第109話 ひよりと妙な気持ち

 平日の17時40分。

 ひよりが寮に帰宅して30分後のこと。


「はいひより。これあげる」

「えっ!?」

 お風呂上がり、白い首にタオルを巻いて勉強道具を持ってリビングに降りてきたひよりに——ポン。

 プラスチック製のスプーンと共に冷気漂うものを机に置く蒼太であり、そのブツを見た瞬間、ひよりは石化したように固まった。そして目を宝石のように輝かせたのだ。


「わぁあっ! ハ、ハーゲンダックだ……ストロベリー味だぁ……」

『なぜ!?』との疑問が出る前にアイスに顔を近づけて反応を示すひよりである。


「あの! こんなに贅沢なものをいいんですか!?」

「もちろん。ひよりのために買ってきたから」

「でも……ひよりなにもいいことしてないですよ?」

「いいことって言うか、学校が終わっても寮で受験勉強頑張ってるでしょ? だからそのご褒美ってことで。あ、一応みんなには内緒ってことでお願いね。管理人は入居者を贔屓するようなことはしちゃ駄目だからさ」


 受験生というだけあり当たり前のことだが、最近のひよりは勉強を念頭に置いてピリピリとした空気を持っていた。

 夕食を食べるのは入居者の皆が帰ってきてから。勉強が終わったあとのご褒美。と、ひよりらしくない行動を取りその隙間時間を勉強に当てているほど。

 そんなひよりに何か喜んでくれることををしたかった蒼太であり、蒼太が高級アイスというご褒美を渡せたのはこの寮にひよりしか帰ってきていないから。


 同じ受験生の美麗は学校で友達の相談に乗っているらしく、琴葉と小雪は外の仕事に。帰国後の咲は同級生と遊びにいっている。

 贔屓現場を誰にも見られない状況だからこそできることなのだ。


「あ、ありがとうございますっ! ではいただきますっ!」

「うん、どうぞ」

 そうしてアイスをすぐに開けたひよりの正面に座る蒼太は自然にこの話をする。

 受験生に対してあるあるのことである。


「それで……どう? ひよりは志望校決まった?」

「うーん。今のところは二つあって、保育士さんにも惹かれてて一般の大学にも通いたくて……今迷ってます」

「あー、その気持ちわかるよ。俺も高校生の時は本当に進路に悩んだからね」

「クラスメイトのみんなもそんな感じです。だから進路をいっぱい広げるためにも今は勉強をしないとです……。みんなの勉強時間もどんどん伸びてきてますから」

 パクパクとアイスを食べながら口を開いているひより。真剣な雰囲気を纏っているが、美味しそうに食べているせいでなんともおかしな現象が生まれている。


「ひよりの心持ちを見たら安心できるんだけど、美麗はちゃんと受験勉強してるのかなぁ……。寮で勉強してる姿を全然見てなくってさ」

「あっ、美麗ちゃんは学校の休み時間とかお昼休みに勉強することが多いんです。それに今すごいんですよ!!」

「凄い?」

「この前のテストで美麗ちゃんはクラス内で10番でしたもん!! しかも一番平均点が高いクラスで、です!」

「えっ!? 美麗ってそんなに頭良かったの……? 体調も崩して学校休む日も多いから成績は低いって聞いてたんだけど」


 体調を崩す理由は過去トラウマを引きずっていたから。高校では中学と違い、休んだ相手のために復習をすることはない。

 次の授業までに友達から前回のノートを見せてもらう。休んだのなら休んだ授業は復習をしておく。その前提で先に進むのだが……それでは授業を受けた生徒との理解度は違う。休めば休むだけ不利になる。


