第1章ー1話 演じる者の苦悩


 「役者を辞めるよ」

 

 店開きをしているのか分からないような、閑散としたバーで、黒尾優志くろおゆうじは友人である赤羽秀吉あかばねしゅうきちにそう切り出した。バーのカウンター席。隣に座していた赤羽は目を見開いてから、手元のグラスを強く握りしめた。


「お前、本気で言ってるのか⁉」

「冗談でこんなこと言わないだろ」


 低い声で優志が告げると、赤羽は弾かれたように顔を上げた。

 怒り、悔しさ、哀しさといった様々な感情を混ぜ込んだ表情を浮かべていた赤羽だったが、ふいに何かに気づいたように、はっとすると、恐る恐る問いかけてきた。


「まさか、病気とかじゃねぇよな? ずっと体調を崩してただろ」


 赤羽の言う通り、優志は半年にわたって体調を崩していた。

 常に頭痛と倦怠感を覚え、腹を下す毎日だ。当初は風邪かと思うような軽い症状だったが、日が経つにつれ、ベッドから起きれないほどになってきた。

 その事実は赤羽も知るところであり、真っ先に病の存在を疑ったようだ。

 しかし、対する優志は首を横に振ると「違う」と答えた。


「体に異変はないって医者は言ってた。原因があるとしたら、精神的なものらしい」

 

 優志は懐から取り出した煙草に火を点けると、深く吸い、煙を吐き出した。


「体調不良程度なら、辞めるつもりはなかったんだけどな」


 優志は俯くと、静かに言う。


「台本が読めないんだ」

「なに?」

「ト書きも台詞も皆まっしろに見える。白紙にみえるんだ。それにカメラのレンズも怖い」

「怖いってお前……」

「視界に入れたくないんだ。見るだけで吐きたくなって、トイレに駆け込むようになった」


 優志の言葉に、いよいよ赤羽の顔色は険しくなった。

 赤羽はかけている眼鏡を指で押し上げながら、尋ねて来る。


「……スランプって奴か?」

「だろうな」


 地獄に落とされたような心地で優志は頷いた。


 優志にとって『役者』というのは、生計を立てる為だけの仕事ではなかった。

 人生を捧げる覚悟をし、演じることに生きがいを見出し、これこそが己の道であると定めた末に断たれたのだ。


 演じることに、嫌気がさした訳でも、憎悪している訳でもない。

 心は演じたいともがいているというのに、身体がまったくついてこない。

 そのちぐはぐさに苦悩しながら様々な方法で気分転換を行ったり、先輩後輩に関わらず相談をし、解決策を編み出そうとした。


 そうして、必死に『役者』という肩書に縋りつこうとした。


 演じて生きていくと決めのだから、これぐらいの苦悩で投げ出す訳にはいかない、と。しかし、治療法のない病に罹ったのと同じで、簡単に抜け出せるものではなかった。


 そして、秋の終わりが近づいた頃、いよいよ監督や共演者の視線に対して、恐怖を覚えるようになると優志は『役者』という仕事から離れる決意をしたのだ。

 そこまで言うと、赤羽は沈痛な面持ちになった。


「辞めてどうするんだ。仕事とか住む場所はあるのか。生活は?」

 

 古くからの友人ということもあって、すぐに身を案じてくる赤羽。

 その優しさを嬉しいと思うと同時、辛くも感じながら優志は答えた。


「アパートは引き払って実家に戻る。事務所とも話はついたから」

「そうか」


 頷いてから赤羽は優志の肩を叩いた。


「……落ち着いたら、連絡くれよ」

「あぁ、ありがとうな。赤羽」


 礼を言いつつ、優志はそそくさと席を立った。

 これ以上、赤羽と言葉を交わせば、心が折れてしまいそうだった。

 自分の弱さを赤羽を通して、突き付けられてしまいそうな気がしたのだ。


 優志はさっさと会計を済ませると、バーを出た。

 赤羽も優志の気持ちを汲んで、何も言わず見送ってくれる。友人の気遣いに感謝しながら、店を出た足取りで優志は駅に向かった。そして、預けていた荷物を駅構内のコインロッカーから取り出すと、そのまま新幹線に乗り込んだのだった。


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