第12話◇落涙

 



 《導燈者イグナイター》《偽紅鏡グリマー》間の格差は、日々の食事にすら影響を及ぼしていた。


 具体的に言えば、《偽紅鏡グリマー》は食堂の利用が出来ない。《導燈者イグナイター》監修の許に申請書を作成し、提出した上で、それが承認されて初めて食料を受け取ることが出来る。それを各自で調理し、口に入れろということらしい。


 この一週間、食事は師に世話になっていたが、これからはそうもいかない。

 とはいえ、妹とモカを部屋に置いて一人食事に赴こうとも思わなかった。


 いそいそと申請書を取り出したモカは、当たり前のように「行ってらっしゃいませ」と微笑む。


 ヤクモが食事に出て、戻ってきてから申請を確認してもらい、それから提出に向かい、承認を待ったのちに食料を受け取り、部屋に戻ってから料理するとなれば、食卓につくのは何時になるのだろう。


 ネフレンの《偽紅鏡グリマー》だったということは彼女も新入生ということになるが、このシステムに疑問を持っている様子は無い。


 これが罷り通るのだ。これが常識として受け入れられる空間なのだ、壁内は。


「その申請書ってさ、例えば僕の分も申請すれば通ったりするのかな?」


「は……?」モカは心底不思議そうに首を傾げたが、すぐに応じる。「えぇと、はい。でも、あの、《導燈者イグナイター》の方であれば大抵のものは食堂の方で用意してもらえるかと」


「でも、申請は出来る?」


ヤクモの言葉の意図をなんとか汲み取ろうと、モカは懸命に思考を巡らせているようだった。


「えぇ、あ、はい。出来ます。食事は静かに摂りたいという方の場合、そのようにして《偽紅鏡グリマー》が調理することがあると聞いたことがあります。ヤクモ様がそのようになさるなら、是非私にお任せ下さい。と、得意なんです! 《導燈者イグナイター》の方の分が必要な場合は承認も早く降りますし、そうお待たせすることもないかと!」


 《偽紅鏡グリマー》として役に立てない以上、他の部分で貢献したいという思いがあるのか、モカがはりきった様子で言う。


「そう、だね」


 随所に滲む《偽紅鏡グリマー》軽視の措置には頭痛がしてくるが、システムそのものをヤクモの一存で変えることは出来ない。歯痒いが、そんな力は自分には無いのだ。


「もしよかったら、料理を教えてくれるかな?」


 せめてもの抵抗として出来るのは、自分を曲げないことだけ。


 つぶらな瞳を白黒させたモカは、どう見ても戸惑っている様子。

 ヤクモは頬を掻きながら、微苦笑。


「僕らはその、壁の外で育ったんだけど、あまりまともな料理を食べられる環境じゃなくて。料理に限らず、壁内での生活に必要な技能に不安があるというか……だから、よかったらでいいんだけど、そういったことをモカさんに教えてもらえたら助かるなぁって思ったんだ」


 ぱちくり。長い睫毛が瞬きで揺れる。モカはゆっくりと咀嚼するようにヤクモの言葉を聞き、それでもやはり分からないのか、困ったような顔をしてしまう。


「あの、はい、私で良ければ。ですが、その……! こちらに住まわせて頂くわけですし、ただでさえ戦闘ではお役に立てないのですから、家事全般は私にお任せくださればと思うのですがっ」


