第24話 《見せたかった景色》

私の父は大の車好きである。

 父は他の人に比べて、同じ車に乗っている期間が長いらしい。愛着が湧いてなかなか手放せなくなって、その分メンテナンスに手がかかるようになったが、それすらも楽しいのだと父は語っていた。


 その日、父は職場で急に倒れて病院に運ばれた。大きな手術をして、一命は取り留めたが、脳の病気で身体に麻痺が残った。


「もう運転できない…。」


 面会が許されてすぐ父のお見舞いに行った母と私に、最初に父が言った言葉だ。

その空虚な響きに、私は言葉が出なかった。

父にとってそれがどれだけ辛いことなのか、

言葉の意味よりずっとわかりやすく、声色が言葉にしきれない思いを表していた。


 父は車のことになると、いつも子供のように楽しそうに話していた。

 お金を貯めては、車のメンテナンスや新しい機材などに使っていて、その度に母に説教されて、その後には説教の倍の時間をかけて車について母に語って聞かせていた。この両親のやりとりを、私は"会議"と呼んでいる。

つい最近も、新しい機能を車に取り付けたと自慢げに報告して、母と会議を開いていた。



 父は病院が嫌いである。

夜の病院は怖いから入院はしたくないとか、検査をすると悪いことばっかり言われるから検査なんかしたくないとか、子供のような駄々をこねては、病院を遠ざけていた。

そんな父も、今回の件では大人しく入院を承諾したし、検査もしっかり受けた。そうするほかないのだが、父はもっと文句を言うと私は思っていた。

 入院してから三日が経って、学校帰りにお見舞いに行った際に看護師は、父はいつも窓のほうを見ていて、何を考えているのか聞くと車のことだと教えてくれたそうだが、すぐに話すのを止めてしまったと話してくれた。

今までの父ならば考えられないことだ。

それだけのショックを受けたのだと私は思った。入院や検査について何も言わないのは、それが原因だろう。

その日父は、真剣な顔で私に言った。

「もう一度手術をする。」

父は、その手術で身体が今より動くようになる可能性があるのだと語った後、母には心配をかけたくないので、言わないでほしいと約束させられた。


 二日面会できない日を跨いで、お見舞いに行った私の目に写ったのは、携帯端末をいじっている父の姿だった。

手が少しずつ動かせるようになっていると、嬉しそうに話してくれた。

端末の画面に映っていたのは、いつも通り車だったが、私はそれについて聞くことは出来なかった。


 次の日、学校で変な噂を耳にした。

「なぁ、幽霊自動車の噂、聞いたか?」

「聞いた聞いた!見てみたいよなぁ。

 運転手不在の幽霊自動車。」

同じクラスの男子が話しているの聞いて、

憂鬱な気分になりながら机に突っ伏す。


「はぁ…車かぁ…。」

車と聞いて、つい父のことを思い浮かべていると、前の席の友人に話しかけられた。

「お父さん大丈夫?学校の帰りにお見舞い

 行ってるんでしょ?」

「話したっけ…?」

「入院したのはね。お見舞い行ってるのは、

 言わなくてもわかるよ。」

「…父さん、今少しずつリハビリしてる。

 とりあえず命に別状はないみたい。」

「そっか…。早く退院できるといいね。」

「…うん。」


 放課後、父のお見舞いに行った。

すると父はずいぶんと機嫌が良く、私に聞いて欲しいことがある、と話し始めた。

「最近、よく夢を見るんだ。父さんは透明

 人間になって車に乗っててな。夜の街を

 ドライブするんだ。なんだかすごくリアル

 で、必ず家の駐車場から始まって、家に

 帰って来る。なんだか本当にドライブした

 みたいに思えて、リハビリ生活の励みに

 なってるんだ。」

それを聞いた私は、ずっと乗ってる車だからとか、近所なら何度も見た景色だからとか、現実的なことを言って父を悲しませるのが嫌で、娘がお見舞いに来るのは励みにならないの?なんて言って夢の話が続くのを避けた。

