第253話◇棄児
これは、アークトゥルスが《騎士王》になる前の話。
■歴■■二五年。
まだ、世界に辛うじて昼夜の概念が残っていた頃。
『おとうさん、おとうさん』
少女の名は■■■といった。
■■■は、父の腕を引きながら何度も呼びかけるが、父は止まらない。
小さな娘が、父親の腕にすがりつくようにして歩いている。
周囲では、自分達と同じく大荷物の人々が、同じ方向に向かって進んでいた。
■■■の住んでいた地域はとても都会とは言えなかったが、仮に都市部であっても『くるま』は使えなかっただろう。
当時既に、使えるもののほとんどは『ぐんたい』の人間達に接収されていた。『くるま』もその一つだ。
前線で魔人と戦う彼らは、日々甚大な被害を被りながらも魔人を食い止めてくれている。だから不満を言ってはいけないよ、と母が言っていた。
よく分からなかったが、みんなでお引越ししなければいけなくなったのは覚えている。
『おとうさん、きいて。おとうさん、ねぇ』
しつこく腕を引く娘に、父は鬱陶しげに応える。
『なんだ!』
そんな父を怖く思うも、■■■は言いたかったことを言う。
『おとうさん、向こうからね、夜が来てるよ』
近くにいた人々が飛び跳ねるように身体を震わせて、後ろを確認する。
太陽が綺麗で、青空が綺麗で、白い雲が綺麗で。
そんな空の向こうから、全てを塗り潰す黒がじわじわと迫ってきている。
悲鳴が上がった。びっくりする。涙を流しながら膝をつく人がいる。不安になってくる。荷物を捨てて走り出す人がいた。怖い。
『行くぞ』
父が■■■の腕を取って、歩くスピードを上げた。
『いたいよ、おとうさん』
『いいから、ついてきなさい』
夜から逃げるみたいに、みんなが走る。
でも、すぐに追いつかれてしまった。追い越されてしまった。
追いかけっこで、お空に勝つのは無理だと分かった。
真っ暗になると、さすがに■■■も恐ろしくなってくる。
普通に夜になるのとは違うことは、さすがに童女にも分かった。
『おかあさんは?』
父の表情は視えなかったが、娘の手を握る力が強くなる。
『……向こうについたら逢える』
『むこう?』
『新しいおうちだ』
『なんで新しいとこ行かないとダメなの?』
『悪い魔人が近づいてきているからだよ』
魔人は悪い人で、人のおうちを壊したり、人を傷つけたりするのだと習った。
自分達のおうちも壊されてしまうから、新しいおうちが必要なのか。
『なんでおかあさんは一緒に行かないの?』
『……先に行って、新しいおうちの準備をしてくれているんだよ』
『じゃあ、新しいおうちであえる?』
『……あぁ』
誰かがライトを持っていたおかげで、集団は再び進み出すことが出来た。
それから、何日経っただろう。なにせ世界が夜で固定されてしまったのだ、幼い子供に正確な時間を計るのは難しい。一応、何度か父が答えてくれた気がするが、正確なところは思い出せない。
暗くて、怖くて、疲れるし、お腹が空く。
辛くて辛くて仕方が無かった。
ある日の、寝る時間。
『……食料が少なくなってきた。老人や子供に合わせたペースじゃあ目的地に辿り着けない』
大人たちが集まって、こしょこしょ話をしていることに■■■は気づいた。
その時はまだ、それがどういう会話か分かっていなかったが、内容を耳にした。
『じゃあどうする』
『…………』
『まさか、置いてくっていうのか!? こんな暗闇の中に!』
『そもそもこの方向で合ってるのか!? 城塞都市なんて噂だろ!』
『確かだ! 見た奴がいる!』
『たどり着いても入れてくれるとは限らないだろ!』
『じゃあお前は此処に残ればいい!』
大人の喧嘩しているような声が怖くなり、■■■は必死に耳を塞いだ。
そして時間が経ち、寝ていたみんなが起きた後。
『なぁ、■■■』
お引越しを始めてから、父のそんな優しい声は初めて聞いた。