 その方が合理的であるし、モカも役目が与えられれば幾分気が楽になるのかもしれない。

 だが。


「自分の面倒くらい、自分で看れるようになりたいんだ。お願い出来ないかな?」


 努めて柔らかく言ったつもりだったが、モカは恐縮してしまう。


「も、申し訳ございませんっ。私、その、出過ぎたことを言ってしまって」


「いや、僕がお願いしてる立場なわけだし」


「そんなっ、言ってくだされば私、なんでも致しますから」


 胸の前で両手を握るモカ。大きな胸の形がふにょん、と変わる。

 こんな時妹がいれば勢いで話を進行したりあるいは脱線させたりしてくれるのだが、生憎と今は気絶中だ。


「それじゃあ、その、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします」


 ぺこり、と頭を下げる。


 すると驚いた様子で「こ、こここちらこそ!」とモカがぺこぺこと繰り返し頭を下げた。


たゆんたゆんと、双丘が追従する。努めてそちらを見ないように頑張る。


「引き受けてくれてありがとう。正直、妹とこれからどうしようと不安だったんだ」


「え? あ、アサヒ様は《偽紅鏡グリマー》だから……」


 モカ同様、食堂は利用できない。自分一人で食事を摂ろうなどとは思わないが、そもそも兄妹揃って料理など出来ない。食えるよう処理することくらいは出来るが、それは料理とは違った。


「僕らはヤマト民族だから、頼んでも教えてくれる人なんて見つからなかっただろうし、モカさんがいてくれて本当にありがたいよ」


 こちらも充分以上に助かっているのだから、そう畏まった態度をとらなくてもいいのだと遠回しに伝えようとしたのだが、上手く行かなかった。


 モカは、今度は瞬きもせずに固まってしまう。じいっとヤクモの顔に向けられた眼は動かず、けれどヤクモが視線に耐えきれなくなる寸前になって――潤んだ。


 ギョッとするヤクモを置いて、涙が雫となって滴り落ちていく。 


「ご、ごめんなさいっ。急に泣いたり、なんか、して。気味悪い、ですよね。すぐに引っ込めますので」


「え、と。いや、気味悪いだなんて思わない、けど」


 困ってはいた。


 彼女が泣いている理由が分からない。その涙が、どのような感情を元に絞られているのかも。


 ヤクモは同年代の女性というものをアサヒしか知らない。だから、泣いている少女への対応もまた、一つしか知らなかった。


「……ヤクモ様?」


 ぽかん、とモカが不思議そうにこちらを見上げている。


「アサヒは……妹は、いつもこれで泣き止むんだけど。えぇと、何か間違ってたら、ごめん」


 席を立ち、彼女の頭をそっと撫でたのだ。

 ヤクモは家族がそれをしてくれると、痛みや辛さが和らいだ。妹も同じようだった。


 でも、他の人が、壁の中の人がどうかは知らない。

 けれど、泣いている少女を放置など出来るわけがなかった。


「……ヤクモ様は、どうして」


「え?」


「ヤクモ様は、どうして、そんなに優しいのですか」


 声が上擦ってはいるが、どうやら涙は止まったらしい。ずびび、と洟を吸うモカ。


「優しい……僕が?」


「はい」


 こくり、とモカは頷く。控えめな彼女にしては、あまりに堂々とした肯定だった。


 むず痒いものを感じながら、ヤクモは頬を掻く。


 優しい。

 そんなことはない、とヤクモは思う。というより、ズレている。


 ヤクモが優しいのではなくて、ヤクモの常識と壁内の常識が、違うだけなのだ。

 でもモカが感じたというなら、それは在るのだろう。自分の中に、優しさというものが。

 どうして、と聞かれれば、答えは一つだった。


「僕が、誰かに優しい行いを出来ているなら、それは」


「……それは?」


「これまで、誰かに優しくしてもらったからなんだろうな」


 またしても、モカは不思議そうな顔をした。彼女からすれば、壁の外で優しさなんてものに触れられるわけがない、という思いなのかもしれない。ヤクモもそう思う。だからこそ。


「その、壁の外にね、ヤマト民族の集落みたいなものがあって。僕の両親は壁外へ追い出されてすぐに魔物に食べられてしまったらしいんだけど、一人残された子供を、集落のみんなが育ててくれたんだ。日々魔物の脅威に晒されれている中で、子育てだよ? 僕が生きているのは、その人達の優しさのおかげ。僕が優しく振る舞えているなら、それは彼らの教えのおかげだ」


