第158話◇鴉鷺
「あ、目ぇ覚めた」
声の主は明白だった。この声だけは聞き間違えないという自信がある。
人形である自分の
とても歪んでいて、とても優しい。
「ツキヒ」
「起きるの遅いんだよ、ばーか」
鼻っ柱を指で弾かれる。
「……いたい」
「鼻? それともお腹?」
その言葉で、徐々に記憶がはっきりしてくる。
あぁ、そうだ。
確か自分は決勝でヤクモの腕を落として、勝ったと思って、でも……。
「ツキヒ」
「なんだよ、そんなに痛くしてないだろ」
「試合、わたし達、試合……その、」
言えない。自分の口からは、どうしてもその言葉を口には出来なかった。
報われないことはとても辛いものらしい、ということはグラヴェルも知っていたつもりだった。
十年も見ていたのだ。
姉の為に頑張っているのに、誰にも褒められず、姉にそのことを知ってもらおうともしなかったツキヒのことを見ていた。
姉は自分を壁の内に残そうとしたことを、自分には話さなかった。おくびにも出さず、笑顔で壁外へと捨てられた。
だからツキヒは、姉を救おうとしながら、姉に逢おうとはしなかった。その時点で姉の為に動いたと伝えるようなものだから。
けれど、努力は目的の達成に向けてするものだ。目的を達成することで、人は満足を得る。その先を望むかそこで終わるかは人それぞれだが、その満足に向けて人は走るのだ。
でもツキヒの生活には満足が無かった。姉を守るという目的には、果てが無い。姉が死ぬか自分が死ぬまで続く鍛錬と戦闘。
本当に、ツキヒにはそれしか無かった。
手に入れられたのは、強さだけ。
それはツキヒにとって姉を守る武器で、拠り所でもあったのだ。
母と姉が認めてくれた才能を、実力という形で示す手段。
なのにグラヴェルは、グラヴェルがツキヒを上手く扱えなかったばかりに、彼女の強さを。
無敗を、傷つけてしまった。
「負けたよ。覚えてないの?」
覚えている。認めたくはなかっただけで。
顔が見れない。
違う。合わせる顔が無い。どんな顔をして彼女と視線を交わせばいいか分からない。
消えてしまいたい。
ツキヒは、本当に凄いのだ。
欠陥品の自分の心に、燈を点ける程に。
ツキヒの性能がアサヒに劣っているとは、どうしても思えない。赫焉を見下す無能達ではないが、どれだけ高く評価しても『技術的には魔力攻撃で再現出来るもの』でしかないのだ。
トルマリン組との戦いを見れば、それが分かるだろう。
互いに剣型の魔力・赫焉粒子をぶつけ合って戦っていた。
だから。
武器の性能面で圧倒しているのに、負けたのなら。
遣い手の魔力炉性能・魔力操作能力・魔力出力などで圧倒しているのに、負けたのなら。
それはもう、単に。
遣い手の戦闘技術で劣ったということ。
必ず真っ二つにするという《黒点群》に相応しい魔法を手に入れたというのに、負けた。
言い訳は立たない。
報われないことはとても辛いものらしい、ということはグラヴェルも知っていたつもりだった。
あぁだが、知ってはいても、実感はしたことが無かった。
これまでは、彼女が辛そうな時に自分も辛いと、そう感じたことがあるくらいで。
こんなにも、痛いだなんて。
あんなにも、頑張ったのに。
全力で挑んで、全霊で臨んで、勝つと誓って、負けられないと叫んで。
勝ったと思ったのに、負けた。
これがそうなのだろうか。
胸の中にある何かを握り潰されるような、この苦しさが。
悔しいという気持ちなのか。
彼女への申し訳無さと、初めて味わう悔しさで、どうにかなってしまいそうだった。
「なんてブサイクな顔してんのさ」
ツキヒの、からかうような笑い声。
自分は今、そういう顔をしているのだろう。
「何にも興味が無かった人形が、随分と人間らしくなったね」
バサバサと音がする。何かが擦れ合うような音。鳥の羽ばたきにも似たそれは、すぐ近くから聞こえた。
「人形にも効くのか、人間になったから効いたのか。ま、起きたならどっちでもいっか」
胸の上に投げられたそれを、そっと見る。
群れだった。
色とりどりの紙で折られた、千にも迫る数の鶴の群れ。
「……せんば、づる」
「あれ、話したことあったっけ?」
昔、まだ姉妹の母が存命だった頃。アサヒが何日も寝込んでいたことがあった。そんな時、もどかしそうにしているツキヒに母が教えてくれたのだという。
ヤマトに古くから伝わる俗信で、思いを込めた千羽の折り鶴は病を治し、長寿まで叶えてしまうのだとか。
それを初めて聞いた時、グラヴェルは無意味だと思った。
紙を折った程度のことで病や理が言うことを聞くわけがない。
何も出来ないという己の無力感を誤魔化す為に行われる、時間の空費。
だが、今なら分かる。
何も出来ないという無力感を噛み締めながら、それでも回復を願わずにはいられない相手への想いを、鶴という形で折り上げる。
己を慰撫する行為で終わらないのだ。
だって、今グラヴェルは救われている。
ツキヒに無駄な時間は無いのだ。学舎の温い訓練に時間を奪われるようになってからはなおさら濃密な鍛錬が必要になった。彼女は努力し続けていた。
そんな彼女が、だ。
強くなれるわけでもないのに、鶴を折った。自分が目覚めるまでに千羽、揃えてくれた。
