第25話 《時は金なり》

 眠れない。

頭の中が言い表しがたい不安ばかりで

満たされていた。


男は、無気力な状態であった。

仕事、食事、睡眠。これらの繰り返しで

特に問題なく生きてはいるが、

その生活には飽き飽きしていた。

男はいつも、このつまらない人生もそれを

取り囲んでいる世界も壊れてしまえばいい

と、そんなことばかり考えていた。



 どんなことでも知れば知るほど、

世の中に嫌いなものが増えていく。

ずば抜けた才能を持った一部の人間以外には

どこにも抜け道はなく、このまま変わらない

日々だけが一生続くのだ。

そうやって世界は廻ってきたし、

きっとこれからもそうだろう。

退屈ばかり感じるための感情なら、

無くなってしまえばいいのに。


 目を閉じるのも億劫で、

ただ呆然と見慣れた天井を見上げていると、

そこに雲のようなものが、

どこからともなく集まり始めた。

すでに暗い天井を背景にしてもはっきりと

確認できるほど黒いそれは、

子供が読む絵本に出てくる小人のような形を

作り上げた。


 頭の形は人に比べて細長く後ろに伸びて

いて、耳が尖っている上に鼻が長い。

頭に対して身体が短く、手足がひょろりと

細い。緑色がかった肌をしていて、

真っ黒なスーツを着ている。

開いた瞳は赤く透き通って綺麗だが、

それは怪しく光っている。

驚いて声も出せずに見ていると、

それは何もない空中に着地した。

といっても、天井を背に横向きの重力が

かかっているかのようにだ。


 ギザギザした歯並びの口が開いて、

驚くほど軽快にそれは話し始めた。


『あ、寝たままで結構ですので、

 まずは自己紹介させていただきます。

 わたくしは、世間一般に"悪魔"と呼ばれる者

 でございます。

 ご存知ですか?』


「あ…。え…?」


『えぇ、えぇ。

 困惑なさるのもわかります。

 基本的には人前に姿を表すことのない

 存在でございますからね。』


悪魔と名乗ったそれは、文字通り開いた口が

塞がらない男を置き去りに話を進める。


『あらゆるメディアは煌めく人生を映し、

 世界は素晴らしいと盛り上げる昨今。

 ですがその実、世界は大きな停滞と

 それが生み出す澱みの中にあるのです。

 おわかりですか?』


 庶民が感じている最近の世界情勢に

ついて、悪魔がこんなふうに語るとは

思わなかった。

正直胡散臭い。


『胡散臭いとは、これは手厳しい。』


 心を読まれているようだ。


『えぇ。悪魔の基本技術ですので。

 それはそうと…。現代のお若い

 人間の方々におかれましては、

 日々多くの不安に苛まれておいでかと

 存じます。』


 それも心を読んだんだろうか。


『いえいえ、読む必要もございません。

 多くの方がそう感じていらっしゃるのが、

 歴然たる事実でございますから。』


 悪魔とは案外人間の側で暮らしていて、

人々の暮らしぶりなんかを観察されているの

かもしれない。


『察しがよろしいですねぇ。

 その通りです。

 我々は人間の方々と隣り合わせの世界に

 暮らしています。

 人類の繁栄の歴史は、我々の世界に

 大きな影響を与えてきました。

 悪魔にとって、人類は無くてはならない

 存在なのです。人類が滅んだならば、

 悪魔という種も滅んでしまうでしょう。』


 なにやら壮大な話になってきた。

結局こいつは何が言いたいのだろう。


『前置きが長くなりました。

 結論を申し上げましょう。

 これからの未来、人類は急激に

 衰退していきます。』


 衰退。どういう意味だろうか?


