第2話◇溺愛

 



「……百九十一……百九十二」


 寝室だ。

 造りのしっかりとした寝台に、くつろぎ空間を彩る落ち着いた色の調度品達。


 だが、それらに使用された痕跡はない。

 代わりに、部屋の隅に毛布が置かれている。


 ヤクモ=トオミネは右の五指を立てた状態で逆立ちし、腕立てを繰り返す。

 全体重を指の五本で支え、下ろしては上げる。


 どんな時、どんなことがあろうとも、刀を落としてしまわぬように。

 ドアがノックされる音がした。


「兄さん、朝ですよ。可愛い妹が朝をお告げします」


 甘く、柔らかい声だった。口に含んだらトロッと解ける、氷菓のような甘い声。そんな比喩が浮かぶのは、先日初めて氷菓を口にしたからだろうか。


「……百九十五……百九十六」


 いかに最愛の妹の声掛けであろうと、ヤクモの集中は乱れない。


「おや……? これはもしや、兄さんお寝坊さんですか? 妹による目覚めのキスが必要なんですねそうなんですねそうに違いありませんでは失礼して」


 音を立てずドアを開き、妹が入ってくる。


 腰まで流れる雪白の毛髪は雪の結晶を散らしたように美しく、夜の中に在ってさえ耀きを感じる。


 黒曜の瞳はまるっとしており、幼さが残るものの顔の造りはとても上品で、麗しい。


 胸部が平坦なのを本人はいたく気にしており、巨乳を見ると憎悪の目を向ける。


 純白の制服に身を包んだ少女は、名をアサヒ=トオミネといった。


 ヤクモの義妹にして、愛刀だ。


「……二百」


 左右二百ずつが終了し、ヤクモはスッと立ち上がった。汗の粒が散る。


「なぁんだ、やっぱり朝の日課中でしたか」


 がっくり、と妹が肩を落とす。


「気づいていたなら、目覚めのキスがどうこう言いながら入ってこないでよ」


「一縷の望みに賭けたのです」


 ヤクモが苦笑混じりに言うと、アサヒはむぅと不満げに頬を膨らませる。

 だがそれもヤクモの上半身を見て、恍惚の表情に早変わり。


 両頬に手をあて、うっとりと瞳をとろけさせる。


「兄さんの鍛え抜かれた、それでいて細身を維持した肉体……じゅるり」


 涎まで垂らす始末だ。


「……いい加減慣れたけど、やっぱり不思議なんだよな」


「なにがです?」


 こてん、と不思議そうに首を傾げる妹。それに伴って純白の毛髪がさらりと揺れ動いた。


「もちろん、アサヒの態度だよ。出逢った当初なんて、口も利いてくれなかったじゃないか」


「あの愚かな娘は死にました。今此処に、兄さんのお隣にいるのは遠峰朝陽トオミネアサヒです」


 キッパリ言い切る。どうも彼女の中ではそういうことらしい。


 十年前、アサヒとヤクモは出逢った。

 彼女が魔族に襲われた日、二人は剣士と刀になり、十年の時を掛け兄妹となった。


「それより兄さん、今日もベッドを使わなかったんですね?」


 ちらりと妹が視線を向けたのは、部屋の隅の毛布だ。

 此処に来てもう一週間になるが、いまだ慣れない。


「いや、柔らかすぎて落ち着かないんだよ。腐ってない木板の床ってだけで上等なのに、絨毯まで敷かれているし。ベッドなんてもう、違う世界みたいで……」


「まったく仕方ありませんねぇ。兄さんは昔からわたしの肉布団でないと眠れないんですもんね? わかりました! 本日から不肖アサヒ、兄さんと同じ床に――」


 仕方ないと言いつつ、アサヒの表情は輝いている。


「よく分からないし、よく分かりたくもない感じなんだけども、それを言うなら僕を布団兼枕にしていたのはアサヒの方じゃないか」


 都市の外は非常に寒い。極寒と言える程に。

 故に村落の人々は日々身を寄せ合って寒さを凌いでいた。


「だって兄さんは温かいんですもの。あれはきっと兄さんの心の豊かさの象徴ですね」


「もしくは体温かな」