 ヤクモは彼らに報いたい。

 その為に壁の中へ来たのだ。


 両親を失ったという部分で、モカは僅かに表情を歪めた。苦しそうに。けれどその部分には触れてこない。彼女の方が余程優しい人間だ、とヤクモは思う。


「ヤマトの方は、みんな、優しい方なんですか」


「どうだろう。嫌なところも、そりゃああるけどさ。でも僕は、みんなが大好きだよ。大好きだから幸せになってほしいし、大好きだから馬鹿にされるのは嫌なんだ」


 それだけは、ハッキリと言える。

 モカはしばらく、ヤクモの目をじっと見ていた。


 やがて、こぼれるように微笑む。


「ヤクモ様は、凄いです」


「凄い?」


「あっ、お気を悪くされたなら……」


「大丈夫。ただ、凄いってどういうことかなって。なんだろう、あ、クリソプレーズさんとの決闘のこと? あれはアサヒのおかげだよ」


「そう、ですね。それに壁の外で生き抜いてきたということも。なにより……」


「なにより?」


「自分の考えを、たとえそれが周囲の常識と違くても口にして、貫き通すなんて、私にはとても出来ませんから」


 ネフレンとの決闘の件を言っているのか。

 モカは自分を恥じるように顔を赤くしていた。


「それは仕方のないことだよ」


「え」


「非理が平気で罷り通る世の中で道理を説いても意味が無いしね。言葉でどうにかなるなら、ヤマトの人間は外に追いやられたりなんかしなかっただろうし」


 古いヤマトの言葉にお天道さまが見ているなんてものがあるが、今はその太陽自体が目隠しをされている。天網が機能不全に陥っている以上、不条理が罷り通るのも無理はないのかもしれない。


「それでも訴えられずにはいられなかったというだけのことなんだ。ただ、それだけの」

 

 世界は変わらない。現実も。ただ、変わらないことを理由に全てを諦められるわけではない。


 譲れない一線というのは誰の心にも引かれていて、ネフレンがヤクモのそれを超えた為に声を上げたというだけ。


「やっぱり凄いです。私にはそういうものは、ありませんから」


「まだ見つかってないだけかも」


「…………そう、でしょうか」


「うん。きっとね」


「ヤクモ様がそう仰るなら、そうなのかもしれませんね。いえ、そうだといいなと、私は思います」


 花のように笑顔を咲かせる彼女を見て、ヤクモは一安心。


「そっか。……それで、さっきの涙の理由を聞いてもいいかな。僕に原因があるなら、謝りたいし」


 カァッと、今度は先程とは違う感じで顔を赤くするモカ。

 失言だったか、と焦るヤクモの前で、モカが消え入るような声で言う。


「ヤクモ様のお言葉が、その、とても、う、嬉しくて……」


 言われて、彼女が泣き出す直前の自分の言葉を思い出す。

 モカがいてくれて嬉しいとか、助かったとか、そんなようなことを言った筈だ。


「ひ、必要としていただけたのが、嬉しくて。うぅ……すみません、ヤクモ様は何も悪くないです」


 赤くなった頬を隠すように両手で挟みながら、モカは俯いた。


 ほとんどの《偽紅鏡》は、自分で魔力が作れない。

 だから、《導燈者》に必要とされるかどうかが運命を分ける。


 今まで性能のみで価値を決定づけられた少女が、一個人として必要されたなら。

 あぁ、それは涙が流れる程の、奇跡と言えるのかもしれない。


 掛ける言葉が見つけられず、二人の間になんともいえない空気が流れたその時。


「ぎゃあ! なんということでしょう! 兄さんの積極的なアプローチを前に気絶してしまうとは! 不覚! 不覚の極み! ……あれ、でもそれなら抵抗出来ない熟した果実に兄さんは獣欲を抑えきれずむしゃぶりついて――無い! 何故だ! ま、まさか――! ダメです兄さんそのおっぱいは贅肉に過ぎません真に女性に求めるべきは乳などというものでないのです!」


 ドタドタ音を立てながら妹が寝室から出てきた。



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