今日も猫は「にゃあ」と鳴く
坂
姉は娘と家出する
チキンラーメンを作るためにお湯を沸かしていたらチャイムが鳴った。
出てみたらそこに結婚したはずの姉が姪と立っていた。
「何やってんの、姉さん」
「しばらく泊めて」
それが久しぶりに会った姉の言葉だった。
旦那が風俗に行ったのだという。
それも一度や二度ではなく、会員カードを作るくらいの常連客で、持っていたスタンプカードはすっかりと埋まっていたのだという。
「そう言った話をね、年頃の娘の前でするんじゃないよ」
「年頃の娘の前で竿を淫らに振り回していたのよあいつは!」
「最低だよあんたは」
竿を淫らに振り回すってなんだよ。娘の前では振り回してないだろ。まぁ別の娘の前では振り回してたかもしれないけど。振り回すってなんだよ。呂布かよ。ぼくだってなりたいよ、呂布に。
姉は適度に騒いだ後、何故か買ってきていたビールを散々飲み、夜中にも関わらずバカみたいに管を巻いてぼくのベッドで眠りについた。
「たまったもんじゃないよな」
ベランダでアイコスを吸いながらぼやいていると、足元で猫がニャアと鳴いた。抱きかかえて襟巻きみたいに首に巻くと、全く抵抗なく猫はなすがままになる。
「その猫、お兄ちゃんの飼い猫?」
声がしたので振り返ると姪のみゆきちゃんがベランダに出てこようとしていた。
「そうだよ。お兄ちゃんの長年の相棒」
「前来た時居なかった」
「ごめん、嘘ついた。一年前くらいから飼ってる」
「しょーもない嘘つかないでよ」
「すいません」
「名前は?」
「しゃちょう」
「なんで社長?」
「社長っぽい顔してるでしょ」
「本当だ、なんか太っ腹そうな顔してる」
みゆきちゃんが撫でたそうだったのでしゃちょうを降ろしてやる。するとみゆきちゃんは嬉しそうにしゃちょうを抱きかかえた。わさわさするとしゃちょうは気持ちよさそうに目を細めている。
猫は腹を撫でられるのがあまり好きではないと聞く。しかししゃちょうはどこを撫でても気持ちよさそうに鳴く。しっぽを撫でても許してくれる。その太っ腹さは本物の社長みたいだ。ぼくの会社の社長もこれくらいなら良いのに。
「みゆきちゃん、調子どうなの」
「悪くないよ。パパとママは喧嘩してるけど。通常営業って感じ」
「あれで通常営業なんだ……」
「うん。たまにあるの。その度に学校休まなきゃダメなんだ。迷惑だよね」
「ホントにね。今何年生だっけ」
「四年生」
「忙しい時期」
「そうだよ。最近スポーツクラブも入ったから、忙しいんだ」
「スポーツクラブ? 部活ってこと? 何やってるの?」
「バスケだよ」
「あぁ、バスケやってる女の子はモテるよ。間違いない」
「そうなの?」
「バスケ部の女の子と付き合わない理由なんてないでしょ」
「男の子の気持ちってよくわかんないね」
「女の子の気持ちも大概だよ」
「お兄ちゃん彼女とかいないの?」
「居たよ、ちょっと前まで」
「どんな人だった?」
「めちゃくちゃ美人だった。美人すぎて釣り合わなかった」
「男の子はいつだって女の子を追いかけたがるものなんだね」
「そう言う言葉、どこで覚えてくるの?」
最近の小学生とは進んでるものなのだ。
ぼくの時はどうだっただろう。そう思って空を見上げると星が美しく瞬いていた。穏やかな日で、風が心地よい。無限に外で過ごせそうな気すらする。
「そろそろ寝ようかな。私、明日早いし」
「学校休むんじゃないの?」
「朝起きて夜寝る。そう言う生活を崩したくないの」
「偉いな……」
みゆきちゃんはしゃちょうをぼくに返すと、そのまま部屋に戻って姉の眠るベッドに潜り込んだ。セミダブルのベッドは子供と大人が眠るくらいのスペースで丁度くらい。そしてそこにぼくの眠る場所はないのだと悟る。
その姿を眺めながら、何となく姉は反面教師なのだろうと感じた。みゆきちゃんは偉い。多分この家に居る大人の誰よりも偉い。立派だ。顔も可愛らしいから将来モテるだろう。バスケ部だし。