それを聞いた父は、

「え!?そんなことないぞ!すごく、励みになってる!」と慌てて答えたので、

少し笑ってしまった。


 夕食の時、母に父の様子について聞かれた。

「母さんは仕事であんまりお見舞い行けない

 から、助かるわ。落ち込んでない?」

「なんか、ドライブする夢見たって話してた

 よ。表には出さないけど、やっぱり落ち込ん

 でるのかな?」

「どうかな…。

 お父さん車大好きだからね…。」

母の視線は、テレビの近くに飾ってある若い頃の二人の写真に向いていた。そこにはその頃新品だった車も映っている。


 沈黙の後、思い出したように母が話し始めた。

「そういえば、今朝車の排気口から湯気が

 出てたのよ。最近すごく寒いからってだけ

 かもしれないけど、ちょっと心配だから

 お父さんに聞いてみて。そういうものな

 の?って。」


母は父からあれだけ車について色々聞かされているはずなのに、私よりも車について知らないのかもしれない。

「わかった。聞いてみる。」

そう答えながらも私はピンときてしまった。

学校で聞いた噂、父の夢の話、今の母の話。

それらが一つに繋がった気がして、

馬鹿げた思いつきだが、確かめたくなった。

 その日の夜中、母が眠ったのを確認してから音を立てないように玄関のドアを開け、外に止まっている車の後部座席に乗り込んだ。


 明日学校は休みなので、一晩車の中で張り込んで、日が昇る頃には自分の部屋に帰るつもりだった。しかし、暖かい格好をして来た上に、車の中のなんとなく懐かしい匂いに妙な安心感があって、すぐに私は眠ってしまった。



 車のエンジン音で目を覚ました。

一瞬夢かと思ったが、頬をつねったら痛かった。

車がゆっくりと動きだそうとしている。

寝起きで頭の中は混乱していたが、

「父さん…?」

と、思わず声に出た。


動き出そうとした車は、びっくりしたようにブレーキをかけた。

私は確信した。

"今運転席にいるのは、父さんなんだ。"

私が何を言っていいかわからないでいると、

ゆっくりと車は動き出し、道路へ出て平然と走り出した。


 父の運転だった。

生まれてから何度も乗っているから、

疑いようがなかった。

あの日、父がもう運転できないと言った時、私もショックだった。父の悲しさに連られたんだと思っていたが、そうではなかった。

私は、父が運転する車にはもう乗れないのだと、無意識にそう気づいたから悲しかったのだ。

 父からは、この車についての話も数え切れないほど聞いた。

父が車に憧れた小さい頃の話や初めてこの車に乗った時の話、若い頃に母を乗せて旅行に行った話やまだ話せない頃の私と母を乗せて遠出した話、必ず車とセットで語られる父の思い出。

 見慣れた景色のはずの街灯は、涙で滲んでどれもキラキラと輝いて見える。嬉しくて、悲しくて、乗り慣れた後部座席で小さい子供みたいに泣いた。


 しばらくすると、車は坂道を登り始めた。

最初は暗くて良くわからなかったが、おそらくここは、小学校の遠足で来たことのある低山だった。


車は焦らずに坂道を登り続け、ひらけた場所で止まった。車の鍵が開いた音がしたので、私は外に出てみた。外に出て、暗闇に目を慣らそうとしていると、車が左のウインカーを光らせた。

それを見て、私は素直に左を向いた。

すると、そちら側に展望台へ続く階段があった。

 足元に気をつけて登って行くと、ちょうど地平線から朝日が昇って来ようとしていた。

階段を登り切ったところで、そのまま日の出の瞬間を見届けた。

日が差す前、すごく寒かったのが嘘のように朝日が暖かくて、すぐ隣に父がいるような気がした。

「え、父さん…?」

その時嫌な予感がして、父の携帯端末にすぐに電話をかけた。

『おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため……』

私は青ざめた。

すぐに車に戻ったが、エンジンは止まっていて、車のガソリンメーターはEを指していた。

"どうしよう!?どうしよう!?…"

