第159話◇我が上の星は見えぬ
ヤクモは毎朝決まった時間に起きる。
最近は大怪我を負うことも多く、その治療もあって目覚めない日もあったが、基本的には決まった時間に起きる。
そして鍛錬を開始するのだ。少年にとっては軽く汗を流す程度のものだが、そういった積み重ねこそが重要であると彼は理解していた。
自分には才能が無い。最大限努力はしているつもりだが、同じかそれ以上に努力している人々もいる。時間は平等だ。自分だけ多めに貰って、多めに努力するなんてことは出来ない。
じゃあ、自分よりも才能があって自分よりも努力している人物に遭遇した時、素直に負けを認められるのか。
そんなわけがない。
積み上げたものを『どう使うか』が道を分ける。その為にもまず、日々の積み重ねが必要なのだ。
「……ツキヒ、わたしも、あれ、やる」
「単に腕立てじゃなくて逆立ちして指立て……? マゾいよ」
「でもヤクモもやってる……出来るようになる」
「うーん、あんま筋力つけて身体が重くなるのはなぁ。でも常に魔力強化に頼れるわけでもないし……バランスを考えないとね。てゆーかおにーさんそれおかしくない? その細腕でその筋力って変でしょ」
「ヤマトの人、肉がつきにくいって聞く。あと背もあまり伸びない」
「その上老けないんでしょ? まぁお姉ちゃんの家族って人達を見るに、老けにくいってのが正しいのかな。確かにお母さんも……って話がずれたね。ねぇおにーさん、おにーさーん? 無視かよ」
ぐんと肘を曲げ、床すれすれまで顔を近づける。その後腕をゆっくりと伸ばし、体を持ち上げる。
そうしてようやく、朝のノルマ達成だった。
腕の力で跳ね、足から着地。身体の上下を正常に戻し、客人達を見る。
「膨れ上がらない分、中に詰まっているんじゃないかな。師匠も凄い力だけれど、凄い細い身体をしているだろう?」
「ヤマトって変な生き物だね」
「きみだって半分ヤマトだ」
「半分変ってこと?」
「馬鹿にしたり、不気味がるものではないよ、ということさ」
「兄妹揃って説教が好きなんだね」
「妹の妹相手だ、放っておくわけにもいかないからね」
「お兄ちゃんって呼んでほしい?」
「お好きに」
「照れないんだ? てっきり年下女子に自分を兄と呼ばせて喜ぶ変態かと思ったのに」
「お姉さんの相棒がどんな人物か気になるんだね。やっぱりきみは、とても姉思いのようだ」
「……きみ、やっぱむかつく」
そう。
朝、登校前のこの時間にツキヒとグラヴェルが部屋を尋ねてきていた。
ようやくグラヴェルが目覚めたのはめでたいのだが、日課を観察されるのは慣れない。
ツキヒはアサヒと仲直りしたようだ。
その時にいかなる言葉が交わされたかを、ヤクモは知らない。
ツキヒは劇的に何かが変わったわけではない。
ネフレンを負かした時と同じだ。彼女は《|偽紅鏡(グリマー)》の首輪を外し、暴力を振るうようなことこそ無くなかったが、思想は変えなかった。交流を深める内に態度は軟化し今では友人同士だが、ネフレンという個人が変質してしまったわけではない。
ツキヒもまた、彼女を彼女たらしめる要素を失ったわけではない。
つまり、急に素直で謙虚な人間になったわけではない。
性格はそのまま。
ただ少し。ほんの少し。姉との関係が変わり、それによって周囲への接し方も変えたというだけ。
彼女はネフレンやこれまでの対戦者に謝罪し――内容は辛うじて謝罪に聞こえなくもないというものばかりであったが――見た目を戻し、名を新たにし、女子寮に入寮。
学舎側に掛け合い、己の登録名の頭にある言葉を入れてほしいと頼み込み、受理された。
今や彼女は独りで完結する
相棒と共にあってなお未完成であると認める
黒き刀と、
「お待たせしました!」
支度を済ませた妹が部屋から出てきた。
雪白の長髪と黒曜の瞳、頭部には雪華の髪飾りが輝き、その身は純白の制服に覆われている。
「遅いよ、お姉ちゃん。相変わらずとろいね」
「いやぁ、乙女は準備に時間がかかるんだよ。ツキヒもせっかく可愛いんだから、もっと気を遣わないと」
「ツキヒはいいんだよ。そういうの、時間の無駄だし」
そう言うと、アサヒの瞳がうるうると水気を帯びる。
ツキヒが身なりに気を遣わないのは、そこに注ぐ時間があるなら鍛錬をしていたから。そしてそれは姉を守る為。
自分の為に、可愛い妹がオシャレを知らぬまま育ってしまったことが、アサヒには辛いのだろう。
「な、泣くなよ! 別に興味ないだけだし、やり方も分からないし、お、おいヴェル!」
ツキヒはグラヴェルに助けを求めるような視線を向けるが。
「……わたしも、ツキヒはもっと綺麗になると思う」
「裏切るな!」
「ずっと味方」
「今まさに裏切っておいて……!」
ツキヒは唇を噛んでグラヴェルを睨むが、彼女の表情は変わらない。
「楽しそうな顔しやがってぇ……」
ツキヒが言うには、楽しそうな顔をしているらしい。
「ツキヒ、ずっと思っていたんだけどね、喋り方ももう少し女の子らしくした方がいいと思うの」
『らしさ』を強要する気はないが、妹の言いたいことも分かる。
ツキヒは望んでいるというより、咄嗟に乱暴な口調が出てしまう環境にあっただけなのではないか。
訓練と戦闘の日々の中では、耳にする言葉は限られる。少女らしさと無縁の生活がそうさせただけなのではないか。
「う、うざ過ぎる……」
「そう? でもわたしはツキヒのことが好きよ」
