第163話◇垂涎
「姉さんは生きています」
目覚めてすぐ、チヨはそう言った。
タワー近くの医院に運ばれていた彼女は、ヤクモが駆けつけた少し後に目を覚ました。
今すぐ助けに行くとばかりにベッドから降りようとする彼女を、アノーソが押し留める。
「チヨ。逸る気持ちは分かるけれど、此処は《カナン》でミヤビは《エリュシオン》よ。あなた一人ではとても助けにはいけないでしょう」
「だからと言って……!」
「諦めろ、とは言っていないわ。あなた一人で騒ぐのが姉の為になると思うのならどうぞ、飛び出して行きなさい」
アノーソはこれまでの柔和なものとは違う、厳格な態度と真剣な表情で冷たく言う。
「ッ」
チヨは唇を噛み、俯いた。頭では分かっているのだろう、アノーソの言う通りにすべきだと。
だがどうしても、心がそれに従属してくれない。
その気持ちがヤクモには痛いほど分かった。
同時に、アノーソが同様の気持ちを抑えて冷静でいようとしていることも。
関係性の問題ではない。アノーソは立場に合わせた対応をしているというだけ。
「でも、もしそうでないことが分かるなら、落ち着いて。そして話を聞かせてほしいの」
「…………は、い」
悔しげに握られる拳。
それでもチヨは為すべきことを為す。
ゆっくりと、その唇は開かれた。
《エリュシオン》の異変には侵入前に気付いたという。
模擬太陽が点灯していたのだ。
セレナからそのような情報は得ていない。
更には《カナン》で《蒼の翼》がするように、壁の縁に監視の魔人が立っていた。
姉妹は隙を突いて監視を始末すると、都市に侵入。
そこに広がっていたのは、
魔獣による監視は無く、柔らかい陽光の降り注ぐ中で暮らす人々。
畑を耕す者、家畜の世話をする者、壊れた家屋を修理する者、パンを焼く者も。
人々はみな一様に笑顔だった。
アノーソが怪訝そうな顔をする。
「取り戻すまでもなく、都市の復興が進んでいるようだったということかしら? 魔人主導で?」
ヤクモはセレナの言葉への信用を強めた。
「……先程魔人から聞いた話ですが、《エリュシオン》を支配する魔人は魔石の蒐集家である可能性が高いそうです。おそらく、魔力税に似た形で人々から魔力を徴収しているのではないかと」
ヤクモが言うと、チヨがこくりと頷いた。
「ヤクモの言う通りです……」
「なる、ほど。ヤクモ、その魔人……セレナといったかしら。彼女はその情報を知っていて伏せたのだと思う?」
「想定していなかったようです。自分の不在を狙って都市を奪う存在が現れたと知ったことで、起こり得る事態について語っていました」
「あなたはそれを信じる、と?」
「正直者とは思いませんが、今のところチヨさんの話と一致します」
「そう、ね。チヨ、続きをお願い」
思案顔で、頷き一つ。アノーソはそれだけ済ますと、視線をチヨに戻した。
チヨも頷き、続けた。
監視の魔人を殺めたことから、侵入はじきに露見する。
ミヤビは魔力反応を隠匿しつつ、街の様子を探った。
そこで気付いたのは、魔力炉性能に欠陥を抱えた者の姿がほとんど確認出来ないこと。
これは異常だ。
ヤマト民族や先天的あるいは後天的に問題を抱えた者は、まだ見受けられる。
つまり、《|偽紅鏡(グリマー)》だけが存在しないのだ。
魔人が模擬太陽を点けるとなれば、当然の対応だった。
武器を奪えば、余程魔力操作が巧みなものでなければ魔人とは戦えない。
捕らえられているのか、殺されてしまったか。
魔人の支配下で日常を取り戻し、武器を取り上げられた都市。
よく見れば、彼らが受かべる笑顔は引きつっていた。濁っていた。作り物だった。
みな、拭いきれぬ不安を抱えている。それでもようやく取り戻した平和だ。せめてそれが取り上げられぬよう、支配者の機嫌を損ねぬよう、清く正しく生きようとしている。
「……見かけ上は平和なのだとしても、その在り方はとても健全とは言えないわね」
心から笑っているのではなく、幸福なのではなく。
笑うしかなく、幸福になれるか再び不幸に叩き落されるのか不安で堪らない。
そんな状態が、最善なわけがなかった。
そして、いびつが本性を現す。
「侵入時に斃した魔人の件が発覚し、犯人探しが始まりました。……民には何も出来ぬと知りながら、魔人は模擬太陽の灯りを消し、侵入位置から近い場所にいる民一人一人を尋問して回りました。みなが潔白を主張するも、魔人の一体は犯人をでっちあげ、その場で処刑しようとしたのです」
「……二人が近くにいると分かっていたんだ」
「誘き出そうとしたのね。人間の侵入者であるなら人々を救ける為に来たのだから、見捨てられない筈だと考えた」
「……はい。姉さんは飛び出し、その場にいた魔人を討伐しました。ですがそれによって魔力が感知されてしまい……奴に、気づかれてしまったのです」
その時のことを思い出したのだろう、チヨは一層苦しげに表情を歪めた。
