3 ちょっとやる気が出ないだけ

 屋上から考えもなく走り続けていると、いつの間にか昇降口の前に来ていた。

 扉には鮮やかな色の花火を描いた大きな広告が張り付いていた。

 ここら辺で一番大きい花火大会だ。

 日付は三日後、誰かを誘うならまだ間に合う。

 先輩のことを無意識に思い浮かべていた。


 今やらなければもう終わりだ。

 先輩はまた三年で、これで卒業してしまえば遠くの大学に行ってしまうかも知れない。そこで素晴らしい出会いを持って、僕と二度とつながることがなくなってしまうかも

 知れない。

 そうなってしまえば、もう何年も前から抱えているこの願い事が、永遠に叶わなくなってしまう。

 嫌だ。


 衝動的にポケットから携帯を取り出し、メールの作成画面を表示する。

 汗ばみ、震える指先に力を込めてゆっくりゆっくり文を紡ぐ。


『先輩、ご無沙汰してます。

 この前もらったメール、返信しなくてごめんなさい。

 失礼なのは承知していますが、今度、花火大会に一緒に行きませんか。

 もし行けなくても、別の機会に先輩とちゃんと話がしたいです。

 返事、お待ちしています。』


 自分がこのたった数行にかけた熱量は過去に比べもののないくらい凄かった。

 長い年月かけて積み重ねられたこの気持ちが、全てこの中に込められた気がした。


 ───。


 呼吸を整え、送信ボタンを押そうとして気がつく。

 先輩は受験生だ。

 この時期、花火大会を見に行けるほど、暇なはずはないだろう。

 しかも重い。

 この感情ってのはこんなにも重さがあって、それはきっと相手にとっても相当重く感じると思う。

 先輩に迷惑をかけてまで、僕はこのメールを送るべきなのか?

 僕は先輩にとって、それだけの価値のある人間なのか?


 送信を止め、破棄ボタンを押す。

 その瞬間、全身から力が抜けて、広告に背を向け壁に寄りかかった。

 ああ、ダメだった。

 また僕はできなかった。

 夕陽が沈み黄昏時が始まる。辺りに人影はなく、しんと沈まり返っている。

 黄金色の残光が窓から垂れている。


「夏樹くん?」


 ふと、懐かしい声で、後ろから声を掛けられて、僕の心臓は止まるかと思った。


「夏樹くんだよね?」


 振り返るとそこには、前に見たときよりずっと大人びたアキ先輩の姿があった。


「先輩・・・・・・」


 驚き過ぎて頭が完全に真っ白になった。

 胸がぎゅうっと絞られた。


 伸びて肩にさらさらとかかっている黒い髪。澄んだ瞳。透明な声。

 先輩はもっときれいになった。


「久しぶりだね。どうしたの、こんなところで」


 先輩が、微笑みながら話しかけてくれる。

 ちょっとの喜びと悲しみが、よけいに胸を苦しくしてくる。

 言葉を吐くのが辛かった。


「先輩こそ、・・・・・・受験勉強は?」


 メールのこととか、聞きたいことはたくさんあったはずなのに、何も出てこない。


「うーん、たまには息抜きもいいでしょ?」


 先輩はひらひらと歩み寄ってきて、歩くたびに髪がふわふわと揺れた。


 これが、本当に本当に、最大で最後のチャンスだ。

 ここで言わなくちゃ。

 絶対に言わなくちゃいけない。


「あの、先輩」


「何?」


 目の前にいる、たった一人に、僕は気圧されていた。


「その、夏祭り・・・・・・」


 声は小さく尻すぼみになって、最後まで言えない。


「・・・・・・ごめん、よく聞こえなくて」


 少し顔を傾けて、耳を向けてくれた。


「夏祭りなんですけど・・・・・・」


「夏祭り?ああ、もうすぐだよね。サッカー部の子も行くの?」


 先輩が笑顔で言う。

 この笑顔は作り笑顔だと、心の底で誰かが呟く。


「あ、いえ、夏祭りに・・・・・・」


 僕は慌てて否定しようとした。

 だけど、それは声になってくれない。


「私も行くんだ、その夏祭り」


 先輩がそう言った瞬間、「おーい、アキ」という低い声が聞こえた。アキ先輩は振り向いて、その先にいた背の高い男子に言う。


「ちょっと待ってて!」


 そして僕の方を見て、困ったように微笑んだ。


「私の彼氏なんだ」


 照れの混じった、けれどもどこか演技染みた、乾いた声だった。


「じゃあ、また今度ゆっくり話そうね!」


 アキ先輩は小さく手を振り、三年生の下駄箱へ吸い込まれて行く。

 仲の良さそうな二人の会話が聞こえて、それは校舎から消えていった。

 取り残された捨て犬は、夕陽の消えた薄暗闇の中に、ただ立ち尽くしている。

 

「夏祭りに・・・・・・」


 よくわからない気持ちが溢れて止まらない。

 心がわずかに壊れて、そこからたくさんの何かが漏れだしてくる。


「夏祭り・・・・・・」


 全身が震えていた。

 下を向いて手で膝を押さえる。

 これで良かったんだと頭の中で繰り返す。

 心の底を押さえつけないと、今にも蓋が割れて中身のすべてがぶちまけられそうだった。


「夏祭り、夏祭り、夏祭り・・・・・・」


 頬をひとすじの色褪いろあせたしずくが垂れていく。

 衝撃、苛立ち、拒絶、絶望、いろんなものに取り囲まれて、それらは現れては消えていく。


「夏祭り・・・・・・」


 すべてはこれで良かったんだ。理性がそう思おうとするたびに、ゆっくり何かが崩れていった。


 こうして僕は失恋した。

 それだけだ。

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ちょっとやる気が出ないだけ 桜庭 くじら @sakurabahauru01

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