第137話◇枕元
寮に帰るとモカが迎えてくれた。
彼女は困ったような顔をしていて、その理由をヤクモもすぐに知ることになる。
「お帰りなさい浮気者……いえ、兄さん」
アサヒの機嫌が悪いのだ。
拗ねているというレベルではない。
真っ黒とした靄を漂わせているような、重く暗い雰囲気。
それは嫉妬、諦観、怒り。
不満の感情を、だが素直に不満だと言えないことからくる態度。
たとえばセレナがただの少女であったら、学友らに向けるようにヤクモに近づくなと騒ぎ立てればいい。
だがセレナの必要性を考えると、そんなことは出来ない。
それが分からぬアサヒではないのだ。
だからといってそれで全て納得出来る程、人は簡単ではない。
理解しているからといって、支持出来るとは限らない。
立場が逆であれば、ヤクモも同様の複雑な感情に襲われたことだろう。
アサヒのような感情表現に出るかは別として。
ポケットに収まっているプレゼントを出すか迷うが、タイミングではないと判断。
「遅かったですね。世間話に花が咲きましたか?」
じろり。
妹の可憐な顔ではどうやっても愛くるしさが消さないが、本人は厳しく睨みつけているつもりなのだろう。
「ただいま」
「どうだったんです? 二人きりの面会は。ふふふ、妹を追い出して、どんな話をしたんですか?」
目が笑っていない。
「とても疲れたよ」
嘘ではない。
セレナの扱いには細心の注意を払っている。媚びず、それでいて協力を仰ぐ。気分屋な彼女に対してそれを行うのは、想像以上に神経を使う。
「え、えぇと、そろそろお夕飯出来上がりますよ?」
モカがなんとか空気を変えようと試みるが、アサヒは無視。
「嘆かわしいです。とても悲しいことですよ。あの魔人にわたしがブスだのなんだの言われたというのに、兄さんは訂正もしてくれませんでしたし……」
「いや、あの場面で話を脱線させるわけには……」
「わたしの知っている兄さんなら『妹を侮辱するな』と毅然な態度で怒ってくれるものと信じていたのに、華麗にスルー。人類の未来を前にすれば、妹の心は二の次。泣いてしまいそうです」
「う……」
ちくちくと的確にヤクモの罪悪感を突いてくる。
反論はしない。
アサヒは説明を求めているわけではないのだ。
現にセレナに逢うなだとか、そういったことは言わない。
仕方のないことだと分かった上で、それでもとても悲しいのだと表明している。
その気持ちまで、理屈で押しつぶしてしまうなど出来ない。
「僕は、アサヒの知っている兄のままだよ。壁の外にいた頃と、何も変わらない」
環境や立場は変わったが、人として変質してしまったとは思わない。
今も昔も、大事なものは変わっていない自信がある。
「そう願っています」
「信じてはくれないのかな」
「わたしが兄さんを信じていることを、兄さんは信じてはくれないんですか?」
「もちろん信じているよ」
「ふぅん」
夕飯の時間、アサヒは黙々と食べていた。
何度かモカが話題を振ったが、返ってくるのは生返事ばかり。
風呂の時間になっても、普段なら一緒に入ろうと懲りずに誘ってくるところを、黙って一人で浴室に向かう。
「あ、あの、ヤクモさま。アサヒさまは帰ってきてからずっと、不安そうにされていました。その、心配なさっていたのだと思います。だから、その……」
モカの気遣いに、心が温かくなる。
「分かっているよ。困ってはいるけど、怒ってなんかいない。気を遣わせてごめんね」
「い、いえっ。それくらいしか出来ませんから」
「そんなことない。とても助かっているよ。ご飯も、今日もすごく美味しかったし」
ヤクモが笑うと、モカもはにかむように微笑んでくれた。
「だと、いいのですが」
「それと、一つ頼んでもいいかな?」
「? はいっ、なんなりと!」
両拳をぐっと握ってアピールするモカに、ヤクモは言った。
「今から僕がすることを、アサヒには内緒にしてほしい」
「はい? 何をされるんですか」
「妹の寝室に入る」
「――――」
モカの顔が固まる。
それが少し面白くて、ヤクモはまた笑った。
◇
翌日。
いつも通りの時間に起きたヤクモが日課の鍛錬に勤しんでいると。
妹の寝室から「うひゃあ」とか「ひゃわあ」とか「もしや夢? いや痛い! では幻覚? いや現実!」とか「いつの間に……」「いや冷静になるのですアサヒ」などなど、大き過ぎる独り言が幾つも漏れ聞こえてくる。
――気づいてくれたみたいだ。
ヤクモは鍛錬を続ける。
すると、やがて妹の寝室のドアが控えめに開かれた。
視線だけを通す程の、薄い隙間だ。
「じぃ」
視線の主は明らか。
「アサヒ?」
ばたん。
扉が閉まる。
しばらくすると、また開いた。
今度は手首が通るくらい。
ちょいちょいと、手招きされる。
ヤクモは素直に彼女の部屋まで歩いて行く。
「ど、どういう意図ですか。この程度で浮気を許す程、わたしは安くも軽くもないですよ……!?」
髪飾りだ。
探すのに苦労したが、なんとか見つけることが出来た。
雪の華を象った、髪飾り。
純白ではなく薄い青色の花弁。
それがアサヒの髪に留められている。
彼女の入浴中に枕の下に置いておいたのだ。
「その割に、もう付けているみたいだけど」
「……!」
妹の顔が赤くなる。
外し忘れていたらしい。
慌てて頭に手を伸ばすアサヒの腕を、そっと掴む。
「考えたんだ。僕は家族が大好きで、その為に何かすることを苦とは思わない」
「に、兄さん?」
「なのに、一番身近で大事な家族のことを見落としていた。真っ先に考えるべきなのに」
それから、実はネフレンに手伝ってもらって探したことなどを伝える。
「決して機嫌を取る為のものではないけど、セレナの件が無ければ気づくのがもっと遅れたと思う。アサヒが不満に思うのも当然だよ」
妹の怒りが、不満が、萎んでいくのが気配で分かる。
髪飾りを貰ったからではない。そこに込められた、ヤクモの気持ちに気づいたからだ。
「兄さん、わたしは」
「でも、これを謝罪の印とは思わないでほしい。その……えぇと」
ヤクモはそろそろ顔から火が出そうな程に恥ずかしくなっていたが、そのまま言い切る。
「こういうものに疎いなりに、似合うと思って選んだんだ。やっぱり、アサヒのイメージといったら雪だなって。単に贈り物として受け取ってもらえたら、嬉しい」
妹の表情は、もう完全に緩みきっていた。
今にも「うへへ」と笑いかねない。
それを堪えるようにして、彼女は訊いてきた。
「それは、兄から妹への? それとも、夜雲くんからわたしへの?」
「わけなければだめかな、その二つは」
「意味合いが変わりますから」
悪戯っぽい笑みを浮かべるアサヒ。
「……えぇと」
ぴとっと、彼女がヤクモの唇に指を当てた。
「やっぱりいいです。ただ、贈り物として受け取りましょう。今日のところは」
気を遣われてしまった。
「気に入ってくれたかな?」
「似合いますか?」
「とっても」
「あのクソ女の服より?」
まだ気にしているらしい。
「……言葉が汚いよ。でも、うん」
ヤクモが頷くと、今度こそ妹は破顔した。
「うへへ。変ですね、わたし朝起きるまでとても憂鬱で不機嫌だったのに。今は空の上にいるみたいです。あ、晴天の」
その晴れやかな笑顔を見て、ヤクモはそっと胸を撫で下ろす。
「それはよかった」
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