彼女はリストカッター
姉の夫婦喧嘩もようやく一段落し、つかの間の平穏が戻ってきた。
と思っていた。
「なんでまだいるんだよ」
「そう簡単に許すような安い女じゃないのよ、私は」
姉はズズズ……と不味そうにビールをすする。
「せめて実家に帰ってくれよ」
「そんな事したらみゆきが学校に通えないじゃない」
「そりゃそうですけどね……」
じゃあ恭介さん(旦那)を家から追い出したらいいじゃん、とは言わずにおく。
そんな事をしたら本格的な離婚案件になりかねないからだ。
結局ぼくは、しばらくこの状況を受け入れなければならないらしい。
「ごめんね、お兄ちゃん」
ベランダでアイコスを吸っていると、姪のみゆきちゃんがしゃちょうを抱えながらやってきた。
「なんでみゆきちゃんが謝るの」
「親の責任は子の責任だから」
「普通逆じゃない?」
相変わらず姉の娘はしっかりしている。しっかりしすぎているようにも感じた。ぼくが彼女くらいの歳の頃は毎日アニメとゲームとマンガで頭が一杯だった。昼休みは友達と際限なく遊んでいたし、放課後は大概誰かの家でゲームしていた。親の事とか、見ていなかった。家に帰ったら自動的にご飯は出てくるし、夜になれば当たり前のように家族団欒が構築されるものだと思っていた。
「みゆきちゃんさ」
「どうしたの?」
「もっと馬鹿になっても良いんだよ。疲れるでしょ、そう言うの」
「別に。普通だよ」
「君にとってはそれが普通なんだ」
「うん。お兄ちゃんの時は違ったの?」
「違ったよ。クラスの男子思い浮かべてごらんよ。そんな感じだったよ」
「二種類いるからどっちだろ」
「二種類?」
「イケてる奴とイケてない奴」
「嫌な尺度だ」
そこで何となく思い出した。
「昔、水口くんって奴が居たなぁ、同級生に。なんか思い出しちゃった」
「イケてたの? その人」
「イケてなかったけど、イケてるフリしてた人。でも周りもイケてるとは思ってなかったと思う。ただ、彼女はいてさ。よく密会してたのを知ってるよ」
「密会って、内緒で会ってるって事でしょ? 何でお兄ちゃんが知ってるの?」
「現場に居たからだよ。男女二人で遊んでると、目撃されたらからかわれるだろ? だから、水口くんはよくぼくも遊びに誘ってたんだ。それで、三人で遊んでた。ぼくにゲームさせて、その隙にイチャついてたんだ。名目上、三人で遊んだっていうていで」
「それはイケてないね」
「ぼくもそう思う」
「私、付き合ってる人はイケてると思ってたけど、違うんだね」
「人間なんて千差万別だよ。イケてるけど彼女いないやつもいるし、イケてないけど彼女いるやつだって居るんだ」
「お兄ちゃんはイケてないね」
「そう?」
「うん。黙っていいように利用されてるんだから、イケてないよ。そもそも、そう言うのに利用されてる時点で舐められてるって事だから、イケてない」
「イケてないかぁ。厳しいなぁ」
すると不意に電話が鳴った。LINEだった。
「誰から? 女の人?」
「まぁね」
「あ、ひょっとしてこの前言ってたビックリするくらい美人の元カノ?」
「それとはまた別」
ぼくがスマホをポケットに入れると、みゆきちゃんは首をかしげた。
「返事しなくてよいの?」
「この人は返事しないほうが良いんだよ」
「何で?」
「そう言う人だから」
「変なの」
連絡をしてきたのは星野アキ。
ぼくの大学時代の友達で。
リストカッターだ。
○
「ねぇ、君そのノートちょっと見せてくんない?」
「えっ? 嫌だけど」
「お願い、後で学食奢るから」
「知らん子に奢られてもな……」
「じゃあ今日から友達って事で!」
「えっ? 嫌だけど」
「天丼するねぇ? 被せてくるね?」
