第4章ー4話 満月と演じる男
撮影日、待機用に用意されたワンボックスカーの中で、優志は貧乏ゆすりをして頭を抱えていた。
「おいおい、大丈夫かよ」
「だ、大丈夫だ」
傍らの赤羽が心配する声に、優志は体を揺らしながら答えた。
言葉とは裏腹に緊張は頂点に達し、落ち着きない所の騒ぎではない。台本を握りしめ、何度も聞き返した音楽プレーヤーを睨めつける。
「大丈夫だ、練習はした。台詞は入ってる」
言い聞かせるように繰り返すと、赤羽は「マジかよ」と不安げな声を漏らす。
「本番前に此処までお前が不安定なのも初めてだな。どうする、リハやるか?」
「いや、多分。リハーサルをやったら余計に緊張して、意味分からなくなる」
きりきりと痛み出した腹を摩って優志が言うと、赤羽は真剣な表情になる。
「判った。じゃあ、リハは飛ばして一発本番にするぞ」
「あぁ、頼む」
深呼吸をしながら頭を下げると、赤羽は険しい顔に呆れの表情を浮かべた。
「一発本番の方が楽ってのも変な話だけどな。まぁ、お前がそっちの方がいいってなら別にいいけどさ」
「演技をすることが嫌というより現場の空気を感じるのが、一番、嫌なんだ。というか、スタッフや周りの目がやっぱり、まだ気になる」
輝奏加工店で働いていくうち、無差別に他者の眼を怖がることはなくなった。
しかし、撮影をするというと話は変わって来る。
「映画製作の関係者だと思うと余計に体が強張る」
「そう言うと思って、極力、スタッフは減らしてる。エキストラもいない。今回はクランクインの紹介も何もなしだ。車を出たら、すぐに撮影するぞ。いいな?」
「ああ……」
優志は頷くと台本を置き、傍らにある黒い楽器ケースを手に取った。中には白杜が作った『黒鉄』が入っている。抱き潰してしまわぬように力加減に気を付けながら、優志は『黒鉄』をケースごと抱きしめた。
「撮影終わったら、すぐに車に戻っていいからな。チェックして何かあったら、俺がすぐに伝えるからさ」
「判った。ありがとうな、赤羽」
顔を上げて礼を言うと、赤羽は口角を上げる。
「友人のよしみだ。気にすんな」
赤羽は優志の肩を叩くと車の扉を開けた。
「じゃあ、行くぞ」
「あぁ、行こう」
頷きながらケースを手に取った優志の瞳には、もう迷いはなかった。
※ ※ ※
相変わらず、凄い奴だと赤羽は優志を見ながら思った。
車から出た瞬間、優志は、スランプ脱却途中の黒尾優志という人間を消し去ってしまった。今、赤羽が目にしているのは優志ではなく『奏でる人』の世界に存在するキーパーソン、『
スタッフや機材が乱立する草原の中を、颯爽と歩いていく背中を見送りながら、赤羽は深い息を吐いた。
(無理かと思ったんだがな)
最初、演奏者を優志にしたいと白杜に言われた時、赤羽は何の冗談だと思った。
優志が苦しみ、葛藤しながら役者を辞めることを決断したのを赤羽は知っている。
だからこそ、無理だと思った。
この男を再び、演技の世界に。演じる人生に戻すのは無理だと。
(だが、俺はあまりに優志を過小評価しすぎたかもな)
草原を進んだ『砂山』はケースの中から楽器を取り出して、構えた。
『砂山』が息を吹き込んだ瞬間、楽器は淡い光を発し始める。月光が降り注ぐ中で、聞いたこともないような曲が流れて来る。
赤羽は美しい旋律に耳を傾けながら、深く細く息を吐いた。
(本当に、凄いやつだ)
スタッフも驚きながら、美しい旋律に耳を傾けてしまう。
(なぁ、優志。自分では判ってないかもしれないが、お前ってのは凄い奴なんだぞ)
演技の上手い下手ではない。
黒尾優志という男は、魅せる演技が出来る男だった。
普段の自らを消し去り、役を生きた人間として魅せることが出来るという役者が、それほど多くない。
上手い役者は居ても、魅せる役者はほんの一握りしかいないのだ。
(お前は魅せる役者なんだ。そういう奴なんだよ)
赤羽が心の中で強く思っているうちに、曲は佳境に入った。
『砂山』は誰かを想うように、目を閉じて夜空の下で一曲を奏でる。
そこに主人公を演じる役者が姿を現す。
