第62話◇起床




 目が覚める。 

 天井が映る。


 ネアの寝覚めは良いほうだ。

 決まった時間に目が覚める。


「ん~……」


 腕の力を使って上体を起こす。元々筋肉がつきにくいらしく、どれだけ繰り返しても慣れてくれない。腕の痺れを感じながら、それでもネアは自分で出来るところまでやろうと決めていた。


 弟は面倒くさがりなのに、自分の世話だけは文句を言わずにやってくれる。でも、内心でどう思っているかは分からない。負担を少しでも減らしたかった。


 寮の部屋の壁には、スペキュライトが取り付けてくれた手すりがある。とはいっても、基本的に使う機会は無い。万が一の時の為につけてくれたのだ。


 ネアが歩けるようになることは、無いらしい。


「ん、っしょ。んっ、と、届かない」


 ベッドから足を下ろした体勢。片手で体重を支え、もう片手を車椅子に伸ばす。

 ベッドと車椅子の距離は日によって微妙に変わる。


 車椅子からベッドへは弟が運んでくれるのだが、乗せる時も彼が運ぶので位置にこだわりなど無いのだろう。


「と、届いて。届くのです私の腕よ~」


 するっと。

 体重を支えていた手が滑る。


「ふわっ」


 ばたん。

 ベッドから滑り落ちて、鼻を打つ。


「い、いだい……」


 鼻の奥がツンとする。目に涙が滲む。痛いし情けないしで辛い。


「姉貴!」


 物音を聞きつけたスペキュライトが駆け込んできた。


「す、すべぐん。ノック、ノックをして……」


 お尻を天井に向けた状態で倒れる醜態を晒したくはなかった。

 姉の威厳が凄まじい勢いで失墜していく感がある。


「馬鹿なこと言ってんなよ」


 弟は笑うこともなくネアを助け起こしてくれる。笑ってくれた方が、冗談にしてくれた方が気が楽なのに。


「えへへ、今日は寝相が悪かったみたいだなぁ」


「頭と足の位置が逆になる程か?」


「そういうこともあるよ。お姉ちゃんといえど完璧ではないのだ」


 スペキュライトはネアを抱き上げ、車椅子まで運ぶ。


 昔と比べて、随分と大きく逞しくなった。

 自分に抱きついてきた小さな弟は、自分を抱えられる程に成長したのだ。


「自分で乗ろうとしたのか」


 さすがお姉ちゃんっ子、すぐに分かるらしい。可愛いけど怖い。可愛さの方が勝るけど。


「へ? なんのことかな?」


 小首を傾げてみるも、通じず。


「……今日からベッドの近くに置くことにする」


 自分の判断ミスを悔いるように、弟が表情を曇らせる。


 ――嫌だな。失敗したのは私なのに、苦しそうなのはスペくんだなんて。


「むぅ……。ある日突然出来るようになってスペくんを驚かせようと思ったのに」


「心臓に悪いからよせ」


 車椅子に座らせてもらう。目が合った。いつもはギラギラしているのに、自分を見る時だけは弱々しくなる。自分が弟を弱くしてしまう。


「スペくんは心配性だなぁ」


「姉貴がしたいなら、そうすりゃいいさ。先に相談しろって言ってんだ」


「あの、お姉ちゃんはお姉ちゃんなんだけどな? スペくんは弟なわけで」


「姉貴」


 弟に悲しげな声で呼ばれては、それ以上粘ろうとも思えない。


「分かったよぅ」


 拗ねるように返事する。これではどちらが保護者か分からないではないか。

 ネアが歩けなくなったことを、スペキュライトは自分の所為だと思っている。


 自分の所為で姉は無能に成り下がったと思っている。


 そんなことは無いと何度も言ってきたけれど、弟から罪悪感が消えることは無いようだった。


 ネアは弟が好きだ。大好きで、彼の為ならばどんなことでも出来ると今でも思う。

 弟だって同じように思ってくれている筈だ。


 でも、弟が自分を大事に扱うのは、罪の意識の裏返しではないのか?

 それを除いた時、残るものはあるのだろうか。


 怖くて、訊けない。


「スペくん。お姉ちゃんはいいけど、いつか彼女さんが出来た時にそんな過保護だと嫌がられちゃうよ? ある程度は自由意志も尊重しないとね」


「興味ねぇ」


「え、スペくんもしかしてお姉ちゃんのこと本気なの……? 嬉しいけど、困るってゆうか」


「あいつらみてぇになるくらいなら、一人で構わねぇってだけだ」


 両親のことだろう。一度は愛し合った者の末路があれなのだとしたら、恋愛に希望を持てなくなるのも分かる。我が子を金を生み出す装置としか思わず、金に溺れる。それが愛の成果なのだとしたら、あまりにも悲しい。


「独りじゃないよ。お姉ちゃんがいるじゃない」


 スペキュライトは否定しなかった。


「ならなおさら、今のままでいい」


 随分と嬉しいことを言ってくれる。彼の本心からの言葉なら、だが。


「でもほら、ヤクモくんやアサヒちゃんはどう? 仲良くなれそうだなって思うけど。というか、お姉ちゃんはもう仲良くなれたけど」


「良い奴らだとは思うぜ。仮にも同じ《班》で戦う以上、馴れ合わねぇってのも馬鹿げた話だ。だがな、アイツらには負けられない理由がある」


「うん……」


「だからって、オレらが負けていいことにはならねぇ」


「そう、だね……」


 自分達を育ててくれた老夫婦はもう歳だ。夫の方は病に罹り、床に臥せっている。

 もう、そう長くないのだ。


 だというのに去年、二人は優勝のチャンスを逃した。一足飛ばしにプロになれるチャンスを掴めなかった。恩返し出来る期間はほとんど残っていない。


 だから、今年まで負けるわけにはいかないのだ。

 それだけではない。


 スペキュライトは、ネアを捨てた全ての《導燈者イグナイター》を見返そうとしている。


 彼は決して言わないが、見ていれば分かった。

 弟は、怒っているのだ。小さい頃から、今に至るまでずっと怒ってくれている。


 ネアの為に。姉の為に。

 でももし、それが果たされたら。


 彼が、姉にしてやれることはもう全部やったと満足するようなことがあったら。

 その時、弟は何を選ぶのだろう。


「試合は明日だ。トオミネ妹と意気投合するのは構わねぇが、迷わないでくれよ」


「うん。分かってる。スペくんにこれ以上迷惑かけたりしないよ」


「迷惑なんざ掛けられた覚えはねぇよ」


「そう? あ、スペくんはシスコンだから、お姉ちゃんの面倒見るのはむしろご褒美なのかな?」


 スペキュライトは返事をせず欠伸を掻く。


「だ、だからお姉ちゃんを無視しないでってば!」


 その夜、魔人が都市を襲撃した。

 大事な試合を明日に控えた日の、夜のことだった。



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