第22話 《見えるモノ》
人は目を開いて世界を見る。
誰かに会うために、
何かにぶつからないように、
未だ出会ったことのないものを探すように、
人は世界を見る。
人に目視された事実こそが、ありのままの真実だ。この時代、この世のあらゆる発見が先人達によって狩り尽くされた後だが…。
それでも、見えない何かに興味を惹かれるのは人間の性である。大抵の人は、目を見開いてそれを探そうとするが、目を閉じていても見える世界がある。
それは決して、空想の世界のことではない。
寝る前に目を閉じると目蓋の裏側に不思議な模様が映る。
誰しも一度は見たことがあるだろう。
その模様がなぜ見えるのか、明確な理由はまだ発表されていない。
眠れない夜、私はこの模様を興味深く眺めていた。
頭がおかしいと思われるかもしれないが、
この時の私は少し気持ちが沈んでいたのだ。
誰しも生きていればそんな日もあるだろう。
だから、半信半疑で聞いてほしい。
私は布団の中で、目を閉じても見えているこの不思議な世界を一心に観察していた。
一つ目の模様は停滞した砂嵐のようで、その模様の奥には別の模様がある。二つ目の模様は中心から広がって、吸い込まれるような美しい模様だ。その奥にも三つ目の模様があって、その模様だけは異質な気がする。一方方向に常に流れていて、他の模様よりはっきりしている。最初は波線が無数に縞模様を作っているように見えるが、ずっと眺めているとそれが縦書きで文字が羅列された、何処か知らない国の経典のように見えてくるのだ。
そのことに気づいた私は、経典の内容が知りたくなった。
どんな文字なのか覚えて、書き出して、解読したいと、そう思ったのだ。
その日以来、いつも寝る前にその模様を見ようと試みる。しかし、毎日三つ目の模様が見えるわけではなかった。日によっては、目を閉じて意識を集中しても、二つ目の模様が何度も繰り返し現れる。そんな日は決して三つ目の模様を見ることができなかった。
それに加えて、意識して三つ目の模様を観察し始めてから、その模様を眺めていると気分が悪くなった。文字のようなものが見えてきたあたりから、腹の中が落ち着かず、目眩が始まり、次には吐き気がやってくる。
そのせいで、集中して経典を観察することができなかったし、文字のようなものを書き写すことなどできなかった。それでも私の興味は尽きず、何度も挑戦を続けた。
そんなある日の夜、風呂に入っている時に停電が起きた。
湯船に浸かって天井を眺めていたので、突然真っ暗になったことに驚いたが、それ以上に驚いたことがあった。
照明の残像のその向こうに、いつも観察している模様が浮かんで来たのだ。
今私は目を開いているのに、あの模様を眺めている。今ならば、気分が悪くなることなくあの経典を眺められるかもしれない。
私は必死に何もない天井を塗りつぶした暗闇に目を凝らした。
目が暗闇に慣れてくるまでのほんの少しの時間、私は経典にたどり着き、文字のようなものを一つだけ覚えて風呂を飛び出し、手近なメモに書き写すことに成功した。
その文字がなんなのかは、結局わからなかった。なんとなく"交"という漢字に似ている気がした。しかし、本当にこれが一文字なのかさえ定かではない。もしかしたらアルファベットのような表音文字かもしれない。
それでも私は、大きな一歩を踏み出した気がした。
最近の私は時間さえあれば、模様のことばかり考えていた。書き写した文字に目を落とすと、想像が膨らんでワクワクした。
この謎が解明されれば、今ある日常が大きく変わるような気がしてならなかったのだ。
どうすれば経典の中身を知ることができるだろう。きっとこれを解読すれば、大発見に違いない。もしかすると、人間の知られざる能力や人の遺伝子の秘密が記されているかもしれない。私の期待は膨らんでいくばかりであった。
次の日、職場に向かう途中、私は事故にあった。
いつもと同じ道、何事も起こらないからこそ、毎日あの模様のことを考えては、非現実的な大発見に夢を見ていられたのだ。
横断歩道で大きな音を聞いた次の瞬間、視界は大きく揺れて、何が起こったか理解する間もなく体は宙を舞っていた。
走馬灯が駆け巡る中少しずつ地面が近づく。
その走馬灯の中で私は、経典に書かれた内容の全てを知ることになった。
"なんだ、そんなことだったのか…。"
正直ガッカリしていた。
人間、自分の知らないことを知っているなんて、都合のいいことは起こらない。
自分が経典などと呼んで眺めていたあの文字たちは、自分が今まで過ごしてきた日々の日記であった。数えきれない文字の羅列という直感は当たっていたが、それは多くの出来事を、簡潔に箇条書きにしてあったのだ。
知られざる能力も遺伝子の秘密も、そこにはなかった。
観察しようとして気分が悪くなったのは、そこに書かれている今までに経験してきた数多くのトラウマに目を向けたくないという、一種の拒否反応だったのかもしれない。
改めて見ると書かれた内容には、比較的悪い出来事のほうが多い気がした。
きっと人の脳の中には、今まで生きてきた全てがこうやって記録されているのだ。
そして今こうして、私が認識しやすい形で走馬灯として目の前に現れたのだ。
なぜこんなことになってしまったのか。
今更こんな後悔をしても取り返しがつかないが、こうして過去に向き合うと言いたいことは山ほどある。
学生時代からもっと積極的に行動すればよかった。偏った正義感など持たなければよかった。もっと自分の気持ちに素直になればよかった。
そんなことを考えながら、最後の行に目を落とした瞬間、私は戦慄した。
"待て、この最後の一文はおかしい…。"
『通勤中、交通事故にあう。』
"昨日見た一文字はきっとこの「交」の字だ。
すると私は、前からこの出来事を知って
いたということにならないか?
すごいぞ!大発見じゃないか!
人間は最初から自分の運命を知っ…!!"
大きな衝撃とともにまた暗闇がやってきた。
病室で老婆が泣いている。
目を覚さない男性の体は、
痩せ細っていくばかりだ。
今閉じられているその男性の目は、
一体何を映しているだろうか。
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