「わたしの体温は、兄さんには不要ですか? 邪魔ですか? 無い方がいいですか?」


 途端にうるうると瞳を潤ませる妹に、ヤクモはたじろぐ。

 自覚はしているのだが、自分はどうにも妹に甘いようなのだ。


 とはいえ、ヤクモはもう十五の男児なわけで。妹とはいえ共寝するわけにはいかないだろう。


「アサヒ」


「はい」


「やっぱり、一緒には寝れないよ」


 ガーン! と口に出しながらアサヒは肩を落とす。

 この世の全てに絶望したような表情に心が痛むが、ぐっと堪えて続けた。


「けど、そんなことで傷ついたり落ち込んだりする必要はないんだ」


「あります……兄さんに必要とされないわたしなんて、もはや呼吸に値しません……」


 と言って本当に息を止めてしまう。


 頬が膨らんでいく。

 苦しそうだ。


「必要に決まっている」


「…………」


 ちらっ、とこちらを見上げるアサヒ。


「アサヒがいるから僕は生きているのだし、アサヒがいるから僕は戦えるんだ。なにがあっても、アサヒは大事な妹だよ。だから、僕が言いたいのは」


「兄さん! 愛しています!」


 ガバッと妹が飛びついてくる。少女特有の柔らかい肢体と甘い香りに体が包まれた。


 少女の目がぎらついていなくて、獣のように涎を垂らしていなければ狼狽えていただろう。


「……だから僕が言いたいのは、夜一緒に寝ないくらいで落ち込んだりする必要はないってことで……って聞いてないね」


「兄さん! 兄さん……!」


 人生に呼吸する価値を見い出せたようで、スハスハいっている。


「……あぁ、うん」


 出逢った当初の好感度ゼロも辛かったが、逆に最大値を振り切っている現状も困ることは困る。


 それでも拒否出来ないあたり、自分も大概妹を溺愛しているということなのかもしれない。


「折角の綺麗な制服が汗で汚れてしまうよ」


「汚してください! 存分に! 服に包まれたその奥まで!」


「僕は汚したくないんだって……それ一着しかないんだから、大切にしないと。今日は入校式なんだからさ」


 アサヒはヤクモの窘めるような態度を不満に思っているようだが、とにかくめげない。


「分かっていますよ。馬鹿ばっかなこの世界に兄さんというただ一つの至宝を晒す日ですよね」


「僕はたまに、アサヒからの期待を怖く思うよ」


「兄さんは自己評価が低すぎるんです。兄さんは世界一です!」


 妹の愛が大きい。


「でも、そうだね。世界一かはともかくとして、都市一位になるんだ。自分と、自分を信じてくれる人達を、ちゃんと信じないと」


「それでこそ兄さんです!」


 パァッとアサヒの表情が華やぐ。


 第三人類領域――《カナン》。

 それがヤクモとアサヒが今いる都市の名前だ。


 そう、現在二人は壁の内側、、にいる。

 妹と出逢った日以来の、大きな出逢いがあった。


 随分と少なくなってしまった家族を、それでも全員、救う方法を示された。


 それは、世界中の人間が無理だと嗤う道。


 保有魔法ゼロの《偽紅鏡グリマー》と、魔法適性が絶望的な《導燈者イグナイター》。


 全ての領域守護者が魔法を用い、魔力を纏って戦う中、最低限の常識にすら届かないコンビ。


 領域守護者育成を掲げる教育機関で年に一回行われる大会があった。

 誰が一番強いか。


 原始的で、単純で、野蛮にも高潔に映る、実力勝負の場。

 そこで、優勝すること。


 それが二人に課せられた条件。

 目指している間は、家族含め都市内で過ごせる。


 失敗すれば、壁外へ逆戻り。

 期限は今年中。


 領域守護者としての才能を持たない二人はされど、互いに何一つ疑っていなかった。


 兄/妹このひとがいれば、負けることはないと。



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