第97話 琴葉のエンジン

「琴葉、今日の仕事終わりにちょっと付き合ってくれる? ちょっと気になるお店があってね」

「えっ? 今日ですか……?」

 終業まで残り1時間を切った矢先のこと。先輩受付嬢である小川から突然の誘いを受けていた。

 何も聞かされていなかったために曇りのない赤色の瞳をパチパチとさせる琴葉である。


「いきなりでごめんね。でも、今の琴葉は正直見てらんないのよ。いつも通りに仕事をこなしてるけど何かあったんでしょ? わたしの目は誤魔化せないよ」

「っ」

「その切り替えの精神は凄い。わたしも見習うべきところだけど相談もなしってのは水臭いじゃん。ちょっとくらいは三十路になりかけの先輩を頼ってくれてもいいんじゃない?」

「そ、そうですか。バレちゃいましたか……」


 頑固になればなるだけ先輩からの善意を無駄にすることになる。いつもお世話になっていることもあり失礼なことはできなかった。いや、気遣いの気持ちが嬉しかったからこそ甘えを前に出したのだ。


「確信を持ったのは琴葉が仕事のスイッチを切ってた休憩中だけどね。ホント上手く隠してたもんだよ」

「まさかそこを突かれるとは……失態です。ですがありがとうございます。では仕事終わりに相談をよろしいですか」

「もちろん。どうせならパーっとお酒飲んじゃおっか」

「ふふ、お互いに車なんですからダメですよ。ノンアルでお願いします」

 

 まだ仕事中のこと。

 雰囲気を明るくするためにグレーなジョークを放った小川に軽く返す琴葉。

 よい先輩を持つことができたと再確認するには十分な出来事であった。



 ****



 小川が琴葉を連れた店はこじんまりとした居酒屋だった。

 それでもメニューはリーズナブルであり豊富であり、客の出入りは多く活気に溢れて繁盛していた。


 この二人は終業後に食事に行くことも多く、注文に気遣うことはない。お互いに好きなものを頼みながら話に華を咲かせるのが二人なりのスタンダードである。

 まずは軽いものを摘み、ノンアルを流し込みながら世間話を続け……本題に移ったのはメイン料理が運ばれてきた時——。


「……それでさ、琴葉の悩んでることをある程度考えてみたんだけどアレしか考えられなかったんだよねぇ」

「あれ、ですか?」

「そう。前に写真を見せてくれた家事スキルOK掃除スキルもOKの優良物件イケ男くんについて」

 言い方にふざけはあるが、それが小川からが知る蒼太、、であり印象でもあるのだ。


「ふふ、やっぱり鋭いですね小川さんは。その通りです」

「琴葉は仕事が順調だし、社内で浮いた話もないし、プライベートしか悩みのタネはないだろうからね」

「小川さんを含めみなさんに優しくサポートしていただいてますから。本当にありがたいことです」

「それは琴葉の頑張りがあるからだって。頑張ってない人には誰も手を貸そうとは思わないんだから」


 豪快にビールを飲みながら先輩らしい面を見せる小川に琴葉はどこか憧れの目を向けていた。

『いつかは私もこんなことが言えるようになりたい。もっと頼られるようになりたい』

 低身長で童顔な容姿を持つ琴葉は、年相応に見られることが少ない。頼られるどころかお世話をされるポジションに立たされることが多く、そんなことがあるからこそ頼られるお姉さんとして見られたいのだ。


「えっと……それで話を戻すんだけど、別に振られたわけじゃないんでしょ? もしこれで頷かれたらテーブルひっくり返すけど」

「ふふ、振られてもないですし告白もしてないですよ。ただ、告白をするとなれば心の準備と組み立てる時間がないといいますか……」

「それってつまり?」

「私が気になってる男性が寮の管理人さんというのは前にお伝えしたと思うんですけど、その方の任期期間が残り2ヶ月もないらしくて、その後は仕事の関係で会うこともできなくなるらしくて……ですね。この件を前日に聞いたんです」


 琴葉の中には悔いがあった。こんなことならスローペースで行くべきではなかったと……。


「はぁー。それはタイミング的にもやられたねぇ。琴葉ってば虎視眈々と狙ってた時期でもあるわけでしょ?」

「そうです……ね。今まで出会った男性の中でもピカイチの方ですし、お母様とも仲良くさせていただいてましたので将来の不安も少ないですから……」

「将来ってしゅうとめ問題ってことでしょ? そこまで考えてるってもうベタ惚れじゃん」

「そっ、そんなことはないですよ。ベタ惚れだなんて……」


 ベタ惚れ、そんな響きはやはり恥ずかしいもの。

 小さな両手を軽く振って遠慮がちに否定する琴葉であるも、顔は図星を突かれたように赤い。ノンアルコールを飲んでいるために酔っているとの言葉を選ぶこともできない。


「惚れていない人間は男一人の転職でそこまでショックは受けないって。業務は何事もなかったようにできてたけど、休憩中の琴葉は悲壮感凄かったよ?」

「それは本当に申し訳ないです。完全に油断してまして」

 人間、気持ちの切り替えなんて完璧にはできない。我慢をすればするだけ後に反動が襲ってくる。

 それでも琴葉の強いところは休憩中まで耐えきることができたところだろう。


「うーん。でもさ、琴葉がそれくらい、、、、、のことでそんなに思い詰めるかねぇって思うわけよ」

 気に障る発言ではあるも、これは琴葉という女性を評価しているからであり、琴葉なら……と、あまり問題視をしていないから。


「琴葉はその男と一緒に飲みに行った仲でもあるんだし、後は何回飲み慣れさせて最後にお酒の力を借りたら落とせるでしょ? 酔いつぶれた琴葉をしっかり寮まで届けるほどの堅物相手には体を重ねて責任取らせればちゃんとしてくれるんだから」

