第21話 《こぶ》

 女は、鏡の前に立ったまま静止していた。

今朝起きて歯を磨こうとここまで来たが、

それどころではなさそうだ。

女は目を擦った。

見間違いかもしれない…。とゆっくり目を開いたが、状況は変わらない。


 女の頭の上に、まるで子供が読む漫画のような、膨らんだ餅に似た形の大きな"こぶ"ができていた。


 女はそのこぶに触ることを決意した。

ゆっくりと利き手を伸ばし、鏡に映った信じられない現実に触れる。

しかし、女の手にこぶを触った感触はなかった。

よく考えてみれば、重さも感じない。

こんなに大きいものがついているのに、

今朝起きてから何の違和感もなかった。


 女は直感した。

頭の上のこれは日頃のストレスが見せた幻影であると。

ならばこれは自分にしか見えていない。

そしていつか見えなくなるだろう。

それよりも、こんなものが見えるようになるほど気が滅入っていたことに、自分では気づかないことのほうが驚きだった。

 医者に行こうかとも考えたが、わけのわからない理由で会社を休んで、また上司に文句を言われることのほうが、鏡に映るこぶがあることよりよっぽど嫌だった。

 家を出る前、ふとした思いつきで帽子を被って鏡の前に立ってみたが、こぶはやはり帽子をすり抜けてその上に顔を出していた。

それを見た女は、潔く帽子を部屋に放り投げて仕事に向かったのだった。


 家から駅まで歩いて、女は確信した。

やはりこのこぶは、他人には見えていない。

最初は少しドキドキしていたのだが、誰も気にしている素振りがないのだ。その辺の窓に映っている自分も、注目を浴びている様子はない。

 満員電車に揺られている間に、女はこぶのことを忘れていった。憂鬱な今日の仕事のスケジュールを確認しながら、こぶを見ても出なかったような大きなため息がこぼれた。

 仕事をしている間、女はこぶのことをすっかり忘れていた。たまにトイレに行っても、鏡を見る余裕などなかったのだ。


 帰りの電車の中で、女は窓に映る自分と再び向き合うこととなった。

電車を待つ時間、明日は仕事が休みだと気が抜けていた女に、窓に映る自分が新たな問題を抱えて電車と共に駆け込んできたのだ。

 電車に揺られながら窓に映ったこぶと自分に説得され、女は病院に行くことを決意したのだった。


 翌日、女は昼食を済ませて家を出た。

休日に買い物以外の理由で外に出るのは、

女にとっては珍しいことだった。

元々内気な性格なので、友達と遊びに行く予定もなければ、男性とデートに行く予定もない。

 そんな自分のことを変えたいと思いながらも、行動には移せない。昔からそういう性格であった。小さい頃、公園で友達と遊んだ記憶もほとんどない。いつも自分の部屋で本を読んでいた。そんな昔のことを思い出しながら、駅に着くまでの途中にある公園を横切ろうとした。