「それは美麗ちゃんが体調を崩すことがなくなったおかげかもです」

「あっ、確かに梅雨時期から一回も風邪引いたことないなぁ……」


 しかし、最近の美麗は異性に対して過剰さは落ち着いてきた。異性に対しての苦手意識が薄れたからと言っていいだろう。その結果が今に繋がっているのだから。


「あとは蒼太さんを心配をかけさせないように……って、頑張っている成果かもです。『あたしは立派になってるしっ』って」

「ははっ……それは頼もしいね」

 ひよりは自身が悲しくならないように削っていた文字がある。

『もうすぐ管理人をやめてしまう』とのことを。

 簡単に説明をすればこう。

 やめてしまう蒼太に心配をかけないように美麗は頑張っているんだと……。


「じゃあ美麗に負けないようにひよりはもっと頑張らないとってことね?」

「はいっ! 蒼太さんにアイスをもらったのでもっと頑張りますっ!!」

「よーし、その意気だよ」

「あっ、それで蒼太さんに一つ質問があるんですけどいいですか?」

「ん、なに?」

「あの、蒼太さんは保育士さんと大学を出たOLさん……。どっちが好きですか?」


 プラスチックのスプーンを口に加えて小首を傾げたひより。

『どっちがいいと思いますか?』ではない。『どっちが好きですか?』との問い。

 視線はどこかそわそわと、緊張を隠したような素振りだった。


「な、なにその質問……。もし俺が保育士さんが好きって言ったらそっちに進路を変えるつもりなの?」

「か、かもしれないです」

「えっとなんで?」

「な、なんでって言われても……そ、その……」


 迷っているからこそ好きな人の意見に従いたい。純粋で一途だからこそこんなことを思ってしまうひよりなのだ。

 これを嬉しく思う男はたくさんいるだろう……。しかし、蒼太からすればその動き方は好ましくはない。


「まぁ、どんな考えがあるのかは知らないけど……そんな聞き方されたら答えることはしない」

「っっ!?」

「意地悪をしてるつもりはなくて、将来ってものは人に左右されて決めると絶対後悔すると思ってるからさ。やっぱり自分で決めた自分のための仕事をしてほしいと思ってるよ、俺は」

「蒼太さん……」

「この選択はひよりの人生が変わることなんだから、人に丸投げしようとするようなことはしない。まだまだ悩んで熟考して自分の道を見つけてほしい。時には素直に聞くことも大事だけど、こんなことには頑さを見せてもいいんじゃない?」


 蒼太がこんな言葉を出すのはひよりと似た過去を歩んでいたから。

 蒼太だって悩みに悩んで専門学校という進路を選んだのだ。

 その結果、散々な会社に当たってしまったが結果論と言うもの。その道を学んだことは満足していたもので、この道を選んだことに後悔などしていなかった。


 もし、人から勧められた道だったのなら再就職をしようとは思わなかっただろう。


「俺はひよりがどんな道に立っても応援するからさ、辛い悩みだと思うけどもうちょっと頑張ってみよう? 管理人をやめた後でもちゃんと相談には乗るから」

「い、いいんですか……?」

「もちろん。前にも言ったと思うけど力になれることならなんでもするから」

「……は、はいっ、ありがとうございます……っ」

 蒼太の言葉は担任の先生が言うよりも柔らかい言葉。それでいて芯を捉えた言葉。

 こうしたところが年上らしいところであり、頼り甲斐を感じるところ。

 ひよりが蒼太のことを——になった要因。


「さてと、それじゃ俺は管理人室で残りの仕事をしてくるよ。ひよりも勉強頑張ってね」

「頑張りますっ! むっ」

 話も一区切り。テーブルに手をついて立ち上がった蒼太にひよりはすぐ動く。

 手をグーにして前に突き出したのだ。


「はいっ!」

 と、パンチをしたポーズをしたひよりは満面な笑みで微笑む。

「はいはい」

 その伸びきった握りこぶしに握りこぶしを合わせた蒼太は、ぽんぽんとひよりに頭を撫でてリビングから去っていく。


 ガチャ。そのドアを閉めた蒼太は歩みを止めて天井を見上げる。


「はぁ……。どうしよう。咲さんの言葉が頭から離れない……」

 平然を偽っていた蒼太だが心臓は大きく動いていた。


 昨日の夜中に咲と話したこと。

『そうたさんは逃げないで。好意にちゃんと向き合ってほしい』

 入居者と話せば話すだけ言葉の鎖は強まっていく。


「咲さんの言う人物ってひよりのこと……?」

『蒼太さんは保育士さんと大学を出たOLさん……。どっちが好きですか?』

 ひよりのこの質問でそう感じてしまった。


「なんだだろうこの気持ち……」

 言葉にできない思いが募っていく。

 蒼太自身、まだわかっていないのだ。

 咲のあの発言がキッカケとなり、入居者を無意識に異性として捉えてしまっていることに……。


「ふぅ……。落ち着け……。これから伝票整理するんだから」

 これからする仕事内容は絶対にミスができないこと。

 言葉に出し、耳で聞くことでなんとか冷静を戻す。


 ……が、それは蒼太は勘違いしているからできることでもある……。

 好意を寄せている人物が入居者の中に一人、、いるんだと。


『……誰とは言わないけど咲はお世話になってるからこんなこと言う。咲はその味方する』

 咲は実際にこう言った。

 だが、これを噛み砕いていくと好意を寄せているのは誰なのか、その明確な人数には触れていないのである……。



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