#09 大好きな絵のこと

 親愛なるきみへ


 元気ですか?

 ぼくは相変わらず元気です。風邪もひいてません。

 きみはどうですか。

 最近、なにか新しいお気に入りはありますか?

 聞いてみたいな。


 ぼくはまた好きなものができました。

 素敵な絵をもらったの。

 いま、目の前に飾ってあります。湖の絵です。

 鉛筆だけで書かれているのに、水面の深い青が目に浮かぶんだ。

 紙に触れたら水面が揺らいで、水の中に手が沈んでいきそう。きみにも見せてあげたいな。


 今日の手紙に、この絵をくれたひとの話を書くね。


 ◇


 湖のそばで最初に見つけたのは、開きっぱなしのスケッチブック。

 持って歩くのに便利そうな小さなものだった。

 ページから溢れそうなほどいっぱいに森が描かれている。

 描いたひとの姿はどこにもない。

 だから、忘れものかなって心配になった。

 鉛筆の黒一色の森は、とても馴染み深い雰囲気。

 ぼくが知ってる森そのものが描かれていて、ずっと見ていたくなっちゃった。

 だからしばらくそこで覗き込んでいたの。

 戻ってきたとき、彼女は手に鉛筆を持っていた。

「おどろいた。こんな森で人と会うなんて……」

 そう言った彼女の名前はシンティ。

 スケッチをしにここへ来たんだって。

 この絵を描いたのがぼくと同じくらいの女の子だったから、ぼくのほうこそおどろいた。

 大人が描いた絵だと思った。

 そう伝えると、シンティは嬉しそうに笑って、でもすぐに口元を引き締めた。

「あなた……もしかしてさっきの鳥?」

 シンティはさっき湖から飛んでいった鳥を探しに行ってたんだって。

 スケッチブックを置いたままで夢中になっていたんだね。

「残念だけど、ぼくは鳥じゃない。ルクレイっていうの」

 もっと奥の屋敷で暮らしてることや、記憶の鳥のことを話す。

 シンティは興味を持ってくれたみたいだった。

「きみも忘れたいことがある?」

「あるわ。……あの絵の作者を忘れたい」

 シンティはすぐに答えた。ずっと気がかりで、ちょうどそのことばかり考えてたみたいに。

 それは、とても心を打たれた絵のこと。

 いま、街の美術館の別館で展覧会をやってるんだって。

 絵画教室の作品が飾ってある。そのなかで一番いい賞を取った絵。

 シンティも一目で気に入って大好きになった。

「でもね、その作者は……」

「嫌なひとだったの?」

「いいえ。私の友達なの。大好きな友達。同じ絵画教室なの。始めたのは私より遅かったのに……今じゃもう、ずっと上手」

 大好きな友達が描いた絵ならもっと大好きになれそうなのに、忘れたいんだって言ってた。

「この絵を、あの子が描いた。私には同じように描けない。もっとじょうずになんて全然」

 同い年の、同じ町で育った、親しい友達。

 読書の趣味も、音楽の好みも合うんだって。

 だから一緒に過ごすと楽しくて、仲良しで。姉妹のように似ていると親や友達からも言われて育ったのに、いつからか『違う』って感じるようになった。

「あの絵が好き。すごく。だから素直に感動して、打ちのめされて、賞賛して、ひれ伏したい。でも……こんなすごい絵をあの子が描いたんだ。そう思うと息が止まる。素直になれなくなってしまう。嫉妬するのも、負けた気がするのも、自惚れてるって思うのに」

「あの子が描いたって、忘れることができたらいい?」

「うん。そしたら、私はあの絵と出会えた幸運を神さまに感謝すると思う。絵の前で立ち尽くして、心を震わせて、時を忘れて眺め続ける。それってきっと素晴らしいこと」

「時も忘れちゃうんだ」

「そう。それだけじゃない。私は、自分自身を忘れる。何に悩んでいるとか、苦しんでいるとか、悲しいとか……ぜんぶ忘れて、その絵を見ている瞬間の喜びだけになるの。……そうなれたら素敵」

「その子が作者だってことさえ忘れられたら、叶う?」

「できっこないでしょうけどね」

 シンティはそう呟いた。

 静かに湖を眺めていると、やがて水鳥がやってきた。

 コハクチョウだ。

 シンティはスケッチブックをめくって、真っ白な紙の上に湖を描きはじめた。

 一言も喋らない。

 ぼくも、喋ったらコハクチョウが飛んでいってしまう気がして、黙って様子を見ていた。

 魔法を見ているみたいだった。

 真っ白な紙の上にどんどん世界が広がっていくの。

 絵を描いているときのシンティは楽しそうだった。

 笑ってたわけじゃないけど、真剣で、充実している様子で。

 鉛筆が走る音が心地よかった。

 コハクチョウは絵が描きあがるまで水面にゆっくり浮かんでた。

「その絵、ぼくは好きだよ」

 素直に伝えると、シンティは微笑んだ。

 見ていると吸い込まれてしまいそうな絵だった。

 よそ見をしているうちに、紙の上の水面に波紋が広がるような。

 静かな水音が聞こえてくるような。

 止まっているのに動いている、そんな光景だった。

「気に入ったなら、あなたに持っていてほしい」

 シンティはぼくに絵をくれた。

 コハクチョウはいつのまにかどこかへ去ってしまっていた。

 シンティも画材を片付けて、帰る支度をする。

「あいにく、作者が誰かは忘れてない。なのに、またあの絵を見たくなっちゃった」

 ちょっと不安そうな、でも、楽しみな気持ちのほうが大きいような。

 その絵を見る瞬間がやっぱり待ち遠しいような表情だった。


 ◇


 不思議だね。好きなのに、好きって言えない。

 好きって思う自分を許せない。でも、本当は好きって思いたい。

 なんだかもどかしいね。

 あの子は、あの子が大好きな絵のことを、好きって言える日が来るかな? 来るといいな。

 好きって伝えることはとても嬉しいことだよね。

 相手にだけじゃなくて、自分にも。

 だってぼくは、シンティにこの絵が好きって伝えたとき、嬉しかったから。


 きみにもあの子の絵を見てもらえるといいな。

 町の美術館に、もしかしたら今も飾ってあるかも。

 近くに寄ったときは確かめてみてください。


 それじゃあ、またお手紙を書くね。

 ぼくは、きみに手紙を書くのが好きだから。

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