『みんなと相談したんだが、足の早い大人で先に新しいおうちに行くことにしたんだ。あとで必ず迎えに来るから、待っていてくれるか?』
『やだ……!』
■■■は必死に父に縋り付いたが、父の考えは変わらないようだった。
『このままだと食べ物が足りなくなっちゃうんだ。それは困るだろう? 先に行って、おとうさん達がとってくるから。絶対だよ。――約束だ』
■■■はなんとか父についていこうとしたが、結局他の子供達や老人らと共に待つことになった。
結論から言えば、どれだけ経っても父は迎えに来なかった。
目的地に辿りつけず死んだのか、辿り着いた後で迎えに来られなかったのか、あるいは見捨てたのか。
何人かの子供たちは、大人を追いかけると言って消えて行った。それを探しに行った老人の何人かも戻って来なかった。
残された者たちは限りある食料と水を分け合いながら、緩やかに餓死に近づいていった。
最後の方には奪い合いが起こり、ほとんどが殺され、残りの食料を奪った一人はその場を去った。
さすがに子供を殺すのは気が咎めたのか、■■■だけは命を奪われることはなかった。
老人たちの死体の側にはいられなかった。
怖くて、何がなんだか分からなくて、待っていなければという気持ちを上回る恐怖にその場を離れた。
どこまで行っても真っ暗闇。
眼の前に何があるかさえ分からない深い夜。
いつしか歩くことさえ出来なくなり、冷たい土の地面に童女は倒れた。
空腹や喉の渇きさえも、いつの間にか遠くなっていた。
眠くはないのに、眠りに落ちていくような不思議な感覚。
ぴちょん、と。
雨の日か、そうでもなければ浴室にいるときに聞こえそうな音がした。
水が、何かに伝って落ちる音。
ぴちょん、ぴちょん。
ぺた、ぺた。
かつて、よく母に怒られたなぁ、と■■■は思い出していた。
風呂上がりに身体も拭かずリビングに出た自分は、そういえば今みたいな音を鳴らしていた。
『こんなところで寝ていると、風邪を引きますよお嬢さん』
霞む目で、それを見る。
とても美しい金髪の女性が、こちらを見下ろしている。
その全身は濡れていて、お姉さんの方が風邪を引いちゃうよ、と■■■は思った。
『おねえさん、てんし?』
よく見えないのに、とても綺麗だとハッキリ分かった。こんなところに人がいるなんて変だ、とぼんやり思う。連想されたのは、天使。自分をどこかに連れて行く為に現れたのかもしれないと考えたのだ。
それもまた、母との記憶。
母が呼んでくれた絵本に出てきた存在。
『いいえ、どちらかというと妖精でしょうか』
『ようせいさん?』
『えぇ、そうですよ、人間のお嬢さん。あなたはこんなところで何をしているのですか?』
童女は掠れた声でなんとか経緯を語った。とても上手に説明出来たとは言えなかったが、妖精の女性は話を最後まで聞いてくれた。
『なるほど、お父上を待っているのですね』
『絶対、くるって言ってた。約束したもん。でも■■■、ちょっと動いちゃったから、場所わかんなくなったかもしれない』
『それは、大変ですね』
『ようせいさんは、何してた、の』
『とても悲しいことがあって、一人で泣いていたんです』
『悲しいのは、いやだね』
『えぇ、いやになってしまいますね』
『■■■もね……』
妖精の女性に続くような形で、自分の悲しかったエピソードも語ろうとしたのだが、うまく行かなかった。
口がもう、上手く動いてくれない。
『お嬢さん? ……あぁ、そうか、人間ですものね。ここまで弱っていては……』
それからしばらく、間が空いたと思う。
一つ覚えているのは、意識が失われる前に問いかけがあったこと。
『まだ、生きていたいですか?』
自分がどう答えたかは覚えていないが、結果からするに、肯定を返したのだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます