主婦とカラスは五時に鳴く 後編

 中華料理屋の店内に入ると、油で薄汚れた壁と聞き覚えのあるようなないような独特な歌謡曲が飛び込んできた。

 その様子を見て、先程までたいやきを食べてご満悦だったみゆきちゃんが顔をしかめる。


「めっちゃ汚い……」

「中華料理屋は汚いほうが店が美味しいのよ」


 上機嫌な姉の言葉に「そうなの?」と訝しげな視線をみゆきちゃんが向けてくる。

 一理あるようなないような。一応ぼくは頷いた。


「じゃあ早速頼みましょ。店員さーん! ビールとグラス二つ! あとオレンジジュースに空芯菜の炒めとエビチリと餃子!」

「何、姉さん腹減ってたの?」

「酒飲むのにツマミがなくてどうすんのよ」


 どうしようもない姉だ。

 その様子に、みゆきちゃんも呆れた様子でため息を吐いている。

 ぼくは小学生がこんなふうにため息を吐く姿を、生涯で見たことがない。


 しばらくすると机の上に頼まれた料理が並んだ。

 姉は目を輝かせながらぼくと自分の分のビールを次ぐ。


「それじゃあ、平日のこの時間から飲める喜びを祝って! かんぱーい!」

「いつもこんな調子なの?」


 みゆきちゃんに尋ねると、彼女はコクリと頷いた。


「家飛び出してからは特に酷いかも」

「それはまずいな」


 ぼくが頭を掻いていると「あんた達わかってないわね」とビールを飲みながら姉が言った。


「私はね、今主婦を休業している状態なの」

「じゃあママじゃないの?」

「それは違う。母は稼働している。ただ、妻は稼働していない」

「何それ、変なの」とみゆきちゃん。

「母と妻を別物にするなよ……」

「あんたはわかってないのよ。母の大変さも、妻の大変さも。あんたは社畜っていう一つの職業を淡々とこなしていたら良いかも知れないけどね、こっちはそうもいかない。女はね、時に妻であり、時に母であり、時に女であり、場合によってはパートやら社会人やらをやらされてるの。その大変さがわかる?」

「それ言い出したら、男だって父であり、夫だろ」

「違うわよ」


 ぐぐっと、メチャクチャなスピードで姉はビールを飲み干す。

 知らぬ間にもう瓶が一本空になっていた。

 いくらなんでもペースが無茶苦茶だ。


「いい? 世間の大半の男はね、男でしかないの。だから家事を『手伝う』って言うし、子育てを『手伝う』って言う。男にとってね、家事も子育てもちょっとしたボランティア感覚なのよ。他人事。自分の仕事じゃないの。だから『協力する』んじゃなくて『手伝う』の」

「あぁ、なるほど……」


 ぼくは最近ネットでフェミニズムを語る人たちが、鬼の首を取ったように男の発言を叩く姿が目立っているのを思い出した。

 手伝うも協力するも所詮言葉の綾でしかないが、潜在的な意識がそうした細かい部分に漏れ出ていると言われれば何も言えない。


「まぁ確かに、家にいる人が家事をしないとダメな理由はないし、子育てを一人でやらないとダメな理由もないもんな。家族っていうチームを、全員で運営するのが大切っていうか。ただ、そうなると専業主婦の存在価値って何なんだろうって不安になったりしない?」