「でもバスケ部の女子って成功はしないよな。成功する女子の部活ってなんだろうな。どう思う? しゃちょう」
「吾輩はにゃんでも成功出来ると思うぞ。可能性は無限、線を引くのは
「何で猫が喋ってんだよ」
そこで目が冷めた。
ぼやけるような意識を外に向けると、空はすっかり明るくなっており、青空が雲の切れ目から顔を出していた。一体どこからが夢だったのだろう。ぼんやりとした意識の中、何となく振り返るとベッドですやすやと眠る姉母娘の姿があった。どうやらベッドで寝れないから机に突っ伏して寝てしまったらしい。背中が軋む様な痛みを発しており、膝の上から得も言われぬ暖かさを感じた。見ると、しゃちょうが心地良さそうにあぐらをかいた膝の上で眠っていたのだ。
何となく時計を見て、そろそろ出社だな、なんて思う。
「それで、姉さんはいつまで居るの?」
向かい側で朝食を食す姉に尋ねる。
ズズッと味噌汁をすすりながら、姉は真顔のままぼくに目を向けた。
「何言ってんのよ」
「何言ってんのじゃないよ。いつまで居るのかって問うている」
「いつまでもよ」
「いつまでもかぁ……」
「いつまでもいるらしいんですよ、我が家に」
「ふぅん、よかったじゃん」
「いいわけないでしょ。帰ったら狭い家に姉と姪がいるんですよ。地獄ですよ」
仕事の合間、会社の喫煙所でタバコを吸っていると、上司の
「帰ってきたら人が居るって良いもんだよ。私なんかさ、家帰っても真っ暗なんだから。君みたいに猫も飼ってないしさ、虚しいもんだよ。誰のために頑張ってんだろって」
「でも水卜さんの年齢の女性は猫飼いだしたら終わるって言いません?」
「セクハラで訴えるよ君は」
「すいません、微妙な年頃ですもんね」
「よし、戦争だ」
大して表情も変えない水卜さんは何でもなさそうにそう言うと、静かにタバコを口に運んだ。恐ろしいほどその仕草は絵になっていて、ボーッとしていると何だか吸い込まれそうになる。
「ヨシカケくんってさ」
「はい」
「童貞だっけ」
「セクハラで訴えますよ」
「でも女性経験まだないでしょ」
「やめて下さい!」
ぼくは大きな声で言った後、そっと辺りを見回した。幸いにも、喫煙所には今誰もいない。色んな人が忙しそうに歩いている。誰もぼくらの存在には気づいていないようだった。それでもぼくはなるべく小声で水卜さんに指摘した。
「……誰かに聞かれたらどうすんですか!」
「あー? 内緒にしてたんだっけ。なんで? 男子ってそう言うの好きじゃん」
「童貞ネタでやっていけるのは二十代前半までですよ。アラサーになるとね、意味合いが変わるんです。ぼくの歳になるとね、女性経験してるのなんて割と当たり前になるんですよ。無い方がおかしい。普通にしてたら一回くらいはそう言う機会にぶち当たるもんなんです。だから童貞って言うと『あ、この人今まで最低限の信頼関係すら構築出来ていなかったんだな』って言われるんです。自分が異常者だって声を大にして言い広めるようなもんなんですよ」
「めっちゃ喋るじゃん。ウケる」
なるほどねぇ、と水卜さんは興味なさそうに遠くを眺めた。
「ヨシカケくんは今年何歳なんだっけ」
「二十八です」
「二十八じゃまだ若いじゃん。わざわざ誤魔化さなくても良いんじゃないの」
「そんな事ないですよ。童貞キャラで笑いが取れる様な歳じゃないです」
「ふーん、そんなもんかねぇ。二十代なんてまだまだ若いと思うけれど。出世も狙えるし、転職も出来る。全然可能性あるよ」
「出世は別に狙ってないですけどね」
「狙ったほうが良いよ。力と権力はあった方が良い。昔ね、私がまだ営業課所属だった頃、二課に大迫さんって男の人が居たのよ」
「知ってます。っていうか突然なんの話ですか?」
「良いから最後まで聞きなさいよ」
大迫さんは色々と癖が強い人だったけど、割と助けてもらってたし、くだらないセクハラとかしないフラットな人だったから、私は嫌いじゃなかった。