『人類が喜怒哀楽を飼い慣らせないまま、

 それぞれの人生を謳歌する。

 そんな不完全で美しい存在であることが、

 我々にとって大切なのです。

 それが今新たな進化を遂げて、

 感情を失おうとしているのです。』


 進化するのは良いことだろう。

それに何か失礼なことを言われた気がする。


『決して侮辱などしておりません。

 我々は現代を生きる人間の方々を

 心から敬愛しているのです。

 人の心は浮き沈みを繰り返す。

 その造形のなんと美しいことか!

 それが悪魔たちの探究心を鷲掴みにした

 からこそ、我々はいつの時代も人類の隣に

 存在していられたのですから。

 神秘なる心を手懐け、感情を無くし

 より合理的に無駄なく生きるなんて、

 なんと勿体ない…!』


 どうやら人類の進化に、

悪魔は反対のようだ。


『人類は元より我々にとって、制御など

 できない、実に神秘的な生物です。

 ですが!

 このままでは、我々の探究心を

 ほしいままにした魅惑的な生物が、

 絶滅よりも恐ろしい退化を遂げてしまう。

 それは我々には受け入れ難い!

 いえ、決して受け入れることなど

 できません…。シクシク…。』


 わざとらしい泣き真似だが、どうやら

人間の生態に対する熱意は本物らしい。


『そこで、我々は考えました。

 貴方様のような"感情なんて無くなって

 しまえばー"などと考えてしまう

 心の貧しい人々を、我々の些細な手助けで

 ほんの少しだけ上方修正していけば、

 不毛な葛藤を……!ごほんっ、失礼。

 …起伏のある感情を持て余す人類の、

 種の寿命が伸びるはずなのです。』


 ようするに、人間が日々くだらないことを

思い悩んでいてくれないと、悪魔たちは

面白くない。そう言いたいようだ。


悪魔は満足げに頷いてから言った。


『ここからが本題です。

 貴方が日々苦しんでいるその不安。

 一つだけ、解消して差し上げます。』


男は息を呑んだ。


 しまった。

たった今、色々な期待をしてしまった。

その全てが悪魔に筒抜けだ。


『ほぉ。お金…ですね?』


男が退屈な日々から抜け出せない理由。

それは借金の返済だった。

親の残した多額の借金。

その返済をしている限り、

男に金銭的な自由はなかった。


『いいでしょう。

 貴方を救って差し上げます。

 そのかわりに…。』


 寿命をよこせとでも言うのだろうか?


『ご名答。話が早くて助かります。』


悪魔は男の目を真っ直ぐに見た。

その赤い瞳は、不気味な輝きを放っていた。

まるで、瞳が小さな天体となり重力を帯びた

かのように、男は目を離せない。


『さぁ…、何年を引き換えにするのか。

 ご自分で、決めていただけますか…?』


 この時、にやりと笑うその小人を見て、

やはり本物の悪魔なのだと直感した。

自分は試されている、

そう思わざるを得なかった。



そこから男は必死に考えた。

布団から飛び起きてノートとペンと電卓を

持ち出し、このチャンスを逃すまいと

知恵を絞った。


 悪魔は、対等な分の寿命を差し出さなければ、納得などしないだろう。

借金の残り金額と、その返済にかかる年月。

自分が明日から身体を酷使して、

可能な限り期限を短くするならば、

これが限界だと打ち出す数字。


悪魔はただ黙って、貼り付けた笑みのまま

見守っていた。



しばらくして、男はゆっくりと口を開いた。


「4年…でどうだ…。」


悪魔はにこやかに手を叩いた。


『実に素晴らしい…!

 これだから人類は素晴らしい。

 恐れ、期待、興奮、不安、葛藤。

 人間の根源にある欲が生み出す、

 色とりどりの感情。』


 どっちだ…!?俺は助かるのか!?


悪魔はご馳走の匂いを嗅ぐように、

深く息を吸ってから口を開く。


『承諾いたしました。』


悪魔はあっさりと言った。


『貴方は解放されます。

 おめでとうございました。』


男の胸から小さな光の玉が抜け出して、

悪魔の手のひらに収まった。


 よかった…。これで俺は自由だ。

本当によかった…。

おや?

