第1章ー2話 祖母の示す道

 

 優志の実家は、宮城県の田舎町にあった。

 東京から新幹線で数時間。幾つかのバスに乗り換えた後、優志は実家の門扉に辿り着いた。


「おかえり、疲れたろう」


 共働きの両親に代わって、実家の玄関で優志を迎え入れたのは祖母のふみえだった。白髪が増えてはいたが、ふみえは優心が子供であった時と、何一つ変わらぬ、温かい雰囲気を持って出迎えてくれた。ふみえの笑顔に優志は返す言葉もなく、ただ押し黙る他ない。


 役者になることを誰よりも応援し、『櫻の中で』という映画作品で初主演が決まった時は誰よりも喜んでくれた祖母。

 彼女に対し、何を喋ればいいのかが分からなかったのだ。

 優志が黙ったままでいると、ふみえは静かに目を細めた。


「手を洗ったら、縁側においで」


 ふみえはそれだけを言うと踵を返して、廊下を歩いていった。

 残された優志は、やや間を置いてから洗面所に向かった。洗面台で、手を洗っていると、ふと鏡に顔色の悪い男が映っているのに気付いた。

 顔立ちは整っている優志だが黒髪は跳ねて纏まりがなく、髭も剃っていないことで、今は不潔感が強かった。また顔は青白く、目の下には隈があり、憔悴している。疲れからか二十代とは思えぬほど老けてみえる。

 こんなに疲れ切った顔を祖母に見せてしまったのかと思うと情けなさが溢れた。


「馬鹿みたいだな」


 自嘲気味に笑ってから、優志は洗面所を後にした。

 戸を開けた縁側には、ふみえが居た。ふみえは、縁側に座布団の二つ置き、そのうち一つに座していた。その側には菓子の最中モナカが乗った皿がある。


「……婆ちゃん」

「ああ、優志。最中食べるかい」


 ふみえは笑顔を浮かべると、皿を差し出した。


「うん、食べるよ」


 最中は優志の好物だ。頷いて優志は皿を受け取ると、座布団の上に座る。久しぶりに食べた最中は程よい甘さで、ひどく懐かしい味がした。


「……父さんと母さんは?」


 最中を食べながら、何気ない風を装って優志が尋ねると、ふみえは庭を見やった。


「二人とも仕事に行っているよ、夜には帰ってくるさ」

「そっか」


 頷いてから、両親の顔を思い出す。


「父さんとか、怒るんだろうな」


 元々、役者になることは反対されていた。

 それを押し切って上京し、仕事を得られるようになった。だというのに、スランプに陥るという有様だ。中途半端を何よりも嫌う父には怒鳴られることだろう。母も悲しむか怒るだろうと、優志が考えていると、ふみえは優し気に笑みを浮かべた。


「心配しなくても、そこまで怒りはしないよ。親っていうのは、意外にも子供を見ているものさ。お前が努力も苦労しているのは、二人とも知ってると私は思うけどねぇ」

「そうかな」


 実感が湧かず、優志が首を傾げる中でふみえは静かに頷いた。

 ふみえも優志も自然と押し黙り、ただ庭を眺めた。庭は手入れが行き届いており、立派な松の葉が陽に照らされて、細い影を地面に落としていた。

 亡くなった祖父が作り上げたという庭に視線を向けたまま、優志は口を開いた。


「婆ちゃん、俺、駄目だなぁ」

「何が駄目なんだい」


  ふみえも庭を見つめたまま、問い返してくる。

 柔らかに掠れた祖母の声を心地よく思いながら、優志は言葉を続けた。


「演じるのが嫌になった訳じゃないんだ。好きで大切で、とても代えがたいと思うのに、何でか出来ないんだ。台本は真っ白にしか見えないし、監督たちが何を言っているのか聞こえなくなる。今じゃスタッフの目を見ることすら、怖くなってきて」

 

