主婦とカラスは五時に鳴く 前編

 今日、直帰で良いから。

 そう言われた時、信じられなくて思わず三度聞きくらいした。


「直帰?」

「そう、直帰だ」

「マジですか?」

「マジだ」

「何かぼくに隠してる事ないですか?」

「何もない! 心配すんな! 今日はもう帰っていいから!」


 わかりました、と電話を切っても何だか信じられない気持ちで一杯だった。

 だってまだ四時だぞ。正規表現で言うと十六時だ。

 定時にすらなっていないのに、帰宅だと。

 そんな罪が果たしてこの世に許されるのか。


 いろいろ考えながら、ぼくは自分がたった今出てきたビルを振り返る。

 うちの会社とは大違いの、四十階はあるんじゃないかというビルディング。その三十五階から、たった今ぼくは出てきた。この大きなビルすべてが一つの会社であり、そしてうちは今度、この会社と共同提携で仕事をすることになったのだ。

 IT会社コネクト。

 IT業界ではかなりの大手で、自社コンテンツや動画配信なんかに力を入れている会社だ。エンターテインメントのコンテンツ制作に定評があり、そのWEBコンテンツ制作の下請けとして、今度うちの会社が抜擢されたのだ。


「お疲れ、吉野くん」


 呆然としていると背後から肩を叩かれた。振り返ると、営業一課の上田さんが爽やかな笑みを浮かべている。どこぞのアイドル事務所か雑誌モデルでもしてそうなこの男性は、ぼくよりも二年先輩の営業マンで、我社のエースでもある。仕事も出来て顔も良い、おまけにセンスも良くて性格も話しやすいと来ているのだから、モテないはずもない。会社の飲み会があれば、大体一回は「上田さんに抱かれたい」と言う発言が女子の口から放たれるほどだ。


「いい感じの打ち合わせだったね」

「上田さんのお陰ですよ。よくこんな大手の仕事引っ張ってこれましたね」

「ま、そこらへんはコネクションを地道に築いた結果かな。でも、会社として仕事の質が認められたってのも大きいよ」


 下手に謙遜するでも自己主張するでもない。冷静に客観的な感想を述べる事が出来てしまうのもまた、彼がイケメンである証拠だ。


「吉野くんも、向こうの人が褒めてたよ。企画のプレゼンも、予算の算出も、規模や納期の推察も正確でわかりやすいって。スケジュール作成もお願いしたいって言ってたし、連れてきてよかったよ。さすが水卜さんのお気に入り」

「褒め過ぎですよ。それに元部下ってだけで、お気に入りじゃないですし」


 それよりも謎なのは、コレほど仕事が出来る営業マンからも注目される水卜さんの存在だ。何で彼女がここまで一目置かれているのかは、未だぼくの理解の及ぶところではない。


「吉野くん実は知らないだろ。実は水卜さん、何度か君を広告課に引き込もうとしてるんだぞ」

「初耳ですけど……」

「たまにあったらよく君の話をしてるよ。秘書にしたいってぼやいてる」

「仕事ぶん投げたいだけでしょ、それ」


 げんなりしていると、不意に上田さんの社内携帯が鳴った。電話に出た後、彼は腕時計を眺めだす。


「それじゃあ、俺次のアポがあるから行くわ。吉野くんは会社戻る感じ?」

「いえ、直帰だそうです。今月結構残業溜まってたんで、そのせいかと」

「ええ? マジで? 稼働調整ってやつか。良いなぁ。俺も帰りたいよ」


 ボヤきながら駅に走る上田さんを見送って、ぼくも電車に乗った。



 十六時の電車はガラガラだった。

 学校帰りらしい女子高生、どこに向かってるのかもわからない老人、就活生らしきパリッとしたスーツ姿の男女。乗ってるのは、その程度だ。

 電車の窓からは太陽の日差しが入り込み、そろそろ夕方と呼ばれる時間帯に突入することが何となく分かる。一定に揺れる電車のリズムが、くたびれた体をねぎらっているようで、どこか心地よい。


 こんな時間に解放されるなんて、何年ぶりだろう。

 そんな事を何となく思った。


 休みの日に外を歩き回ることはもちろんある。適当に街中をぶらついて、夕暮れになったら酒のアテと猫の餌を買って家に帰る。そんな贅沢な時間を過ごすことも、決して少なくはない。

 でも、平日の何でもない仕事帰りの道のりとは、根本的に性質が違う。

 仕事終わりなのに、まだ空が明るいというのは、社会人にとって特別なのだ。


「お兄ちゃん」


 改札を出て駅前の広場でグッと伸びをしていると、小学生に声を書けられた。

 見るとみゆきちゃんがそこに立っていた。


「何やってるの? 会社辞めたの? クビ?」

「辞めたんでもクビでもないよ失礼な。ちょっと早く仕事が終わったんで帰ってきたんだ。みゆきちゃんは、学校終わり?」

「そうだよ」


 しばらく学校を休んでいたみゆきちゃんだが、最近腹を決めたのかぼくの家から登校するようになっていた。通学に電車を挟むため時間は掛かるが、通えない距離ではない。


「今日はスポーツクラブは無い感じ?」

「うん。火曜日と木曜日だけだから」

「ふぅん。そんなガチじゃないんだね」

「そうだよ。だって小学生がやってる事だよ? おままごとみたいなもんだよ」

「そう言うの自分で言っちゃうんだ……」


 夢のない話だ。

 最近の小学生は、どんどんリアリストになっていると聞く。

 将来の夢が公務員だとか、YouTuberだとか、とにかく夢がない。

 実際は訳も分からないまま、大人ぶってリアリストを演じているのだろうけれど、みゆきちゃんを見ていると何となくその理由もわからないではなかった。


「みゆきちゃん、学校はどう? 楽しい?」

「別に、普通だよ。面白くもないし、楽しくもない」

「いじめられたりとかは……ないか。好きなことかはいないの?」

「うーん、どうだろう。二組の安田くんとかは足が早くて良いなって思うけど、足が早くてモテるのって小学生までだよね」

「君は未来から来たの?」視野が大人すぎる。


 みゆきちゃんと歩く帰路は、夕飯の買い出しにやってきた主婦たちで賑わっている。いつもはあまり感じていなかったが、自分の住んでいる街はこんなにも暖かかく、活気づいているのだと改めて気付いた。商店街の店から大きな声で客引きがあり、小さな商店がいくつも栄えている。その光景は、どこか温かい。


 そこで、ふとたいやき屋さんが目に入った。

 店先から漂う甘い匂いが、ぼくの備考を刺激する。


「ねぇ、みゆきちゃん。たいやき買ったげようか?」

「えっ? でも知らない人に物を買ってもらったらダメだって学校で」

「一応君の叔父なんですけど?」


 二人して下らない話をしながらたいやき屋に足を運ぶ。

 表の看板にいくつか味のバリエーションが乗っていた。

 あんこ、クリーム、マロン、金時いも、抹茶。どれも美味しそうだ。


「迷うねぇ」


 声を書けるとみゆきちゃんは答えない。随分と真剣にメニューを眺めていた。そんな彼女の姿を見て、ようやく小学生らしさが垣間見えたとホッとする。このくらいの歳の女の子には、こんな感じて居てほしいものだ。


「何で迷ってるの?」

「クリームと金時いも」

「あぁ、どっちも美味そうだよね」


 そこでぼくはふとひらめく。


「そうだ、ぼくが金時いもにするから、みゆきちゃんはクリームにしなよ。それで半分こしよう」

「良いの?」


 みゆきちゃんの瞳がキラキラと輝きを放つ。ぼくは頷いた。

 財布を出しながら店員に声をかけようとすると、不意に「あら、何やってんの?」と声を掛けられる。


 見ると姉がそこに立っていた。


「あんた、今日仕事は?」

「残業溜まってたから早上がり。ちょうどそこでみゆきちゃんと会ったんだ。で、たいやき買おうかって」

「たいやきねぇ」


 自分も買おうかな、としばらく姉はメニューを眺めていたのだが、やがてふと何かに気づくと、その視線を徐々に隣の中華料理屋に移していった。

 視線の先には、餃子とビールのちょい呑みセットと書かれている。

 嫌な予感がして、ぼくとみゆきちゃんは顔を見合わせる。

 やがて何か妙案を思いついたように、姉はこっちに向き直って言った。


「ねぇ、今日、外食にしよっか」

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