それから再び口を開くまで、しばらく沈黙が続いた。
「おそらく……
「――――」
隆盛を誇っていた人類と敵対していた時代を生き抜いた者、という意味である。
その強さは計り知れない。
セレナは『長生きすると枯れる』などと言っていたが、具体的な年数は知らないようだった。
「……月光のような毛髪に、血のような瞳。奴は降伏を勧めてきましたが、わたし達は交戦を選びました。そして……負けました」
その言葉は、ヤクモの心に殴られるような衝撃を与えた。
分かっていた筈なのに、改めて突きつけられると心が理解を拒む。
「周囲の人々を守りながら戦ったのではないですか?」
チヨは自嘲するように笑う。
「ありがとう、ヤクモ。えぇ、確かに全力とはいきませんでした。守るべき者がおり、そもそも都市内部です。壁外で魔獣の群れを焼き払うような大魔法は使えない」
取り戻しに来た都市を破壊し、救出しにきた人々を焼き殺すわけにはいかない。
「それでも、勝たなければならなかった。『条件が悪かった』なんて理由で、敗北が許される戦いではありません」
その後チヨは武器化状態で破壊され、人間状態に戻ってしまう。
「わたしは魂の魔力炉接続を行い、半ば暴走に近い形ではありますが、己に搭載された魔法を発動しました」
アノーソが驚いたような顔をする。
現代の《|偽紅鏡(グリマー)》は魂の魔力炉接続が出来ない。機能は残っている筈だが、起動方法が分からないのだ。
アサヒだけでなくチヨまでそれが可能だと知り、驚いているようだった。だが本題から逸れるからだろう、黙っていた。
魂の魔力炉接続を行うと、ひとりでは動けない程に精神に変調をきたす。
アサヒが実行したときは、しばらく彼女の声が言葉になっていなかった。
そのような状態で、自分に搭載された魔法を発動するなど通常は出来ないだろう。
だがチヨは使った。結果魔法は暴走したが、その豪炎がミヤビの逃げる隙きを作り出した。
「奴はわたしの処刑で姉を誘き出そうとしましたが、姉は出てきませんでした。己の死こそが最も避けるべきことなのだと理解してのことです」
「……正しい選択です。《黒点群》の処刑でさえ現れない程の覚悟を決めた人間だと分かれば、無関係な民の処刑を試みるようなこともないでしょう」
ましてや長い時を生き、争いを好まず、民の魔力を魔石に注ぎ込むことを趣味としている魔人だ。
血気盛んな若い魔人ならまだしも、理性的であるならそれが無駄だと分かるだろう。
それでも、と思ってしまう。
未熟さや愚かさなのだとしても、もし自分だったら。もし妹が囚われ処刑を宣告されたのなら、きっと飛び出してしまうだろう。
「えぇ、やつは姉への執着を残しつつ……わたしの記憶を覗き、幾人かの強者の情報を得て垂涎しました」
「チヨさんを返したのは、強者を呼び寄せる為」
ミヤビ組が帰ってこないだけなら、戦死したものと判断して終わる可能性がある。
だが、チヨを返し起きたことを報告させれば?
《カナン》の所在が相手側にバレた以上、対策しないわけにはいかない。
セレナやクリードとの戦いで分かったこと。数体の魔人だけで都市をあれだけ追い詰められるのだ。
そして今はミヤビを欠いている状態。
何もしない、なんて選択肢は無い。
待ち構える、なんて選択がいい結果を生まないのは明白。
常より『青』を壁の縁に配置してなお、先の襲撃は起こった。
ではこちらから仕掛けるのが賢いかと言えば、そうでもない。
人類はリスクをとらなければならない状況にあるのだ。
どちらも成功するとは限らないが、何かをしなければならない。
「ヤクモは、姉さんに似て頭が回るのですね。思考と判断が早い。そうです、奴は戦いを好まないようでしたが、同時に魔力集めには執心しています。ですからこのようなバランスになりました。――七日。七日後にこの都市に攻め入るそうです」
強者を求める魔人ならやりそうなことだ。
これは脅し。
ミヤビ組が単騎で向かったことからも分かるように、《カナン》と《エリュシオン》間に隔たる距離は長い。
通常の移動手段では七日での到達など不可能。
飛行などの特殊な手段によって短期間で長距離を移動出来る者でなければ到達出来ないのだ。
魔人は、来いと言っている。
自分は《黎き士》を倒した者だ。七日後に《カナン》を襲う。
ここまでされれば、真なる強者が《エリュシオン》に向かうより他に無い。
「……参ったわね。こういう時、ヤマトではなんというのかしら」
目許を痙攣させるアノーソに、ヤクモは思いついた言葉を告げる。
「一難去ってまた一難、でしょうか」
「あぁ、そうね。問題が片付いたと思ったら次の問題がやってきた。至急会議を開かないと」
ヤクモはあることを思い出し、口を開く。
「総司令、そのことで一つご相談が」
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