「きもい……」
「とりあえず、髪に櫛を通すくらいはやらせて? ボサボサじゃない」
「……勝手にすれば」
意外な一面だった。
いや、アサヒは元々ヤクモより人として優秀だ。賢いし、気配り上手だし、優しい。それはきっと、ツキヒの姉としての暮らしがあったから。自分より優秀で、でも最終的に自分に甘えてくる妹がいたからこそ身についた性質。
ただどうしても、姉としてのアサヒと、妹としてのアサヒは違う。違うように見える。
「では兄さん。わたしがツキヒの髪を梳いている間に、兄さんはわたしをハグでもしていてください」
「うん、意味が分からないかな」
急に平常運転に戻られて困惑する。
だが同時に、これが自分の知っているアサヒだなという安堵もあった。
「いえ、兄さんが寂しそうな顔をしているものですから。大丈夫ですよ、ツキヒの姉と兄さんの妹という属性は両立出来ます」
「属性とか言わないでほしいんだけど」
「わたしにとっては、どちらもとても大切なものですから。どちらも大切にします。だってそうでしょう? 捨てられる時、まさか家族が出来るなんて思いませんでした。兄さんと出逢った後だって、まさかツキヒと再会して、こうして触れ合えるなんて思いませんでした。わたし達は幸福を掴み取る為に戦ってきたけれど、その二つはわたしの努力ではどうにもならなかった、幸運です」
面と向かって言われると、さすがのヤクモでも照れくさい。
ツキヒの方は頬を紅潮させている。
「その割には、逢いに来なかったよね」
拗ねるような声。
「そ、それはもう説明したでしょう。怖かったの、その時はまだ、ツキヒの気持ちも知らなかったし」
「ふーん」
「そういうふうに言うなら、ツキヒだって最初はとても冷たかったよ?」
「元々そういう性格だから仕方ないだろ」
「……ツキヒは、アサヒがヤクモにデレデレしているのが嫌だったみたい……いたい、ツキヒいたい、よ」
アサヒに髪を梳かれているツキヒが、隣に座るグラヴェルの頬を引っ張っている。
「余計なことを言う人形だなぁまったく」
なんだかんだいいつつ、ツキヒもアサヒといられることが嬉しいに違いない。
特に理由もなく朝食の席に混ざるくらいなのだから。
「あ、あのー、朝食が出来ました」
モカがおずおずと声を上げる。
「このおっぱいって確か三位のとこのだよね? なんで此処にいるの?」
「ツキヒ、人を身体の部位で呼ぶなんて失礼ですよ」
――正しい指摘だけど、自分のことは棚に上げてるなぁ。
モカのことを誰よりもおっぱいと呼称していたのはアサヒだ。
「色々と手伝ってくれているんだ。厚意でね」
「お二人にはとてもお世話になったので……」
「ふーん。ツキヒ達も料理どうしようかって思ってるんだよね。家出たはいいけど、食堂って《|導燈者(イグナイター)》しか使えないし」
「料理、覚える。わたしが」
「独学じゃ無理でしょ。昨日の夜作ったのも酷かったし」
「……がんばる」
「よ、よろしければ、私がお教えしましょうか?」
「なんで? 悪いけど、謝礼とか出せないよ。もうオブシディアンじゃないから。いや……持ってきてるお金があったかな。どれくらいで教えてくれるの?」
「いえ、そういったものを頂くつもりは……」
「タダで? 狙いは何?」
「モカさんは、純粋に善意で言ってくれているんだよ」
「善意? おにーさんそんなの信じてるの?」
「あぁ、それが僕を生かしてくれたものだからね」
善意以外に、無力な子供を救ける理由は無い。それでもヤマトのみんなは手を差し伸べてくれた。
善い心を備えた人というのは、いるものだ。
モカは確実に、その一人だろう。
「どうかなぁ。でもまぁ、他にアテもないし、頼もうかな。ヴェルに料理を教えてやってよ……えぇと、モカだっけ?」
「はいっ」
笑顔で頷くモカを見て、ツキヒは毒気を抜かれたように唇を曲げる。
「変なやつの回りには、変なやつが集まるのかな」
なんて、呟く。
「だとしたら、きみもまた変なやつということになるのかな?」
ヤクモが言うと、彼女は渋面を作った。
「変人筆頭が言わないでくれる?」
「……ツキヒ? お姉ちゃんとしては、兄さんとも仲良くしてほしいのだけど」
「無理な相談だね」
そう言いながらも、ツキヒの口許は緩んでいるように見えた。
「お姉ちゃんの方こそ、いつでもヴェルの《|偽紅鏡(グリマー)》にしてあげるよ。おにーさんに嫌気が差したらいつでも言うといい」
「わたしは、他にどれだけの《|導燈者(イグナイター)》がいても、兄さんを選ぶよ」
「ヴェルの《|偽紅鏡(グリマー)》になれば、ツキヒと一緒にいられるけど?」
「うん、それでもわたしの剣士は一人だけだから」
「……ふーん。やっぱ仲良くするのは無理そうだ」
最愛の姉の遣い手なのだ。どのような人物であろうと、いかに姉の支えになっていようと、認められるものではないのだろう。
「本戦であたったら、今度こそ負かすから」
その挑戦的な笑顔は晴れやかで、以前のように苦しげなものではなくなっていた。
本戦の開始は一月後。
これまで同様、ここから先も一度も負けられない。
優勝まで四度、勝利を重ねる必要がある。
「負けないよ、僕らは」
微笑みと共に言葉を返す。
アサヒもこくりと頷き、ツキヒは好戦的に口の端を上げた。
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