バクバクと鳴る心臓の音を聞きながら、次に何をしたらいいかを必死に考えた挙句、母の携帯端末に電話をかけた。



 電話に出た母に、私は泣きじゃくりながら今起きた出来事を話した。

相槌を打ちながら、私の支離滅裂な話を聞いた後、母は冷静に質問した。

『今どこにいるの?』


 母の質問で我に返った私は、冷静に周りを見回して、あることに気づいた。

「あ…………。写真のとこ…。」

『そうだよね…。そこで待っててくれる?』


なんだか呆れたような母の声に涙が引っ込んだ私は、大人しく母の到着を待った。

到着した母は少し怒った様子だった。相談せずに行動したことを少し注意されたが、すぐに気持ちを切り替えて帰る準備を始めた。

車に積まれた予備のガソリンを入れると、

運転中は集中するから話しかけちゃダメよ、

と言われた。

人生で二回しか乗ったことがない、

母の慣れない運転で家に帰った。


家で朝食を食べた後、改めて母は言った。

「病院行こうか。」

「うん。」

「…説教しに。」

「え?」


病院までのバスの中で、母と話をした。

「お父さんが倒れる少し前、車に新しい機械

 を付けたって話をしてたの覚えてる?」

「うん。なんか運転のアシストをしてくれる

 ってやつ。」

「そうそれ。おそらくそれが原因ね。」

「どうゆうこと?」

「自動運転…ってやつね。」

「あ。」

「夢の話を聞いた時、母さんが先に行動する

 べきだった。ごめんね…。たぶんあの人、

 最初の手術以外にもう一回手術してる。」

「………。」

母は車については詳しくなくても、父については私の何十倍も詳しかった。

 私は密かに心の中で父にエールを送った。


病院に着くと父はピンピンしており、

「今日は早いねぇ。あ、聞いてくれよ。

 今朝も…。あれ…?なんか怒ってる…?」

今日も長い会議が始まった。


 父の二度目の手術は脳の損傷部分に、人工の脳細胞と極小の機械を入れる手術だったそうで、なにやらその機械はとても高性能らしい。だが別に車の遠隔操作をしたいがためのものではなかったと父は怒られながら話していた。身体の麻痺が少しでも軽減すれば、

一人でできることも増える、というのは半分が口実で、携帯端末を介して母の運転をサポートすればまた家族で車に乗れると、そんなことを考えていたらしい。


 今朝の父の夢では、車に私が乗っていたから母との思い出の場所を見せようとしたら、到着した頃にはガソリンが無くなっていた、ということだった。しかも携帯端末を充電器に繋ぐのを忘れていたため、低山の展望台前に停車して鍵を開けたところで夢は終わってしまっていたそうだ。おそらくそのタイミングで端末の電池が切れたのだろうと話していた。今までのリアルな夢にも説明がついて、父は納得していた。


 今日の会議は母の説教が長そうなので、先に帰るよう父は私に言った。

 病院からの帰り道、今日の出来事を思い返していると、一つだけおかしなことに気がついた。


 父は鍵を開けたところで夢から覚めたと言っていた。ならば、ウインカーが光ったのはどうしてだろう?

あれがなければ私は展望台の階段に気づかなかったかもしれない。

家に入る前、いつもの定位置に行儀良く佇む我が家の自慢の愛車に、

「あなたが教えてくれたの?」

そう尋ねてみたが、答えは返ってこなかった。

私にも父の車好きが感染ったかもしれない。

そう思いながら、今朝言い忘れたことを言葉にしてみた。


「ただいま!」




 週明け、学校で語られる幽霊自動車の噂は、子供を誘拐する幽霊自動車の噂に進化していた。

人の噂も七十五日。

興味がありませんという顔で、

私は沈黙を貫いた。

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