#10 夜と琥珀とコーヒーのこと
親愛なるきみへ
おはよう。
きみがこの手紙を読むときは、朝かな。それとも夜かな?
ぼくは今日、夜明け前にこの手紙を書き始めました。
このあいだ夜更かしをしてしまって、そのせいでたくさん眠っちゃって、最近は夜明け前に目が覚めます。もう何日かしたら、いつもの通りに起きられそうかな。
きみはどう?
ちゃんと眠っていますか。
楽しい夢を見ているといいな。
さて、どうしてぼくが夜更かしをしたかって言うとね……
◇
ロシェは、大きなリュックを背負ってきた。
山登りをした帰り道、迷子になって一晩迷って、朝を迎えてこの屋敷に辿りついた。
疲れてたけど元気な様子で、パンやハムをもりもり食べて、すぐにぐうぐう眠ってしまう。
次に起きてきたのは日が沈む頃。
大きな声でぼくにお礼を言って、いろんなことを尋ねた。
ここがどこかとか、一番近い町の名前とか、お礼に何かできないかって。
ぼくはぜんぶの質問にはっきり答えられなくて、代わりに屋敷の案内をした。
ロシェは鳥篭の部屋を気に入ってくれたみたい。
ここにいるのは記憶の鳥。
鳥篭のなかに誰かの思い出を預かっている。
そう教えると、ロシェはじっと部屋のなかを眺めて「琥珀みたいだ」って言った。
琥珀は、樹液が長い長い時間をかけて固まった結晶で、ときどき、過去の時代の何かのかけらが閉じ込められている。
長い年月のあいだに朽ちて消えてしまうものが、琥珀の中で残ることがあるんだって。
アクセサリーに加工した琥珀を、ロシェがリュックに結んでいるのを見せてくれた。
蜂蜜を固めたような、なんだか甘そうな結晶だった。
その日、朝からぐっすり眠ったせいか、ロシェは真夜中に目が覚めた。
実はぼくも久しぶりのお客さんが嬉しくて、ぜんぜん眠れなかったんだ。
ふたりともお腹を空かせて、キッチンでばったり鉢合わせたの。
「何か温かい飲みものを作ろうか」
提案すると、ロシェは素敵なことを企む顔で、
「せっかくだから散歩に行こう」
って誘ってくれたんだ。「外で飲むと、もっと美味しいよ」って。
星空の下の散歩は、寒かったけど楽しかった。
ロシェの荷物と、ミルクと、手鍋を運ぶ。
念のために、鳥篭もひとつ。
歩くと金属のぶつかりあう音が、気まぐれな音楽みたいだった。
「ロシェはいつも、山で何をしてるの?」
「そうだなぁ……歩いてる」
「歩くだけ?」
「山のなかは、歩くだけのことが大変だから面白いよ」
ロシェは登ってきた山のことを教えてくれた。
木も生えないくらい空気が薄くて寒い場所。
そこでは、夜空にもっとたくさん星が見えるんだって。
「歩くことだけに集中する。ただ先に進むことだけ考える。ほかのことは全部忘れる。そういう時間を過ごすために山に行くのが好きなんだ。そうやって歩いてると、不思議なんだけど、ずっと忘れていたことを思い出したりする」
「忘れると、思い出す?」
「そうかも。地層みたいに折り重なった記憶をさ、最近の出来事とか今日までのこと……それを、一旦横に置く。と、下に沈んでしまった古いものごとに再会できるのかもしれない。思い出のなかを潜ってるみたいだ」
「山を登るのに、潜ってるんだ」
「そう。身体は登って、頭は潜って……」
ロシェは大きな木の前で足を止めて、「ここで飲もう」って提案した。
松ぼっくりや落ち葉を集めて焚火をして、お鍋でお湯を沸かす。
焚火は暖かくて、柔らかな光がぼくたちと木の影を長く長く伸ばした。
ロシェが淹れてくれたコーヒーはとてもいい匂い。
だけど、飲んでみたらとっても苦くてびっくりしちゃった。
それが顔に出てたみたいで、ロシェはぼくをおもしろがった。
「ロシェみたいに大人になったら、美味しく飲める? 苦くなくなる?」
「苦いのが美味しくなる」
「本当かなぁ」
ロシェはお鍋でミルクを温めてコーヒーに入れてくれた。一口味見する。
「これなら飲める。まだちょっと苦いけど、温かくて嬉しい」
「ああ、待って」
ロシェが荷物から取り出した瓶の中に、何かが沈んでる。
透きとおった琥珀みたいな結晶が透明な液体に浸っていた。
スプーンですくうと焚火に照らされて、暗い森が透けて見える。
まるで結晶の中に夜の森が閉じ込められているようで、いつまでも眺めていたくなった。
「きれい」
「お酒に浸けた氷砂糖だよ。入れると飲みやすくなるし、身体も温まる」
瓶の底から氷砂糖をそっとすくいとるロシェは、真夜中の秘密の採掘者みたい。
まじめそうな、でも楽しそうな顔をしていた。
カップの中に静かに落とす。
溶けだした氷砂糖の甘い香りが漂って、つい微笑んでしまう。
「美味しい。ぼく、これ好きだな」
「よかった。私もね、苦いのも美味しくて好きだけど、甘いのもやっぱり好きだから」
ロシェも自分のコーヒーに氷砂糖をいれた。
ゆっくり飲んで、深く息をついて、焚火を眺める。
「山では歩いてるだけって言ったけど……他にもやってることがあった」
「なに?」
「こうやって美味しいものを飲んだり食べたりしてる。ひとりで誰にも内緒で食べるのって、美味しいでしょ。とっておき、ってやつ」
「うん。美味しい」
「たまには、こうやって誰かと一緒に味わうのもいいね」
ロシェの言葉にうなずいて、もう一口飲んだ。
ほっとして耳まで温まる。
焚火の音も心地よくて、この夜更かしをのんびり楽しんだ。
空が明るくなる頃、屋敷に戻って少しだけ眠ると、ロシェは来た道を引き返していった。
迷ったらまたここに戻ってくるって言ってくれたけど、そのまま姿を現さなかった。
だから、無事に帰り道を見つけたんだと思う。
◇
きみも、ときどき甘いミルクコーヒーを飲んでみてください。
ぼくのおすすめです。
できれば早起きをしなくてもいい休日の前夜に。
夜更かしをしたときにね。
あの夜が楽しかったのは、多分、いつもと違うことをしたからだよね。
また楽しい夜を過ごすために、朝起きるようにしないとだね。
そろそろ日が昇ってきました。今日も一日元気で過ごします。
きみもいい一日を過ごしてね。
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