だが、"おめでとうございました"?

過去形なのは何故だろう。


『やはり、察しがよろしいですね。

 必要なのは本人の了承。

 それだけですからね。

 四年分の寿命、確かにいただきました。』


 騙された!?


『もちろん。騙すのも悪魔の仕事。

 今お話ししたほとんどが"嘘"ですよ。』


 何を言ってるのかわからない。

嘘?いったいどこからどこまでが?


『安心してください。

 開放されるのは本当ですよ。』


 そうか…。ならいいか…。

自分の寿命なんてどうせわからない。


『貴方の寿命、あと2分です。』


 ーーーっ!!??

胸に激痛が走る。


男は驚きと苦痛で自分の身体を抱え込み、

そして怒りと恐怖から悪魔を睨みつけた。


『あぁ!!

 ぐひひひひひ!

 ぃ良いぃぃ表ぉ情ぉ!!』


悪魔は満面の笑みを浮かべながら、

また霧に戻っていく。


男はその場で倒れ込んで、

やがて動かなくなった。




『はい。このようにして、人間から寿命を

 奪うことが、すべての悪魔に許された

 仕事です。今回の場合のように、残りの寿命

 を全て奪える事もあれば、部分的に奪える

 場合もあります。その場合は記憶の改竄を

 行って、我々との取引が人間の記憶や記録

 に残らないよう注意しましょう。

 さて、何か質問はありますか?』


プロジェクターの映像を止めた

少し偉そうな悪魔は、目の前にいる

数人の悪魔に問いかけた。

すると、一人の悪魔が手を挙げた。


『なぜ寿命を奪う必要があるのですか?』


ここは教習所のような場所である。

悪魔に生まれたからには、

悪魔としての生き方を学ばねばならない。


『いい質問ですね。

 人間の寿命は、この世界であらゆる娯楽と

 交換できます。すでに習ったと思いますが、

 悪魔に寿命はありません。

 悪魔にとって唯一の死因である"退屈死"、

 すなわち消滅。これを回避する一つの

 手段として、この仕事が存在します。

 やりがいと利益、一挙両得です。

 ぜひ皆さんも、積極的に行いましょう。』


そこに別の悪魔も質問する。


『他の仕事はないんですか?』


言葉を選ぶように、少し偉そうな悪魔は

話し始める。


『…他にも仕事はあります。

 最近の流行だと、弱体化しつつある神仏

 への奇襲。これは軍の採用試験を受ける

 必要があります。

 それ以外にも、動物との契約や

 妖精との交渉など、免許が必要になるものも

 あります。

 現代では、昔よりもずっと

 仕事が多様化していますから。

 詳しくはこの後、それぞれの担当者が説明

 するので、それを考慮してよく考えて

 これからの行動を決めてください。』


会議室から出た少し偉そうな悪魔は、

ため息をついた。


『最近は、頭脳労働よりも肉体労働の方が

 人気があるからなぁ…。

 このまま人間の世界に仕事に出る悪魔が

 減ったら、そのうち本当に人類の感情が

 希薄になっていくかもしれん…。

 実際、悪魔たちの干渉が減り始めるのと

 同時期に人類の精神性は、起伏が激しく

 なることに抗い始めている。

 悪魔は人類の恐れの感情から生まれるが、

 その出生数も年々少なくなっている。』


はるか昔から培ってきた技術で、

お手本になるような仕事ができる悪魔。

その頭の中も、不安で満たされつつあった。


『昔の人間の暮らしは、もっと色とりどりの

 苦悩で溢れていたというのに…。』


赤い瞳の輝きは、衰え始めていた。


『人間たちが感情の根源となる"欲"を克服した

 時、おそらく我々は滅びる…。それも、

 そう遠くない未来だ…。』

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ショートショート 暁 筆辰 @hosino-miharu

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