ところで、大迫さんの上司に谷村さんって人が居てさ。今じゃ販売促進部の部長なんだけど、当時は営業二課の係長だったわけ。京都出身の典型的な京都人って感じで、すぐ意地悪したり人を小馬鹿にする人なんだけど、仕事は出来んだよねぇ。
それで、大迫さんと谷村さんは、昔から犬猿の中って言われててね。バチバチに喧嘩してたのよ。当時はよくバトってた。
そんな時さ、郡山に新しく営業所を建てることになって、そこの創設メンバーとして大迫さんが異動のターゲットになったわけ。今じゃ立派に郡山で働いてるんだけど、あんな
色々過去のバッシングとかされて、マジで泣く直前まで追い込んでさ。何時間も何時間も。
それで、とうとう大迫さんが発狂したわけ。それでこう言ったのよ。
「何でこんな理不尽がまかり通るんですか!」
するとね、谷村さんがこう言い返した。
「そりゃお前に力がないからだよ」
その言葉に、大迫さん黙っちゃったの。
「しびれたね。そんな純然たる悪役のセリフを天然で言い放つ奴がこの世に存在するなんて、信じられなかった」
「はぁ」
「だからさ、力はあったほうが良いんだよ。実力、権力、筋力、何でも」
「あ、そう言う話?」
「私はさ、男はそれなりに体が締まってた方が好みなの。それもあるのかもしれない」
「唐突な自己分析」
ふとスマホを見ると、後輩の木戸くんからLINEが届いていた。部長がぼくの事を探しているらしい。ぼくはタバコを灰皿に投げ入れると「そろそろ行きます」と話を切った。
「おー、頑張れよ、童貞少年」
「童貞じゃないし少年じゃないしそれ内緒だって言ってんだろ」
企画課に戻ると、エレベーターの辺りで木戸くんがぼくを出迎えてくれた。
「ヨシカケさん、遅いっすよ」
「ごめんごめん。喫煙所で水卜さんと会っちゃってさ。話し込んじゃった」
「ええっ? 水卜さんってあの超美人の水卜部長ですよね? 何でヨシカケさんと?」
「昔うちの部の課長だったからね。今は広告課だからあんまり絡みないけど」
「えぇ? そうだったんだ。良いなぁ」
「要領良くサボるから部下の時は割と大変だったよ。その穴埋めやらサポートやらやってたら、いつの間にか気に入られてた」
「俺もあんな美人にこき使われてぇっす」
この世界は、ちょっとだけ不安定な歯車がいくつも重なって出来ている世界じゃないかって思うことがある。だから簡単に崩れるし、崩れたら誰か人が死んだり、とんでもない事件が起きたりする。
ぼく達が過ごしている世界は、そんな風にして成り立ってるのかもしれない。
誰もが当たり前に普通だし、誰もが当たり前にちょっとおかしい。
自分が年齢を重ねるにつれ、そんな世界の性質に気づくようになっていた。
仕事を終わる頃にはすっかり夜で、人混みに揉まれながら帰宅していると、最寄り駅についた辺りで電話が鳴った。画面を見ると、姉の旦那の恭介さんからだった。
「やぁ
「あ、良いです良いです。大体用件は分かってるんで」
「……うちの、そっちに居るの?」
「はい」
「全部聞いてたり?」
「スタンプカードが一杯になってたくらいまでは」
「うわぁ、マジかぁ……どうしよ」
「あの、多分迎えに来てくれるの待ってるんで、早く連れ帰ってもらって良いですか」
「そうなの?」
「もし本当に出ていくなら、弟の家に来ないで実家帰るでしょ」
ぼくの家は姉の家から微妙に近い。実家に帰ろうとしたら交通費も時間も掛かるから、姉はぼくの家にしたんだと思う。
「じゃあ今から迎えに行くよ。車すっ飛ばして」
「何かお菓子とか買って来といて下さい」
「あぁ、好きなスイーツの店、まだやってたかな」
電話を切るとそっと鼻腔を温かい匂いが刺激した。どこかの家から煮物の匂いが漏れているらしい。
それは何となく、幸せの匂いをぼくに連想させた。
明日に特に期待はしていない。
眠る時、明日が来るのが楽しみだなんて思うこともなくなった。
それでも、ぼくはこの世界がそれなりに嫌いになれないでいる。
今日は軽く、ビールでも飲もうかな。
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