目覚めた時にも、当たり前のように近くにいた。
そのこと自体がどうしようもなく、証明している。
彼女は鍛錬に使うべき時を、自分の側で過ごしてくれていた。
彼女は自分に失望しておらず、激怒もなければ侮蔑もない。
快癒を願ってくれていたのだと。
上体を起こす。
ツキヒを見る。
呆れた様子でこちらを見ている、主人がいた。
「なんで泣いてんのさ、きみ」
「黒い髪」
「は? あぁ、うん。染め直した」
彼女は毛先を指で弄んでいる。
「綺麗」
「染めただけだよ」
「もっと綺麗になる」
「ツキヒってば強いだけじゃなくて美少女だからな」
「うん」
「で、なんで泣いてんさ。鶴に感激した?」
「うん」
「大げさなやつだなぁ」
それからツキヒは話してくれた。
自分は四日寝込んでいたこと、ヤクモは二日前に目覚めたこと。他校の決勝も恙無く終了し、四校の予選結果が出たこと。二位通過で本戦には出られること。後日表彰式があること。
そして。
「ツキヒ、オブシディアンやめたんだよね」
「……うん」
彼女の髪の色を見れば分かる。
ルナ=オブシディアンは正妻の子ということになっているのだ。
だから、ヤマト民族的な特徴があるのはおかしい。
髪の色だけでなく、観戦者の耳目が集まる中でアサヒのことを姉と呼んだ。そして自分をツキヒと。
大問題だ。
オブシディアン家はツキヒの才能を見込み、幼少期に養子にしたのだと発表。ある意味、それは間違っていない。正妻の子ではないところを、そうしたのだから。当主の実子であるという事実を隠しただけのこと。そしてそれは、オブシディアン家にとっては必要なこと。
当主がかつてヤマトの《|偽紅鏡(グリマー)》を使用していたことは知られている。今後も真相を追求しようとする者は現れるだろう。だが、それはグラヴェルには関係ない。
とにかく、ツキヒはオブシディアン家から外された。いえ、脱したというべきか。
「
新しい名前や住む場所などについては、ラピスラズリやコスモクロアの力を借りたという。
ラピスラズリはイルミナの時の借りがあるし、コスモクロアは《|偽紅鏡(グリマー)》の権利向上を目指すジェイド家の者だ、協力も頷ける。
「いしがみ……」
がみ、というのは神のことだろう。確か、彼女の母の名字が
イシ、というのはよくわからなかった。
「イシ、は、ヤマト言葉で、どういう意味?」
「……別になんでもいいだろ」
ツキヒにしては歯切れが悪い。
「教えたく、ない?」
「そうだよ」
「……ヤクモに訊く」
「な、そういうこと言い出すかきみ!」
ツキヒの顔が赤いあたりから、恥ずかしいのだとは分かる。だが恥じるような字を名字にするようなツキヒではない。ますます気になる。
「あーもう。分かったよ。教えてあげるから」
「うん」
「一度しか言わないからな? 二度は訊くなよな」
「うん」
ツキヒは視線を逸し、耳まで真っ赤にしながら、耳を澄まさねば聞き取れないほどの小声でぼそっと言った。
「…………す、
「…………」
「…………」
「…………」
「……おい、なんか言いなよ」
分からない。
今、自分を襲う気持ちをなんと表現すればいいのか。
「勝った」
「はぁ? きみいつもあれだぞ、話が飛び飛びでついていけないところあるからな?」
「アサヒに勝った」
「……いや、負けたけど」
「勝った」
石神の名の内、神は母から。
そして石は、グラヴェルから取ったものだ。
グラヴェル=ストーンから取ったもの。
遠峰からも、朝陽からも取ってはいない。
「よくわかんないけど、なんかすごく喜んでるのは分かるよ」
そうか。自分は今、嬉しいのだ。喜んでいるのだ。
「それでさ、ヴェル」
ツキヒが不安げな顔をしたので、グラヴェルは喜びをぐっと抑えて言葉を待つ。
「ツキヒはもうオブシディアン家じゃないんだよね」
「うん」
「で、だから、まぁあの家にもいられないわけで」
「うん」
「もう勝手に壁外へ出られないし、色々と不便になるわけだけど」
「うん」
「な、何か不満ある!?」
最後は勢いで、叫ぶように言い切るツキヒ。
その瞳の中には、僅かではあるが怯えが滲んでいるように感じられた。
ぷくりと、自分の頬が膨らむのが分かる。
「……なんだよ、その不満そうな顔」
不満なのだ。
自分の
なのに、まだ分かっていなかったとは。
「興味ない」
「――――」
ツキヒが目を見開く。
それは初めて逢った日に言ったものと同じ言葉。
けれど、少しだけ意味の変わった言葉。
「あなた以外には、興味ない」
「……っ」
ツキヒは何かを堪えるように下唇を噛み、俯いた。
黒い髪が垂れる。
やがて顔を上げた彼女は、いつもみたいに自信満々に笑っていた。
「きみ、ツキヒにしか興味ないんだ」
「そう」
「なら、一緒に来なよ。ツキヒには必要なんだ、今後もきみが、必要なんだよ」
「別に、許可は要らない」
「だね。だってきみは、とっくにツキヒのものだ」
彼女が嬉しそうに笑うので、グラヴェルの頬も緩んだ。
「うん」
学内ランク
改め、
学内ランク
《皓き牙》大会予選・二位通過。
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