黒髪のパッツンで、ちょっと金髪のメッシュが入った、チャラチャラした印象だけど話せば面白い人。
それが大学の同期、星野アキの第一印象だった。
「ねぇ、ヨシカケくん。今日暇あるなら映画でも行こうよ」
「暇ないから嫌だよ」
「ノート見せておくれよノート」
「たまには授業出なよ」
「いいじゃん、連れないこと言うなよジョンソン」
「何だよジョンソンって……」
彼女はお調子者で、男友達が多い人だった。でも、誰とどこに居ても、ぼくを見つけるといつも追いかけてきた。特に拒みもしなかったので、自然と一緒に行動する事が多くなった。
星野アキは映画が好きな人だった。ぼくは彼女に付き合って映画をよく見に行った。お陰で沢山の映画を知る事が出来たし、沢山の単位を落とす事にもなった。
一度、映画好きが高じて、星野アキの誘いで部屋に行った事がある。
女子の部屋に男女が二人きり。
映画を見ているため薄暗く、ソファで映画を見ていたぼくの横には、なぜかびっちりと張り付くように星野アキが座っていて、内心気が気じゃなかった。
いよいよ微妙な空気が流れ始めた時。
「私さぁ」
星野アキはそっと、自分の腕にある無数の切り傷をぼくに見せてきた。
腕にミミズ腫れの様な傷跡が何本も走っていた。
「切っちゃうんだよね」
彼女はそう言うと、何でもなさそうに長い爪で傷跡を撫で。
そしてそっと、ぼくの顔を探るように見つめてきた。
「引いた?」
「別に」
ぼくは彼女の顔をまっすぐ見返した。
「ぼくなら絶対切らないけど」
「ヨシカケはそう言うと思ってた」
そして彼女はヘラヘラと、しかし嬉しそうに笑った。
その日から、腕を切った際、星野アキはその報告を必ずぼくにするようになった。それは大体、好きでもない男に抱かれた翌日だった。
腕を切ったことを吐露する彼女は、まるで贖罪をしているようだった。
星野アキはいつも何かに怯えていた。
それは物質的な物ではなく、周囲の評価とか、自分の中のプレッシャーとか、目には見えないものだった。
「何かさ、頼まれると断れないんだよね」
彼女のその言葉が、全てを物語っていた。
首元にキスマークを付け、どこかくたびれた様な顔をする彼女に、ぼくは必要以上に干渉しなかったし、必要以上に距離は置かなかった。
適度な距離で、適度に遊ぶ。
そう言う関係は、どこか心地よいものだった。
彼女のリストカットは、次第に酷くなっていった。
連絡は日に日に数を増し、星野アキのぼくに対する依存は強くなっていた。黙って話を聞くぼくは、星野アキからすれば『都合よく許してくれる存在』だったのかもしれない。
その日は、星野アキの機嫌が悪かった。
朝からチクチク刺すようだった嫌味は、やがてぼくの中のなにかの引き金を引くことになる。
「ヨシカケはさ、まるで暖簾みたいだよね」
「どういうこと?」
「何やっても興味なさそう。正直、一緒にいるとしんどい」
「あぁ、そう見えるんだ」
「知ってる……? みんながあんたの事なんて言ってるのか。ネクラオタクだって。話してもつまらない、大した話題も出せない、中身も無くて人間的な魅力がない人。それがヨシカケなんだよ」
「そうなんだ」
彼女の言葉を聞けば聞くほど、スッと、心臓から体の手先へ、冷たい血液が流れ込むような感覚が広がっていった。
その日からぼくは彼女の一切の連絡を無視し、学内でもほぼ近づかなくなった。最初は鬼のように来ていた連絡は徐々に頻度を落とし、やがてある一定数になった時に落ち着いた。
今もたまに連絡が来る。
贖罪は、きっと今でも続いている。
○
次の日、ぼくは会社へと出社した。
喫煙所に行くと、示し合わせても居ないのに水卜さんに出くわした。
