第8話 琴葉の帰宅

 ドタドタドタドタ。

 そんな階段を駆け下りる音が聞こえてきたのはひよりが二階の自室に向かって15分が過ぎた頃。

 騒がしい足音が蒼太のいるキッチンにまで響いてくる。


「はぁ……階段は歩かないとだめだって。転けたら怪我するじゃん……」

 パスタ麺を茹でるために加熱していた鍋を止め、半ば呆れて口を開いた矢先である。


「蒼太さーん! 蒼太さん一つ言っておかなければいけないことがありますーっ!」

 と、イノシシのようにリビングに突撃してきたひより。そんなひよりは宣言通りルームウェアに着替えていた。

 もこもこのパーカーに太ももから下を出したショートパンツ。上下はセットなのだろう、ピンクと白の横ラインが交互に入っている。動きやすそうな生地であり格好だ。


「……その前にまずは階段は歩くようにする。いいね?」

「で、でもその前に……!」

「その前にとかじゃないの。まずは俺の注意、、が先」


 着替えた拍子に靴下も脱いでいたのだろう。素足のひよりはほこりが取れるもじゃもじゃスリッパを履いていた。

 足元が滑りやすい状態で階段を駆け下りてきたわけである。


 至急の要件があるらしいひよりだが、こればかりは管理人として見逃すことは出来ない。最優先事項である。


「ひよりは知らなくて当然だろうけど寮内で誰かが怪我をした場合の責任は管理人である俺に発生するからさ」

「……」

 蒼太の真剣な声色をひよりは聞く。たったそれだけでもひよりの勢いは消失していた。


「ひよりのご家族はこの寮を信頼して預けてくれているはずだし、俺だって母さんに任されてここに務めてる。だからお互いのためにもこの注意はしっかり聞き入れてくれる?」

「は、はい……。ごめんなさい……」


 気持ちが伝わったのだろう。ひよりは反省したように大きく頭を下げてきた。しっかりと蒼太の声に耳を傾けてくれている。

 階段を走っただけで大袈裟……なんて思われても仕方のないことだが、管理人としては寮に住んでいる者に怪我をさせるわけにはいかない。何かが起こってからでは遅いのだ。


「まだ出会ってばっかりと言っても心配するんだから頼むよひより」

「し、心配……ですか?」

「え、なにその意外そうな顔。まさか俺がひよりのことを嫌いだと思って注意したとでも思った? それなら全力で否定させてもらうよ?」


 好き嫌いで当たりを強くしたりするほど蒼太は子どもではない。

 正直に言えばひよりのことは好意的に見ている。そもそも嫌いになる要素は見つけられない。


「……」

 変な発言をしたのだろうか、ぽーっと蒼太の顔に焦点を合わせてくるひより。


「言いたいことがあるなら言ってくれて良いけど……」

「え、えっと……あの、その……な、なんだか嬉しくなりまして……ですね。えへへ」

「嬉しいって当たり前のことだと思うんだけど……って、その笑いさては反省してないでしょ」

「し、してますっ! 本当にしてるんです!」

「なら良いんだけど……」


 ひよりが微笑んだ理由を蒼太は知らない。

「……やっぱり理恵さんの息子さんなんだなぁ。同じこと言った……」

 その小声は、発した本人の耳にしか届いていなかった。


「じゃあそんなわけで次に俺を心配させることがあればパスタ麺は3束じゃなくて1束にするからね。それが嫌だったら階段は走らない。これは約束」

「は、はいっ! 次は走りません!」

「よーし」

「れ、冷静に考えると恥ずかしいですね……。小学生が受けるような注意されちゃいました……」

「ひよりが落ち着いてないからそうなるんだって。それが全部悪いってことはないけど、時には悪いことになるんだから」


 ひよりの落ち着きのなさは元気が有り余ってるとも取れる。

 こんなに明るい人間が近くにいれば嫌なことだって忘れることが出来るだろう。

 良いところは良いところでこちらが認めるのがひよりのためにもなる。


「あー、あとこれを言うのは本当に遅くなるんだけど……その部屋着似合ってるよ。可愛いと思う」

 注意した分の機嫌取り……とも言えるが、これはひよりと対面してすぐ、『カッコいい』とのセリフを言われたお返しである。

 恥ずかしさを隠しに隠し、蒼太は真顔で言う。


「っっ!! あ、ありがとう……ございますです……」

「えっと、そんなあからさまに照れられるとこっちまで恥ずかしくなるんだけど。ひよりなら軽く返してよ」

「し、ししし仕方がないじゃないですかっ! か、可愛いだなんて(異性に)言われたことないんですから……!」


 未だにひよりのことを勘違いしている蒼太。

 ひよりは男性経験が豊富なわけではない。人生で一度も異性と付き合ったこともない。女子校に通っていることで異性との関わりも少ない。

 こんなやり取りでさえ心臓バクバクなのである。


「え? 言われたことないってのはあり得ない、、、、、でしょ……。そんなに似合ってるのに」

「は、はいぃ……すみません。なんなんだよぅ……もぅ」

「え? 今なんか言った?」

「い、言ってないですっ! ナニモデス」

「片言なには気になるけど……まぁいいか」


 追求したい気持ちはあるが、それよりも大事なことがある。


「それで話を戻すけど、ひよりが話したかったことってなに? 急いで階段を下りてきたってことは相応の内容だと思うんだけど」

「あっ、そうですそうです! もうそろそろで琴葉さんが帰ってくる時間で——」

 と、ひよりが言い終わる寸前だった。

 このタイミングを狙っていたかのように『ガチャ』と玄関扉が開く音がリビングにまで聞こえ、

「ただいま帰りました〜」

 とのソプラノ声の挨拶がリビングにまで届いた。


「あっ! お出迎えしないと……」

「あっ! 蒼太さん待っ——」

 管理人の仕事にはお出迎えも含まれている。ひよりは手を差し伸べ引き留ようとするが無駄に終わる。


「——琴葉さんには禁句のワードがいっぱいで……」

 慌て慌てで玄関に向かって行った蒼太。その忠告は空虚になる……。


 成人済みの琴葉だが身長は150cmもなく、童顔。

 中学生だと見られてもおかしくない容姿……。その点にコンプレックスを抱いており、子ども判定をされたなら顔には暗黒の影が差す。


 初手で地雷を踏むか、踏まないか……それは蒼太の直感次第だった。

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