香澄も好きだが。


「じゃあ、育てやすいショコラはどう?他のに比べると香りが弱くなっちゃうけど」


 香澄が悩まし気に腕を組む。


「せっかくのチョコレートコスモスだし、香りは欲しい」

「だったらノエル・ルージュかな。これも気温はあまり気にしなくていいから育てやすいよ」


 香澄が、うん、と言って、苗の横に添えられている小さな開花時の写真を凝視する。そして、満足げに頷いた。顔をあげ、私と目が合うと、香澄は口辺に微笑を浮かべた。


「これにする。さすがやえ、頼りになる」

「褒めても一銭もまけてあげませんからね」

「ちぇ、期待してたのに」


 そう言って香澄は不服そうに頬を膨らませた。ぷっくりと膨らんだ頬をつつくと空気が抜けて、後には柔らかい感触が残った。


「ねえ、こっちのはどんな感じ?」


 香澄が指で示す先には、同じくチョコレートコスモスの苗があった。


「それはストロベリーチョコね。今の時期だと赤が映えて綺麗だよ」

「じゃあこれも一つ買ってく」

「はいはい、毎度あり」


 結局二種類買っていくことにした香澄だが、二つとも雛子にあげるのだろうか。なんてお優しいお姉さまだこと。雛子はきっと、泣いて喜ぶに違いない。


 その後、無事に目的のものを手に入れた香澄は、店に隣接する私の家に上がり込んだ。

 香澄と顔見知りの母親が、


「まあ香澄ちゃんいらっしゃい、ずいぶんご無沙汰だったね。朝ごはん食べてく?」


 などと招き入れたのだ。朝ごはんを食べ終わった香澄はというと、図々しくも私の部屋でぐっすりと睡眠中だ。

 私はこんなにもせっせと働いているというのにあいつときたら……。

 昼からは園芸部の活動のために学校に行かなければならない。きっといつまでも寝ているだろうから、時間になったら無理やりに叩き起こしてやろう。


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