「そんなもんどうでも良いわよ。あんたはまた、そうやって仕事と結びつけて考える。つまんない男だねホント」

「独身だから仕方ないだろ」

「みゆき、あんたはこんなつまらない男を捕まえちゃダメだからね。ママ許さないから」

「大丈夫。私将来は坂口健太郎みたいな人と結婚するんだ。格好良くて、俳優で、お金持ち」

「坂口健太郎かぁ、いいなぁ。ママも坂口健太郎と結婚したい」

「あんたはもう結婚してんだろ」


 突っ込むも、話題が次から次へと飛び散っていく。

 酔っぱらいに何を言ったところで無駄なのかも知れない。


「姉さんはさ、どうして恭介さんと結婚しようと思ったんだよ」


 ぼくが尋ねると、姉は二本目のビールに手を伸ばしながら首をかしげた。


「何でだろ。顔は悪くないのよね。昔からドスケベだったけど」

「娘の前でドスケベとか言うな」

「大丈夫だよ、お兄ちゃん。ドスケベの意味くらい知ってるから」

「どこでそう言うの習ってきちゃうの?」


 すると姉は、コトリとコップをテーブルに置いた。


「やっぱり勢いか……勢いね。ノリというか、雰囲気にほだされると言うか」

「雰囲気?」

「結婚なんてさ、勢いがないと出来ないのよ。年を取れば取るほど、もう打算とか、将来の設計像とかを考慮して考えちゃうの。好きでも甲斐性がない奴とは結婚しないし、甲斐性があっても家庭をないがしろにしそうな人とは結婚しない。いい物件はどんどん埋まるし、見渡せばゴミ物件ばっか」

「弟をゴミ物件呼ばわりするんじゃないよ」

「あの時は幸せになれると思ったんだけどな……」


 姉は再びビールを煽る。

 すると、みゆきちゃんが不安そうな表情を浮かべた。


「ママは、今、幸せじゃないの……?」

「んーん、みゆきがいて幸せ。ママ、みゆきを生んで良かったって思ってんだぁ」


 姉夫婦の間にある確執は、そんなに根深いものなのだろうか。

 姉の独白を聞いていると、なんだか徐々に不安になってきた。

 離婚したりしないだろうな。


 ふと気づくと、いつの間にか酔いつぶれた姉が机に突っ伏して眠ってしまっていた。

 あまり意識していなかったが、ビール三本をほぼ一人で飲みきったらしい。


「寝ちゃったね、ママ」

「まぁ、色々溜まってたんだろうね。……みゆきちゃん、ママとパパは、いつも家ではどんな感じなの?」

「どうって、普通だよ? よく喧嘩するし、仲直りしたらいっつもお出かけ前のチューしてる。正直キモい」

「許してやってよ」


 店を出る頃にはもう夜の七時を回っていた。

 空はすっかり暗くなっていたし、駅前は会社終わりのサラリーマンで賑わっている。

 その中を、ぼくは背中に姉をおぶって、みゆきちゃんと二人で歩いた。


「お兄ちゃん、パパとママ、離婚しちゃうのかな」

「多分、当分大丈夫だよ」

「なんで?」

「何だかんだ言って、姉さんも恭介さんも、お互いの事が好きなんだ」

「なんで分かるの?」

「なんとなくね」


 姉は今、妻を休業していると言っていた。

 きっと、十分に休みを取ったら、また戻っていくのだろう。

 彼女にとっての戦場へと。


 気楽そうに見えて、案外この人も苦労してるんだな。

 今度からもう少し優しく接してあげてもいいのかもしれない。


 そう思っていると、不意にどこからか「にゃあ」と声がした。

 辺りを見回すと何故か足元に我が家の飼い猫、しゃちょうが居た。


「あー、しゃちょうだ! 何でこんなところにいるの?」


 みゆきちゃんがしゃちょうを抱き抱える。

 嫌がる様子もなく、しゃちょうはなすがままだった。


「姉さんと一緒に出てきちゃったのかな。何にせよ見つかってよかった」

「しゃちょう、勝手に家出たらダメだよ?」

「にゃっ」


 駅前から離れ、徐々に人気のない道へと差し掛かる。

 薄暗い通りに、どこからか虫の鳴き声が聞こえてきた。

 空には月が昇り、柔らかく月明かりが落ちてくる。


「今日は何か静かで気持ちいいね」

「そうだね」

「にゃあ」


 こうやって歩いているとついつい思ってしまうんだ。

 結婚するのって、こんな感じなんだろうかって。


 だとしたら、案外悪くないのかもしれないな。

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