主人公は驚きながら、曲を聞き入り、演奏を終えた『砂山』の元に駆け寄る。
『今の曲は何ですか?』
主人公が問うと、『砂山』は儚げに微笑む。
『名前なんてないさ。これは私が遊びで作った曲だからね』
答えた『砂山』は楽器をケースに入れると、立ち上がり、草原の奥にある森の方へと歩いていく。
『あの!』
『なんだい』
主人公が声をかけると『砂山』は振り返った。
『どうしたら、貴方のように美しい曲を奏でることが出来るんでしょうか』
『…………それは私にも分からないよ。』
首を振った『砂山』は夜空を見上げた。
『分からないからこそ楽しく、辛く、愛おしい。だから、私は楽器を吹き続けているんだ』
言いながら『砂山』は踵を返して、歩き出した。
『私が言えるのはこれだけだよ。どんな音をでられるかは私自身も、まだ分からないさ』
その一言に主人公は、はっとする。
そして、何かを決意した表情で弾かれたように草原を去っていく。
駆けていく主人公を見送って、『砂山』自身も森に向かって歩きだして行った。
短くとも、厚みのある、深いシーンがそこにはあった。
※ ※ ※
脱兎の如くとはまさに、このことだった。
カットが掛かった瞬間に優志は駆け出すと、再び、車に乗り込んだ。
誰とも言葉を交わすことなく扉を閉めて、シートに寄りかかると、深い息を繰り返した。そして、ようやく落ち着くことが出来ると思わず、笑いが零れた。
演技の不出来を笑っているのか。
まだスランプから脱却できていない己を笑っているのか。
理由は自分でも理解できなかったが、自然と笑い声が漏れて、口角が上がる。
「もう、良かったのか、悪かったのか。よく分かんないな……」
「良かったと思いますよ」
ふいに背後から声が聞こえて、優志は「え」と振り返った。慌てて後部座席を確認すれば、見知った顔がそこにある。
「し、白杜さん⁉」
「はい、白杜です」
淡々と答えた白杜は後部座席から前にやって来ると、優志の隣の席に腰を下ろす。
「何で此処に、今日は店に居るはずじゃ」
「秀吉に頼まれました。メンテナンスを頼む、と」
「あぁ、楽器が壊れた時の為ですか」
優志が勝手に納得して頷いていると「いいえ」と白杜は首を横に振った。
「優志さんが追い詰められたら、精神のメンテナンスを、と」
「せ、精神のメンテナンスって……」
ぽかんとして復唱した優志に対し「しかし」と白杜は言葉を続けた。
「どうやら、私は不要だったようですね。素晴らしい演技でしたし」
そう言う白杜が、何だか寂し気に見えて優志は咄嗟に首を横に振った。
「いえ、必要です。本当に!」
「しかし、もう撮影は終わったのでしょう?」
「一応、そうですけど。俺が個人的にと言いますか。俺自身が白杜さんを必要としていいますか」
優志はしどろもどろになりながら、言葉を探す。
「とにかく、来てくれて有難うございます!」
勢いよく優志が頭を下げてから、白杜を見つめた。
「それと、白杜さん。俺、言っておきたいことがあるんです」
「言っておきたいこと?」
首を傾げた白杜に優志は意を決して、口を開く。
「俺、役者に戻ろうと思います」
優志の言葉に白杜は目を見開いた。
一瞬の戸惑いののちに白杜は尋ねてきた。
「スランプから、完全に脱却したとは言えません。それでも演じる、と?」
「はい。今日、改めて分かりました。俺が生きる所は此処なんだと」
『砂山』という役を演じて優志には分かった。やはり、自分は演じることから離れられない人間で、辛くても此処にいたいのだと。
「まだ台本は読めないし、色々と問題はあります。でも、もう少しだけ踏ん張っていたいんです。白杜さんが俺に楽器を作ってくれたように、俺も一つだけやり遂げたい」
「そうですか」
白杜は満足そうに笑う。
「では、頑張ってください」
「はい、頑張ります!」
優志が答えたのと同時、二人はどちらともなく笑い出した。
静かな車内の中に、楽しさと喜びを含んだ声だけが響き渡り、それを見守るように『黒鉄』が輝いていた。
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