第10話 《透明人間》

 青年に厄年というやつが訪れた。

 まだ今年は半分も終わっていないというのに、3年付き合った女から別れ話をされ、その傷も癒えないうちに仕事で大失敗をやらかして減給をくらって、先週は自転車が盗まれ、今日はバックに付けていたストラップがなくなった。そうして青年は小さな不幸にも過敏に反応してしまうようになり、もうダメだ…消えてしまいたい、と深夜のテレビ画面に映る放送休止画面を眺めていた。


 するとその画面が突然切り替わり、通販番組が始まった。画面には、肌の色が薄い緑で目はつり目、手足が細いスーツ姿の不気味な男が映っていた。

「テレビの前のお客様。お待たせいたしました。こちらが、お客様が夢にまで見た商品でございます!」

 青い液体の入った小さな瓶を示した。

「こちらの薬を飲みますと…なんと!身体が"透明"になるんです!」

 "透明人間になれる薬"と大きくテロップが出る。こんなに胡散臭い番組なのに、なぜかテレビ画面から目が離せない。不気味な男には人の目を釘づけにする能力があるのかもしれない。そんなことを青年が考えていると、不気味な男はカメラに近づいてきて、

「本当は寿命5年をいただく商品ですが…。」

ついには画面から上半身が飛び出した。青年に驚く暇も与えず、

「今ならなんと!寿命1年!!たった1年でお買い上げいただけます!!」

 青年は不覚にも、お得かもしれないと納得しかけた。それを気取ってか、

「時は金なり、でございます。タイムセールもあと10秒。10…9…8…」

とカウントダウンを始められるとつい焦ってしまって、買います!と口をついて出てしまった。

「お買い上げありがとうございます!契約成立です。お代はいただきました。商品はこちらに。」

 一瞬にやりと笑った不気味な男は、例の薬の瓶を置いてあっという間に画面の中に戻っていった。

 呆気に取られていた青年が画面に目を移した時には、すでに放送休止の画面が再開されていた。

 そして胡散臭い薬だけがそこに残った。

 青年の頭は、目の前で起きた摩訶不思議な現象に軽いパニックを起こし、正常な判断能力を失っていた。

 その青年が小瓶の薬を飲むことを決断するのには、10秒とかからなかった。

 薬を飲むとすぐに眠くなり、ベッドに倒れこんだ。


 翌朝目覚めると、青年は不気味な男の話していた通り、透明人間になっていた。

 細かいことはわからないが、鏡に映らず、影はあるがとても薄く、着替えた服も透明になる。どうやら自分の周りに薄いバリアでも張っているかのような心地であった。

 男はまず携帯を叩き壊し、俺は自由だ!と叫ぼうとしたが、声は出なくなっていた。どうやら声も体外に出る際に消えてしまう仕様らしい。ちゃんとあの不気味な男に詳しい説明を聞けばよかったと少し後悔したが、そんな不満よりもずっと大きな不思議な開放感に青年の心は満たされていた。


 それからの青年は、考え得る限りの悪事を働いた。青年は元々平和な性格だったので、大したことはしなかったが、透明なその身体を使えば、誰にも気づかれることなく何処へでも行けるし、なんだってできた。

 衣服は汚れなかった。体臭も声と同じように消されているのか、匂いはない。それでも気が向いたら時々風呂に入ったし、新しい服を盗んだ。食べ物も盗めば良かった。

 寝る場所も問題ない。空いてる部屋に勝手に入って休めばよかった。それらの行為は、青年がうまく立ち回っていることもあって、決して誰にも気づかれることはなかった。

 青年が透明人間になった日から、青年は行方不明者となっていたが、衣食住になにも苦労せず生活していた。

 人とぶつかることを恐れていたので、人混みには出かけなかったが、できる限りの贅沢な生活を楽しんだ。


 順風満帆で透明な人生。ただ一つ問題があるとすれば、誰とも会話ができないことくらいだった。その孤独に青年の精神が追い詰められたのは、彼が透明人間になって1ヶ月が過ぎた頃だった。

 青年は、人と話したくて仕方がなかった。ネットを使った文字での会話には飽きてしまった。そこでは、自分の打ち込んだ文字を誰かが見てくれるが、誰も本当の自分を見てはくれないと感じて、誰かと面と向かって言葉を交わしたくて仕方がなかった。

 外に出て誰かに話しかけようにも、声が出ない。誰かにぶつかっても謝ることもできない。動物にさえ無視されて、次第に青年の心は閉ざされていった。


 解消できない不満を抱えたまま透明な人生を生きる青年は、だんだんと行動力が無くなっていった。誰も使わない部屋に住み着き、お腹が空けば近くのコンビニから廃棄される寸前の食品を盗んでくる。どんな事件を起こしても誰にも自分は見つからないと悟り。目立つ行動は何一つしなくなった。


 その姿を影から見守る者がいた。例の不気味な男、を演じていた悪魔である。

「なかなかうまく仕上がったな。悪事を多く働いた上に、絶望感を抱えた魂。きっとこのまま孤独死すれば、極上の霊魂になるぞ。俺の出世も目の前だ。」

 悪魔は青年に聞こえぬ声で、高らかに笑った。

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