 堰を切ったようだった。次から次へと言葉が溢れて止まらず、優志はふみえに己の状況や思っていることを話し続けた。言い訳じみていることは分かっていたが、家族

にだけは打ち明けておきたいと、ふと思ったのだ。


「何もかも怖くなるなんて思わかったよ。自分が、こんなに弱かったなんて知りたくなかった」


 優志が涙声混じりに告げると、ふみえは口を開いた。


「自分が情けないかい?」


 ふみえの言葉に、優志は自然と頷いていた。


「情けないし、いろんな人に迷惑をかけた。申し訳なくて、本当に何やってんだって思う」


 何よりも嫌なのは、無力で弱い自分の存在だ。己がくだらない人間だと目の当たりにしている現状が苦痛でしかない。

 優志が内心を打ち明けると、ふみえは頷いた。


「そうかい」


 ふみえは言うなり、立ち上がると奥の和室へと引っ込んでしまった。

 孫があまりにも弱気で、あきれ果ててしまったのだろうか。


 優志は俯くと、座布団の模様をぼんやりと見つめた。

 これから、どうしたらいいのだろうか。

 『役者』ではなくなったなら、己は何処に行けばいいのだろうか。

 実家で、ただ飯を食い続ける訳にはいかない。

 新しく仕事を見つけなくてはならないが、働いている自分を上手く思い描けない。


「俺、他の人生なんて考えたことなかったんだな」


 役者以外の人生。そんなもの、これっぽっちも描いていなかった。 

 それほどまでに自分は『役者』ということ、『演じる』ということにすべてを捧げていたのだと、再確認させられた。


「そんなこと、気づいたって、もうどうしようもねぇのに……」


 ぽつりと呟いて、優志は目を閉じた。瞼で視界を遮れば、少しは頭の中に整理がつくかもしれないと思ったのだが、浮かぶのは役者としての仕事で出会った人たちや作品のことばかりだった。


「何が、駄目だったんだ……?」


 自然と手に力が籠り、膝を潰さんばかりに握りしめる。

 

 どうしてスランプに陥ったのだろう。

 どうして好きな演技ができないのだろう。

 どうして苦しまなくてはならないのだろう。

 何も分からない。答えが出ない。

 

 悔しさ、哀しみ、怒り、安堵、苦しみが混ざり合って胸を焼く。息をすることすら儘ならなくなったその時――、ふいに音が耳に届いた。

 

 ピアノによく似た音に、鉄琴の音が混ざり合ったような不思議な音だった。

 音はなだらかな旋律となって、聞き覚えのない曲を奏でる。

 まるで世の終わりと始まりを歌ったような曲は耳に心地よく、神秘的だった。


 優志が、思わず振り向くと、背後にふみえが立っていた。

 ふみえは手に水の入ったコップを持っている。コップの中では、白銀の石が発光しながら緩やかに回っていた。優志は、立ち上がると導かれるようにコップに近づいた。旋律はコップの中から、否、発光する白銀の石から聞こえている。


「婆ちゃん、これ、何?」


 覗き込んだ優志が問うと、ふみえは穏やかな表情をしていた。


「水入れると音が鳴る特別な石でね、落ち着くかと思って持ってきたんだよ」


 ふみえは言うと、コップを優志に差し出した。優志は受け取ると耳を澄ませて音を聞き入る。


「綺麗な音だ」


 優志が呟くと、ふみえは少しだけ嬉しそうに笑ってから、真剣な表情になった。


「優志、楽器は今も好きかい?」

「楽器?」

「昔はよく吹いていたろう」


 ふみえの言う通り、優志は楽器というものが子供の頃から好きだった。

 管楽器には管楽器の音があり、打楽器には打楽器の音がある。種類によっても違う上に材料や作り手によっても個性が生まれる。形も特徴も様々な上で、多様な音を奏でられる楽器を、優志は素晴らしいものだと思っていた。

 中でもサックスが好きで、親戚から譲り受けたものを長年吹いていた。


「今は全然吹いてないよ」


 スランプに陥ってからは趣味や娯楽どころではなくなり、ほとんど吹かなかった。もう腕も落ちていることだろう。


「でも、音が鳴るものは好きだろう?」

「音が鳴るものって……まぁ、好きだけど」

 

 苦笑すると、ふみえは「そうかい」と頷くと口元を静かに引き結んだ。

 突然、黙ってしまった祖母を、優志は訝しんだ。


「婆ちゃん?」


 声をかけると同時、ふみえは力強い瞳で優志を見返した。


「優志」


 覇気のある声で、名を呼ばれ、優志は自然と姿勢を正した。穏やかな祖母から、凛々しさを纏った女性となったふみえは優志を見据えると、低い声音で切り出した。


「お前、まだ役者でいたいんだろう?」


 本音を見透かされて、優志はぎくりとした。


「でも、どうすればいいのか分からないんだろう?」


 二重に見透かされて、吸う息が掠れる。

 そんな優志から目を離さずに、ふみえは思い切ったように言葉を紡いだ。


「お前が今、手にしている石だけどね。私の友達が作ったんだよ」


 ふみえは柔らかな声音で言うと、目を細めた。

 しかし、優志には話の流れが掴めない。

 戸惑っていると、ふみえは静かに告げた。


「優志。これを作った友達を紹介するから、その人の店で働いてみな」


 そう言って、ふみえが紹介したのは白杜綾音しらもりあやねという女性であった。

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