第13話◇風呂
モカの料理の腕は一流だった。
ヤクモはほっぺが落ちるとはこのことかと思ったし、モカに敵意剥き出しのアサヒさえ口いっぱいに頬張ってご満悦の様子だった。
モカは「そんなことないです……!」と恐縮しきりだったが、やがて「ありがとう、ございます」と頬を染めて賞賛を受け取ってくれた。
そして食後である。
「あの、お風呂の準備が整いました」
浴室に繋がる洗面所から、モカがひょいっと顔を出す。家事は任せてくれとモカが譲らないので、お言葉に甘えることにしたのだ。
リビングには上等なソファーが置かれているが、ヤクモは床に座って書類に目を通していた。訓練生とはいえ領域守護者。守るべき規則がある。
読み書きは一通り家族に習ったが、書かれていることがややこしくて首を傾げることも多い。
あぐらをかく兄の足元にぐでーんと上半身を乗っけている妹は、ヤクモより余程賢い。ところどころ彼女に尋ねながら理解していく。
毎度ご褒美を要求されるが、この程度ならば軽いスキンシップで満足してくれるので楽だ。
「あぁ、うん。ありがとうモカさん。僕はもう少し読んでおきたいから、女お先にどうぞ」
「そんな……! お二人より先に湯に浸かるなど出来ません!」
「そうですよ兄さん。巨乳の後にお風呂だなんて、溶け出した脂肪が浮いているに決まっています! それとも巨乳のダシが出たお風呂がいいと言うんですか!?」
「……む、無駄に大きくてごめんなさい……」
うるうると瞳を潤ませて胸を抱えるモカを見て、アサヒは「うっ」と言葉を詰まらせる。
「このおっぱい、まっことやりにくき相手よな……」
丸めた書類で妹の頭をぽかんと叩く。
「アサヒの言い方が悪いよ。いつも言っているだろう。言葉は――」
「心から湧き出る、ですよね。醜い言葉は醜い感情を、汚い言葉は汚れた心を晒すようなもの。分かっていますよ、兄さん」
「だったら――」
ふすぅ! と鼻息荒く妹は語り出す。
「わたしの言葉は全て、兄さんへの愛の証明なのです! 兄さんに近寄る雌共を追い払わんとする健気な妹心の表れなのですよ! そこは譲れません。たとえ兄さんに怒られても! 怒られるの、嫌いじゃないですし!」
そういえば、この妹は叱りつけても喜ぶのだった。
「じゃあ、次からは注意するんじゃなくて、しばらく口を利かないようにしよう」
「そんな……! わたしに死ねと申すか! 兄上!」
「そのノリはなんなの……?」
「サムライごっこです」
ヤマトの古い戦士の呼称だ。
まだヤマト民族が人類の役立たず筆頭ではなかった時代には、むしろヤマト民族と言えばサムライというイメージだったとか。
それが今や夜鴉だ。
「ではアサヒ殿、拙者は後で構わぬゆえ、先に湯浴みに向かわれるとよろしい」
「兄さんと一緒じゃないと嫌です」
サムライごっこは飽きたらしい。
折角乗ったのに。ちょっと恥ずかしかったのに。
咳払いで誤魔化す。
「いや、その話題を続けるとベッドの件と同じ結末を迎えると思うんだけど」
「いいえ、今日という今日は一緒に入ります! だって初日は一緒に入ったじゃないですか!」
横で聞いていたモカが顔を真っ赤にする。
「あわわっ。私、やっぱりお邪魔ですよね……!? あ、あの、お二人のお時間が終わるまで、外に出ていますので……」
「アサヒ。モカさんが誤解してるだろ」
「事実を口にしたまでですけど?」
確かに、こればかりは嘘ではない。
恥ずかしい話だが、ヤクモは浮かれていたのだ。加えて言えば、常識が欠けていた。
壁の外に風呂なんて上等なものは無い。水場は村から少し離れたところにあるので、飲水を汲みに行く時ついでに濡らした布で身体を拭うことはあったが、それだけだ。
そもそも常に魔物の危険伴う夜空の下で暮らしていて、水浴びなんて間抜けのすること。
だからヤクモは生まれてから一度も湯船に浸かったことが無かったのだ。
壁の内側へ足を踏み入れた日の夜、経験があるというアサヒが「家族は一緒に入るもの」と言うので、それを信じた。
翌日、話を聞いた師がゲラゲラ笑いながら「んなわけねぇだろ」と言うまで、ヤクモは騙されたことに気づかなかったのだ。
以来、妹とは別々に入浴している。風呂自体は至福の心地だが、毎度浴室に侵入を試みる妹を退けることで精神が疲弊し、素直に楽しめないのが悩みだ。
「うっう……可愛い妹のお願いを断るんですか? あの日は兄さんだって楽しんでいたじゃないですか。そう、あの日は……ほわんほわんほわん――『兄さん、お風呂に入りましょう』『お風呂……?』」
「アサヒ、アサヒ。回想に入らないで」
「『きゃっ、だめですよ兄さん。わたしたちは兄妹なんですから』『愛は止められないよ』『兄さん……! その通りですね!』」
「いやこれ回想じゃないな。妄想だな」
「そして兄さんはまだ発育途上の極めて将来性に富んだ妹の乳房に手を伸ばし――」
ぺこっ、と書類で叩く。
「にゅわんっ」
妹が変な声を上げて妄想回想を中断する。
「モカさんが本格的に誤解して湯気を上げてるから、妄想はそこまで」
ぷしゅう、なんて音がしそうなくらいに顔を真っ赤にしたモカが俯いている。
「や、やはり私はお邪魔では……?」
「えぇ、今更気づいたんですか?」
「うぅっ」
「……とはいえ、あなたの料理は絶品でした。兄さんとわたしの時間を邪魔しない限り、存在を許しましょう」
妹のなりに、彼女の同居を認めるという発言だった。
モカもそれが理解できたらしく、感涙の涙を浮かべこちらに近寄ってくる。
「ありがとうございます、アサヒ様!」
「えぇい、その無駄巨乳を近づけないでください!」
「あの、お二人とも、もしよろしければ私がお背中お流しします!」
「! 少し気を許した途端につけあがりおってー! なにで兄さんの背中を洗う気ですか! なにで石鹸を泡立て、わたしの兄さんになにをこすり付ける気ですか! おっぱいスポンジを使って兄さんを籠絡しようったって、そうはいきませんからね!」
「わ、私はそのようなことは、決して!」
「ちっ。仕方がありません。兄さんの入浴中はこの牛女を監視しなければなりませんし、わたしの入浴中に牛女が兄さんに媚びを売ることを防ぐ為にも……私がこの女とお風呂に入るしか。兄さんとわたしが一緒に入るのが一番ぐれーとでぱーふぇくとなのですけど」
「それは無いよ」
「あ、あのっ。わたし、頑張ってアサヒ様のお体洗わせていただきますから!」
「なんですかその拷問。彼我のおっぱい差を突きつけるつもりですか! この無駄巨乳め!」
戦力差的な何かだろうか。
「……む、無駄ですみません。縮められるものなら、すぐに縮めるのですが」
「きー! 持つ者は持たざる者の気持ちを理解しないという典型ですねあなた!」
「すみませんすみません……! も、揉まないでください!」
「縮めばいいんです! 型くずれしてしまえばいいんです!」
「アサヒ様! ひゃあ! どうかご勘弁を!」
目に毒なので目を逸らすべきなのかもしれないが、妹を止めなければならない。
ヤクモは妹を落ち着かせようと、丸めた書類を閃かせた。
ぽかんっ、と軽い音が響く。
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