第43話

 携帯のロック画面にはやっぱりたくさんの通知を知らせるバッヂがついていた。それらは全て後回しにするとして、ちゃんと学校に行っていたときに使っていた美容室のページを開いた。

 明日の予約欄はあまり埋まっていないので、オープンする時間をタップして予約ページへと進む。

 三か月ですっかりそんな操作の仕方もぎこちなったものだった。予約確定画面に移ると、額面と日時が記載された画面に切り替わる。スクリーンショットを撮って、携帯を持って一階へ降りた。

 リビングの扉が少し開いていて、そこから家族の声が漏れだしていた。


「……でしょ、どうしてこうなったのかしらって思うのよ」


「子供にはどうしようもないよ。家族だって血が繋がってるってだけで、所詮は別の人間なんだから」


 咄嗟に扉から飛び退いて、二人の会話を盗み聞いた。どうやらお父さんはその場にいないらしい。携帯を握りしめたまま、リビングに入ることに踏みとどまってしまった。廊下に漂う冷気が指先を冷やしていく。


「お母さんね、本当にお父さんと結婚してよかったのかなって思っちゃったの。こんなことになるなら、何もかも無くなるならって。でも、本当に……」


 震えた声は既に聞きなれた。だけどやっぱり、後悔してしまうような言葉は聞きたくはなかった。握りしめた携帯の光が胸元で消えた。


「二人も大切な宝物が生まれてきてくれて、とっても感謝してる。お父さんが二人のお父さんでよかったなって、こんな私がお母さんになれてよかったなって、こんな時なのに思うのぉ……」


 子供のように泣くお母さんは、私を叱って抱きしめたときみたいな大人なお母さんではなかった。家族全員が今の家族を失いたくなかった。その気持ちだけはみんな同じだったんだ。

 お母さんもお父さんも、私とお兄ちゃんを宝物だと思ってくれている。そんな事実が嬉しくて、こっちまで涙が溢れてきそうになる。

 そんな涙を押し戻して、さも今降りてきました、という雰囲気を纏いながらリビングに入った。

 涙をぬぐいながらお母さんは振り向いて、お兄ちゃんは複雑そうに笑っていた。私は、上手く笑えていたのだろうか。


 スクリーンショットに提示されていた四五百円に対して、お母さんはなんと一万円札を出してくれた。「余った金額は好きなものでも買ってきなさい。しばらくぶりの外なんだし、せっかくだから寄り道しちゃってもいいのよ」なんて言って、おこずかいをくれた。

 こんなやり取りですら久方ぶりで、素直にその一万円札を受け取った。明日は本屋と画材屋さんに寄ろう。そんなことを思いながら、部屋に戻った。


 とはいえ。私の外出は家族にとっても衝撃的だっただろう。明日は日曜日で、学校もない休日だ。どうせ電車は乗らないが、地元の誰かには会うかもしれない。

 起きて扉に向かった瞬間に動けなくなってしまったらどうしよう。なんて思いながら、LINEを起動させた。

 グループや公式LINEの通知を返し切って、個人のLINEも仲の良かった子から順番に返していった。明後日から学校に行くかどうかは伏せながらではあったが、私にしてはかなり進歩したほうじゃないのだろうか。

 なかなか部屋に戻ってこないヨルンさんを待ちながら、ついに全てのLINEを返し切ったころにはすでに二十二時を回っていた。

 明日の予約時間は十時ぴったりから。明日も早いことを見越して、お風呂へと向かった。ごそごそと両親の寝室から聞こえた物音を背に、階段を降ると玄関にお母さんがしゃがみこんでいた。


「なにしてるの?」


「明日出かけるんなら靴出しとこうかな、と思って。このスニーカーでいいわよね? 明日も寒いだろうし、暖かくして行くのよ」


 取り出してきたのは見慣れたプーマの赤いスニーカーだった。最早夢の中でも履いていたこの靴に懐かしさはすっかり感じられなかった。

 だが、現実では見てこなかった自分のスニーカーは感慨深かった。こんなに分厚く見えていた扉を開けて、私は明日外へ出る。そんな当たり前なことにすら、私の家族は感動し、褒めてくれた。

 今までどれほどのことをしてきたのかを痛感した。心配ばかりかけて、こんなどうしようもない私を支えて、生きてほしいと願ってくれたお母さん。


「ありがとう、お母さん」


 にっこりと微笑み返して靴の埃を払ったお母さんの背中は、決して小さくはなかった。

 

 シャワーを浴びて部屋に戻っても、ヨルンさんはやっぱりそこには居なかった。

 こんなことは滅多になかったのに、なんて思いながらパソコンの電源を入れた。彼女の、栞さんの夢の下書きは終わらせておきたいと思った。時間もまだ二十三時には届いていない。

 零時までに終わらせて寝れば、余裕で起きられる時間ではある。

 ざかざかとラフを描いては消すことを繰り返して、栞さんの夢を表現することが難しいことに気付いた。

 彼女の夢は人生の旅だった。彼女の夢がどれだけのものなのかは、あの夢の時間ではあまりにも短すぎる。

 彼女を描く、ポイントみたいなものはなかったのだろうか。必死に思い返しながら、あの眩しすぎる夕焼けを背景にエールを送ってくれた栞さんの笑顔が浮かんだ。

 窓枠の中、大切に手紙を抱きしめる栞さんと、窓の外に四人の家族の後ろ姿を描いた。ヨルンさんは端の方で勿忘草の花束を抱えている。

 そんなラフを見て、ありきたりだと思った。どこか見たことのあるような絵。だけどこれが今の私の精一杯だ。自分の表現が浅くて、保存してからベッドへ身を投げた。

 天井を見上げながら、やっぱりヨルンさんは帰ってこなかったなあ、なんて考えながら、久しぶりに携帯のソーシャルゲームにログインした。

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