3 春日和?


 部室へと足を運ぶ途中。隣でぽりぽりとチョコレートをかじる香澄に湿っぽい視線を送る。


「あんた行儀悪いよ、部室についてから食べな」


 香澄は、うーん、と気のない返事をして、かじっていた残りを口の中に放り込んだ。

 園芸部の部室は少し特殊で、高等部校舎の裏手にある温室の傍に設置されている。十畳程のプレハブ小屋だ。

 温室までは生徒たちもわざわざ近寄らないし、すごく静かで落ち着ける場所である。


「ところで雛子にお返しするの?」


 私の質問に、香澄はこくりと頷いた。


「雛子にはいらないって言われたけど……したいな。これすごくおいしいし」


 そう言って、さりげなくチョコレートを取り出して再びぽりぽりとかじり始める。

 そりゃそうだ。いくら本人からいらないと言われたからといって、時季外れのバレンタインチョコという明白な気持ちに応えないのは、お姉さまの名折れに他ならない。

 まあこの香澄は、そんなことは一切考慮していないし、頭の片隅にもその点についての考えはないのだろうが。


「それで、何をあげるか決めた?」

「うん、もう決めてる。喜んでくれるかは分からないけど……」


 いや、何をあげても疑いの余地なしに手放しで喜ぶぞ、あの娘は。

 例えそこらで拾った石ころでも涙して歓喜することだろう。雛子にとっての価値とはおそらく、香澄からもらったという事実そのものだろうから。


「で、何をあげるの?」

「秘密」

「なんでよ」

「秘密だから秘密」


 澄ました顔でチョコレートを食べ続ける香澄の脇腹をつつく。香澄はちらと私に目を向けて、何事もなかったかのようにまたチョコをかじる。

 こいつは脇腹がきかないのは知っていたが、ほぼ無反応でなんだか腹が立ってきた。私にくらい教えてくれたっていいものを。


 雛子はまだ部室には来ていなかった。さっそく今日から参加すると約束したので、授業が終わればすぐにやってくるはずなのだが……。

 温室の周囲を確認してみても、雛子はいなかった。場所はきちんと伝えてあるため、迷うなんてことはないと思うが、少し心配だ。

 雛子に聞いたところ、今日の中等部一年の時間割は、私たちよりも一コマ少ないらしかった。あの雛子のことだ、心がせいて先に待っているとばかり思っていたから拍子抜けだ。


 部室に入ると、壁際の椅子にだらりと腰かけて依然チョコレートをかじる香澄に、


「やえ、心配性」


 と言われた。

 いつも私に心配をかけているのはどこのどなたやら。常にしているその心配が、過剰だなんて微塵も思ったことはない。

 雛子を待つ間に私も休憩しようと、肩にかけていたカーディガンをハンガーにかけた。その時、息を切らした雛子が扉を開けて部室に姿を現した。


「すみません、遅れました!」


 膝に手をついて荒い呼吸を繰り返す。


「どうしたの、そんなに慌てて」

「せっかく授業が早く終わったのに遅れちゃって……早くお姉さまに会いたかったので」


 徐々に呼吸が落ち着いて、雛子は、ふう、と息をついた。


「何かあったの?」

「ちょっとですね……」


 雛子が視線を泳がせ、どこか後ろ暗そうに人差し指で頬を掻く。そして、


「風紀委員長さんにつかまってました」


 と打ち明けた。

 なるほど、制服の着崩しが多少改善されているのはそのせいか。

 私は雛子のすぐ目の前まで歩み寄った。


「もう不良ごっこはやめなさい。香澄はそういうつもりで着崩してるんじゃないんだから、無理に真似する必要もないでしょ」


 雛子が、「でも……」と香澄を見て困ったような顔をする。


「あのね、あの子はなぜか時間が経つ度に制服が崩れていくから、私は毎回の授業の前に必ず香澄の制服チェックしてるの。ほら見て、今みたいなだらしなさで授業を受けたら先生に失礼でしょう?」