「おー、奇遇。何か嫌なことあった?」
「……何でですか?」
「いや、めっちゃ目が死んでるからさ。そう言う時、大体嫌なことあった後でしょ。部長に怒られたりとか」
「水卜さんと一緒にしないでくださいよ」
「違った?」
「いや、違わなくは無いですけど。人のミスの尻拭いを午前中やらされたと言うか」
「じゃあ合ってんじゃん。目の焦点が合ってないって言うか、声のトーンが一定っていうか。人じゃなくて、物を見てる感じしてたからさぁ」
「殺人鬼じゃないですかそれ……」
意気揚々と話す水卜さんだったが、その瞳の奥にはどこか無関心な感情が宿っているのを感じていた。
そう言う時、ぼくは実感してしまう。
多分、ぼくと水卜さんは同類だと。
どうでも良い事で盛り上がれるし、割と馬は合う。でも、相手の事にはそれほど興味がない。そう言う姿勢や感情が、肌で伝わる感じがする。
人と話しているのに、人じゃないような。不気味までは行かないけれど、どこか空虚な感覚が漂っているのだ。
「ヨシカケくんはさ、怒れば怒るほど冷めるタイプじゃない?」
「そうですか?」
「私がそうだから分かるんだよ。加点式じゃなくて減点式なの。最初はみんな同じ持ち点から始まるんだけど、怒ったりすると点数が削れる。それで点数が無くなったら、相手への興味、関心、信頼が全部消える。人間関係を続ける気がなくなる」
そうなんだろうか。
そうなのかもしれない。
確かに、そう言われるとストンと納得できるような気もしないではなかった。
星野アキにと決別したあの日。
ぼくは怒っていたのだ。
だから、彼女の点数が減って、急に無関心になったのかもしれない。
○
帰りの電車で、何となくスマホを見ると、LINEに未読がついていた。そこで、そう言えばまだ星野アキからの連絡を見ていなかったことを思い出す。内容を見ると、彼女の近況が綴られていた。ここ最近は、まるでブログみたいな内容が続いている。
就職したけど配属先の上司とソリが合わないと言う愚痴。
転勤になったけれど新しい環境に馴染める気がしないという不安の吐露。
今の仕事を続けてよいのかという悩み。……色々だ。
何故彼女がその内容をぼくに送り続けるのかもわからないし、何故ぼくも毎回律儀に読んだ上で無視しているのかもわからない。
でもきっとそれで良いような気がした。
ふと、顔を上げると自分の目の前に見覚えのあるスーツ姿の女性が立っていた。その子はぼくと同い歳くらいで、右手に消えかけのリストカットの跡があった。髪の毛の色も黒く、手の傷以外には特徴のない、どこにでも居るような会社帰りの疲れたOLだった。その子は、ぼんやりと窓の外を眺めていて、ぼくに見られている事に気づいていない。
ぼくはそれが、誰か気づいた。
声をかければすぐにかつてのように話す事が出来るだろう。
それだけの時間の感覚が、ぼくらの間にはあった。
でも、ぼくは顔を背けた。
ここで彼女に声をかけたら。
それはきっと、良くない事になる。
家に帰ると、姉が食事を作って、みゆきちゃんが机で勉強していた。
姉が居候するようになってから唯一良かった事はご飯を作ってもらえることで、悪いことはその食費を全部ぼくが出しているという事だ。
「ただいま」
「お帰り」
「お兄ちゃんおかえりー」
「今日はカレー?」
「そうだよ。……あんた、何か今日、嬉しい事あった?」
「えっ?」
「嬉しそうな顔してる」
「そうかな」
ペタペタと顔を触ってみるも、自分では分からない。
ただ、まぁ。
「良いことはあったかな。それなりに」
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