第41話

 そんな言葉と同時に光に包まれた彼女は、外にいる光と一緒に月の影に溶けて消えた。見ず知らずの私に心強い言葉を残して、幸せの象徴であるこの部屋で消えていった。もちろん、とっても幸せそうな顔をして。

 一秒先ですら何が起きるかわからないこの世の中で、そんな世界を面白いと言える大人はかっこいいと思った。私もそんな風になれるのだろうか。


 消えていった栞さんのいた部屋はがらんとした空室に変わった。あの手紙も跡形もなく消えていた。きっとあの不器用な旦那さんが迎えに来たのだろう。一等大切なものだけを持って、彼女は旅立っていった。

 白い月が照らす淡い光の中で、私はベッドを撫でた。まだ温もりが残っていた。確かに栞さんがいた証だった。


「都はまだできることがたくさんある」


 振り返ったヨルンさんは、初めて私の頭を撫でた。大きな手はお父さんほどごつごつしていなくて、細い指が髪を梳かしてくすぐったかった。


「私もあんなかっこいい大人に、なれますかね」


「なれるさ」


 ふ、と笑った彼はやっぱり絵画から切り取られたみたいだった。月明りに金髪が反射して光る。青の瞳は白色を吸収して輝きを増していた。


「まずは起きてきちんと布団をかぶるところからだな」



「くしゅんっ」


 自分のくしゃみで起きたとき、体は冷え切って手も足も冷たくなってしまっていた。そんな冷えのおかげか、起きたときの頭はやけにはっきりしていた。

 起き上がって部屋を見渡してみても、ヨルンさんはいなかった。今私がやらなければならないことは、途中になっている絵を描き上げることなのかもしれない。

 時刻は深夜四時を回って少し経ったほどだった。外はまだ暗いままで、あの窓から見えたような月明りは差し込みはしない。だけど栞さんの言葉を頭の中でリフレインさせながら私は頬を両手で強く叩いた。

 この瞬間でやることに意味がある気がして、私はベッドから素早くチェアに座り込んだ。パソコンの電源を付けてペンタブを引っ張り出して描き始めると、夢中になって画面の中で完成されていく絵に没頭していった。


 イッコちゃんの夢が終わるころにはもう朝の十時を回っていた。それから荻原さんの夢に取り掛かった。

 彼女の夢は唯一夢に出てこなかったアイテムを描き足した。楽しそうに空を飛び回った彼女に授けたのは、純白の翼。

 ヨルンさんが並走して飛んでいて、そんな彼にも真っ白な翼を足した。基本的に黒い彼に白の翼はアンバランスな気がしたが、この絵には翼が必要な気がした。

 荻原さんがいなくなったこの世界で、私はたった一つだけ誰も知らない事実を知っている。それがあの夢で起きた出来事なのだ。

 許せなくていいなら、私が脚色した夢になってもらう。描き込んでいった荻原さんは、私の記憶の中の笑顔とは違う、屈託のない笑みを浮かべていた。

 相変わらずヨルンさんの顔は見えないように構図を考えてしまったのは、やっぱり消える瞬間のヨルンさんの顔を見ていなかったからかもしれない。

 空と翼、荻原さんとヨルンさん。単純な構図のこの夢は、およそ六時間を経て完成した。

 

 小さな命の夢は、真っ黒な空間にきらきらと光が舞う背景に、ヨルンさんがあの光の玉を優しく抱きしめている、という構図だった。

 横顔は髪に隠れて見えてはいないが、口元は固く結ばれている。

 あの時吐いたヨルンさんの優しい嘘。それがあの子を守るためだったのはわかっている。

 それが正義だということも、頭では理解しているつもりだ。それでもあの子にとっての幸せはあんな暗い空間でもの胎内にいた短い記憶だけなのだ。

 また同じ母親に還って来たい。そんな願いが叶うかどうかは私が決めることではない。

 あの子が次に生まれてくるころは、きっと優しい世界が待っていますように。

 単純な構図だったこともあって、日が暮れた十九時を過ぎたころに完成した。


 トントントン、とノックが聞こえたときに、私はようやくこの一日何も口にしていないことを思い出した。

 胃袋はノックの音に反応して、ぐう、と音を立てた。もう驚きはしない。心臓も嫌な鼓動の加速はしなかった。扉を開けると、微笑むお父さんが立っていた。これは四人で囲む最後の食卓だと悟っていた。

 きっとこの離婚も、相当前から決まっていたのだろう。こんなとんとん拍子にお父さんの支度ができるとは到底思えなかった。


「お父さん」


 階段を降りるお父さんは足を止めて振り向いた。なんでもないように微笑むお父さんだったが、眼鏡の奥は赤く腫れていた。


「ごめんね。ありがとう」


 どうしてそんな言葉が出たかはわからない。だけど無性に伝えたくなったのだ。いなくなるお父さんは、いつまで経っても、なにがあっても私のお父さんだ。

 私を包んだのは、大好きだったお父さんの大好きで仕方のない香りだった。


「父さんこそ、ごめん。都の絵、何枚か持っていくから。電話もする。都が生まれてきてくれたことは父さんの誇りだ。ありがとう」


 震えたお父さんの声は、しっかりと私の鼓膜を震わせた。ぎこちなく腕を背中に回して、階段の途中で私たちは抱き合っていた。

 大切なものを手繰り寄せるように、決して離さないように。お父さんの抱擁は暖かくて、熱がこもる。そんな熱に、私は小さく微笑んだ。

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