 すると、一人の少女が女に声をかけた。


「お姉さん、頭から風船が出てるよ。」


女の頭の中に、その声が何度もこだました。

この子には私と同じものが見えている、そう思わざるを得なかった。

女は思わず、そちらに向き直って少女に質問してしまった。


「これ…。見えるの…?」


少女は頷いた。


「見えるよ。何回も見たことあるよ。お姉さんも見えるんだね。」


少女は嬉しそうに笑った。


他の人にも起こるのか、その人たちはどうしたのか、これはいったい何なのか、沢山の質問が頭の中にあったが、女は少女を質問攻めにするわけにはいかないと、必死に堪えた。

 ひとつ深呼吸をして、女は優しい声で一つだけ聞いた。


「この風船、どうしたらいいと思う?」


声に出した後、漠然とした質問になってしまったと女は後悔したが、これしか思いつかなかった。

大人なら誰も信じてもくれないであろうこの状況では、自分と同じものが見えている少女の存在は、女にとっての救いだった。

それを知ってか知らずか、少女は可愛らしく自慢するように聞き返した。


「知りたいー?」


予想外の返事に女は驚いた。

子供の意見に期待するのは、おかしいかもしれない。だが聞いたのは女自身であり、それに本当は、少女がなんと答えるのか聞いてみたくて仕方なかった。

 女は笑顔で答えた。


「知りたいなー。教えてくれる?」


すると少女は眩しいくらいの笑顔で答えた。


「遊んでくれたら教えてあげる!」



 女は少女の要求を、すんなりと受け入れた。断りづらかったわけではない。

この少女と一緒にいれば状況が改善せずとも、楽しい時間を過ごせると感じたのだ。

 女にとって遊ぶ時間というのは、思い出せないほど懐かしいものだった。保育園ではいつも遊んでいただろうが、ほとんど記憶にない。少学校に上がって以降も、外で遊んだ記憶がないほどだ。


「お姉さんね。体育の授業、嫌いだったの。手や服が汚れるのも嫌だったし、ケガするのはもっと嫌だった。そもそも元気に体を動かすってことが苦手だったんだ。」

 女は少女と遊びながら、なぜか自分が思い付いたことを素直に口に出していた。

話せば話すほど肩の力が抜けて、心が軽くなるような気がしていた。

少女は遊びながら、ふーん。とか、そうなんだー。と適当な返事を返しながら女の話を聞いていた。


 一、二時間ほど経っただろうか、少女と一通りの遊具で遊び終わった頃、少女は女に話しかけた。


「お姉さん。たくさん遊んでくれて、ありがとう。次は私の番だね。」


女はそれを聞いて、少女から聞くべきことを思い出した。少し寂しい気持ちになりながらも、女は優しく問いかけた。


「この風船をどうしたらいいか、教えてくれるの?」


「うん!教えてあげる。ちょっと待っててね。」


少女は元気に応えて、公園の滑り台の下から手鏡を取り出して、女に見せた。


 女は鏡に映った自分のこぶを見て、その正体を理解した。


 頭から出ていたこぶは大きく成長して人の上半身のような形になっていた。それも、自分の影のような形だ。

女がそれを黙って眺めていると、少女も少し寂しそうに問いかけた。


「その風船。どうする?」


 女は穏やかな気持ちだった。

今ならどうすればいいのか、女にははっきりわかってしまったからだ。


「お姉さん、どうしたの?」


少女の言葉で、女は自分が泣いていることに気がついた。


「私ね。やりたいことがあるんだ。沢山やりたいことがある。でもね、やらなきゃいけないことも沢山あるの。だから、自分の本当の気持ちからは、ずっと目を逸らしてきた。」


少女は黙って女の話を聞いていた。


「やらなきゃいけないことだけしてれば、生きていられる。でもね、楽しくないんだ…。時間がかかって沢山疲れる、誰でもできること。そればっかりやってたら、心が逃げようとするのも仕方ないよね。」


女は深呼吸をして、また鏡を見た。


「気づかなかったんじゃない。見ないふりをしてたんだ。自分の気持ちに向き合って、答えを出せるのは、自分だけ。」


改めて少女は問いかけた。今度はとびきりの笑顔で。


「どうする?大人のわたし!」


ゆっくりと女は少女を抱きしめた。


「今から頑張る!

今の自分も、昔の自分も全部の私が笑顔でいられるように。もうやらなくてもいいなんて言い訳しない。

 やりたいこと、一生懸命やってみる!」


「そっか。がんばれ、わたし。」



 気づくと女は一人だった。公園のベンチで少し赤くなり始めた空を眺めていた。


 滑り台の下には、いつか無くしたと思っていた、お気に入りの手鏡があった。

公園の時計に目をやると時刻は、午後4時45分だった。


 女は家に帰ってから、久々に友人に電話をかけた。


「私、絵本を書いてみようと思うんだ。」


女の声は幼い少女のように、

生き生きとはずんでいた。

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