 後ろの香澄を指さすと、香澄はどこか偉そうに大きく頷いた。


「だから少なくとも、授業の間はきちんとしてるんだよ。それに、雛子が慕っているのは香澄のどういうところなの、外見じゃないでしょ」


 肩をすぼめた雛子が素直に首肯するのを見届け、私は雛子に手を伸ばした。

 制服の気になるところを直してあげていると、雛子は気恥ずかしそうにして目を伏せた。


「ほら、袖のボタンもちゃんと留めなさい。ブラウスは上まで留めなくてもいいけど、リボンはきちんとつけるんだよ、緩んでるし曲がってる」


 全体を整え、私は自分の腰に手を当てて、雛子のつま先から頭までチェックした。

 そして右手を雛子の頭に乗せ、軽く撫でた。


「よし完璧。立派立派」

「あ、ありがとうございます」

「うん、こっちの方がずっと似合ってるよ。ね、香澄」


 後ろを振り返って同意を求めると、香澄は親指を立てた。


「うん。雛子かっこいい」

「本当ですか? 嬉しいです。これからはちゃんとします」

「あとチョコおいしかったよ、ありがとう」


 いつの間にか全部食べ終わっていたらしく、香澄は空になった箱をぶらぶらと揺らした。

 雛子は「よかったです」と言いながらも、何事かが気になるようで僅かに首をかしげ、香澄に向ける目をしばたたいた。

 私がどうかしたのかと訊くと、雛子は背伸びをして私の耳元に口を近づけた。


「あの、中にお手紙も入れたはずなんですけど、お姉さまはまだ読んでませんか?」


 はて、開封するところも見ていたが、それらしいものはなかったはずだ。

 きょとんとして私たちのやりとりを不思議そうに見る香澄。もし手紙があったとして私が単に見落としたのだとしても、香澄ならばチョコよりもそっちを優先して先に読むはずだ。

 ずっと一緒にいた私がそれを目撃しないはずがない。


「手紙は入ってなかったと思うよ。入れ忘れてない?」


 私の返答に、雛子は口を閉ざして宙の一点を見つめ、記憶を探り始めた。間もなく、はたと手を打って制服の内ポケットに手を突っ込んだ。

 引き抜いたのは生徒手帳だった。

 生徒手帳の間から、小さく畳まれた薄紫色の手紙らしきものが出てきた。


「そうでした、チョコを作り直しすぎてここに仕舞ってあったことを忘れてました」


 雛子は気恥ずかしそうに、えへへと笑った。


「お姉さま、これ、よかったら読んでください」


 香澄に駆け寄り、改めて手紙を手渡した。香澄が手紙を開くのを、照れくさそうに見守っている。

 そんな雛子の制服の裾から、何かが床に落ちるのを私は見た。生徒手帳を取り出した際に、一緒に出てきてしまったのだろうか。

 近づいてそれを拾うと、押し花で作った栞のようなものだった。薄紫色の二つの花弁と一枚の緑葉が別々になって押されていた。ホトケノザだ。


「雛子、落としたよ」


 肩に手を置いてそれを見せると、雛子はハッとして手に取った。そして大事そうに両手で包み込んだ。


「ありがとうございます。私の宝物なんです」

「それ、昼休みに話してくれた時の?」

「はい! 枯れちゃう前に、どうにか残せないかなって思って。お姉さまとの大切な思い出なので。でもホトケノザって難しくて、結局花びらと葉っぱだけを切り取ってこういう風になりました。そのおかげで妹の分も作れたので結果的には良かったかなとは思ってますけど」


 私は何も言わず、半ば衝動的に雛子の頭を撫でた。すると、いきなり立ち上がった香澄も、微笑を浮かべて雛子の頭に手を乗せた。

 雛子は突然の出来事に面食らったのか、顔を赤くしたまま硬直するばかりだ。


「雛子、手紙読んだよ、ありがとう。あとそれ、大事にしてくれて嬉しい」


 雛子がぎこちなく香澄の顔を見上げる。


「はい、お姉さまに言われたことずっと忘れません。お姉さまみたいな、優しくて強くてかっこいい素敵な人になります」


 香澄はにこりとして頷き、また椅子に腰かけた。

 喜びを含ませてはにかむ雛子に、私はしめしめと耳打ちをする。


「香澄ね、お花を大事にする人は好きだから、かなり好印象だよ」


 雛子は肩を跳ね上がらせ、さらに顔を真っ赤にしてたじろいだ。私は素知らぬ顔で背中を向け、何気なく窓の外を見遣った。


 ふふふ、これで部活にも精を出してくれることだろう。


 ついでと言ってはなんだが、雛子の気持ちも応援してやることにしよう。あれがどういう類の感情なのかは吟味の余地がありそうだが、邪魔ものにならない程度につなぎ役を買って出ようじゃないか。

 私にとって命よりも大切な園芸部の安泰を背負ってくれることだし、せめてものお礼だ。


「いやあ、春日和だねえ」


 窓外の穏やかな景色を眺めながら、私はそんなことを呟いていた。

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