「確かにそれだけなら2ヶ月の期間でいけるところまではいけると思います。私自身、その男性とシたくないわけではありませんし……」

「でしょ? その他にも問題があるって言うの?」

「はい……。その管理人さんを狙っている入居者は私だけじゃありませんから」

「えええっ!? それ本気で言ってる!? って、ありえないことじゃないか。まだ若くてあの容姿があってのあの家事スキルだし」


 先輩である小川が認めているのだ。蒼太のことを『優良物件である』と。

 一度は驚きを見せるもすぐに頷くのだ。


「ふふ、強敵さんばかりで本当に参っちゃいますよ。いつも元気いっぱいで明くて可愛い女の子に、高級車に乗られてる気立てのいい美人なお姉さんに。とりあえず確定しているのはこの二人です。もう一人増えそうではありますけどね……」

「二人も……!? 前に集合写真見せてもらったことあるけど寮のみんなってモデルさんくらいにレベル高くなかった?」

「そうですね。そんな相手を巧みに落としていくんですから困ったものですよ。……わたしも落とされてしまった一人かもしれませんけどね」

「ん」


 この言葉を聞いた瞬間である。小川はムっと表情を変えた。今の今までの話から態度を見聞きして思うところがあったのだ。


「なーんか琴葉らしくないなぁ。保険を掛けに掛けてるっていうか、戦わずして上手い方向に逃げようとしてるっていうか」

「っ、逃げ……」

「心無いこと言うかもだけど、女子高生が相手だからとか美人なお姉さんが相手だからとか、もう弱気になってるじゃん。わたしからすればそんなことは気にすることじゃないし、どうでもいいわけ」


 これは嫌味ではない。アドバイスが少しでもできたら、力になれたら……と、真剣な言葉をかけている小川なのだ。


「大事なのはライバルを気にすることじゃなくていかに琴葉って素敵な人間を見せるかでしょ。そんなに弱気だと琴葉の魅力は伝わらないし、引き寄せの法則を働かせちゃうよ?」

「ひ、引き寄せの法則……ですか?」

「良いようにも悪いようにも、口に出したことや思ってることを引き寄せる法則。簡単に言えば実力で勝てるような相手にでも『負けるかも』って思えば本当に負けを引き寄せてしまうって感じ」

「……」


 科学的には証明することのできない、超能力のような信じられない馬鹿馬鹿しい話かもしれないが、これは実際に言われていること。

 成功者の中にはプラス思考を持つ人間がほとんど。それは運や実力以外にこの引き寄せの法則が働いているからだとも言う。


「わたしはコレで受験にも勝ったし今の旦那を掴んだけどね。まあ実力とか努力とか、そんなことを言われたらそれまでの話ではあるんだけど、琴葉と同じように旦那を狙うライバルがいたよわたしにも」

「っ!? そ、そうなんですか!?」

 この情報は琴葉が初めて聞くこと。そして同じ心境や状況を体験していたことも……。


「正直、年収を含めスペックはあっちの方がよかったよ。それでも『絶対に落とす』『絶対に負けない』ってずっと思ってたらいつの間にか旦那から告白されてたんだよね」

「わあ……」

「もちろんこれは絶対とは言えないよ。言えないけど全力を出して戦えば絶対に後悔はしない。後悔ってもんは一生付きまとう厄介なやつだから作った時点で負けなの」

「……」


 人生の先輩でもある小川からの言葉は強く心に響いていく。

 凛とした鋭い瞳に動かされていく……。


「琴葉に大事なのはもっと自信を持つことだって。そんな立派な容姿を持ってるのに戦わないでどうすんのよ。今まで出会ってきた中でピカイチの男を取られてもいいの?」

「そ、それは嫌ですよ……っ。嫌に決まってますよ……っ」

「それが嫌なら保険をかけたり弱気になってる場合じゃないでしょ。タイムリミットは決められてるんだからやれることやって幸せ掴もうとしなくちゃさ。周りのみんなは全力で奪いにくるんだから遠慮してる暇もないの。わかったかおら!」

 それが、琴葉のエンジンを再稼働させた。炎を燃え上がらせた。


「はい」

 たった二文字の返事。それでも琴葉の雰囲気は変わった。目の色も同様に……。

『絶対に引かない』『絶対に負けない』その魂がこもっているのだ。


「よーし。それじゃあ早く帰って例の男の料理を食べてきなさいな。ここで時間食ってる場合じゃないんだから」

「えっ、で、でも……」

 小川は手を払うように琴葉を追い出そうとする。

 が、テーブルの上には二人分の注文がすでに届いている。一人では食べられない量だとわかっている分、戸惑いを見せているのだ。


「心配する意味なし。ってか邪魔だから早く帰る。これからわたしは旦那を呼んで居酒屋デートするんだから」

「……ふふ、本当にありがとうございます……小川さん」

「気にしない気にしない。むしろ旦那とデートできる機会作ってくれてありがとね、琴葉」

「いえ、とんでもないです」


 優しいに溢れたやり取り。

 財布を取り出し、こっそりとお金を置いていこうとした琴葉だったが……『なにしてんのよ』と、小川に軽く殴られてしまう。

『ライバルに勝つ』そんな強い気持ちを抱いたままこの居酒屋を追い出されてしまう琴葉だった。

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