第40話
私たちは彼女のベッドの脇に置いてある二脚の椅子に座っていた。私たちと反対側の窓の外を眺める彼女は、どんな絵画にも負けない美しさが伴っていた。
窓の手前に置かれたベッドの近くにはサイドボードが置かれていて、その上には古くなってはいるが、あのお葬式の時に詩織さんが握っていた手紙がそっと置かれてあった。
「そこにいるのはだれかしら。死神さん?」
窓を眺めていたはずの彼女は、ゆっくりとこちらに顔を向けた。白髪のショートヘアーは窓から差す光を受けて光っていた。しわくちゃの彼女にはトレードマークのそばかすと、垂れた目は学生時代の彼女とちっとも変わらなかった。
「まあなんでもいいわ。ゆっくりしていきなさい」
ふふ、と笑うと彼女は上半身だけ起こして座った。窓の外は最初の場面で見た夕焼けとよく似ていた。
その光は私にも見覚えがある。高校の美術室で部活中に見た夕焼けとあんまりにもそっくりで、その光を受ける日がまた来るのだろうかと不安が隠せない。
「お嬢さん。あなた、どうしてそんな難しそうな顔をしているのかしら」
そんな問いが私だということすら気付かないくらいに、ベッドに座る栞さんを眺めていた。彼女の儚げな笑顔は私を幾分か素直にさせた。
「……あなたは、幸せでしたか?」
ヨルンさんは私が話しかけても止めなかった。零れる夕焼けに照らされた彼女は、どの場面の彼女よりも美しかった。
「とっても幸せだわ。生きることが辛かった時もあったけど、それでもこんな年まで生きたのは、本当に幸せだったからねえ」
流れるように手を頬に当てて微笑む仕草を取った栞さんの顔は、どの時代の彼女よりも美しく思えた。
「あなたは、幸せではないの?」
小首をかしげながら、微笑みは決して絶やさない。そんな彼女の今までの軌跡を辿ってきたからこそ、私は思わず口を滑らした。
「これから先自分が幸せであったり、生きたいと思えるかわからないんです。それがとても、怖くて」
「あら。怖くてわからないから面白いのよ、人生は。重要なのはそんな怖い思いに立ち向かえるかどうかなのよ、お嬢さん」
そう笑った彼女は、サイドボードの手紙を手に取った。とても愛おしそうにその手紙を握って、ふわりと笑った。
「ちょっとこれ、読んでもいいかしら」
「ど、どうぞ」
ありがとう、と小さく呟くと、彼女は封筒の中から何枚かの便箋を取り出して視線を落とした。
その手紙の中身を、彼女はアルバムをめくるようにゆっくり時間をかけて読んでいた。彼女の人生は私が垣間見ている夢なんかでは到底感じることのできない苦悩もあっただろう。
私が夢で辿らなかった時間、彼女が彼女として生きてきた過去、これからは上へ登っていくだけの現在、そしてもう見ることはできない未来。
そのどれもが愛しくて、彼女にとっての最後の夢は、なんの変哲もない今までの道のりで。私にエールを送ってくれた彼女は、手紙を読み終えると大事そうに膝元へ置いた。
「この手紙はね、ラブレターなのよ。あの人ったら、最後の最後まで心配しちゃって。あの人がいなければ私の今がこんなにも幸せなことなんてなかったわ。でもあの人ったら、こんなに心配性のくせに私よりも先に逝っちゃったのよ。……お嬢さんの未来にはたくさんの出来事が待っているわ。そんな過去を抱きしめながら、あなたはこれからも生きていくのよ。誰かが居なくなっても、笑顔さえ忘れなければきっと素敵なことがたくさん起こるはず。今までも、これからも、きっとあなたは大丈夫。大丈夫よ」
なんの後悔もしていないような、吹っ切れたような顔をしていた。そんな栞さんだからこそ、私は最後の質問を投げた。
「栞さんに戻りたい過去は、ありますか」
「……そうね。あの時こうしていれば、なんて思うこともあるけれど、今の私が好きだから戻りたい頃なんてないわ。今の私は、過去の私たちが作り上げてくれたものだもの。こんな素敵なことったらないわ。これまでの私に感謝しているくらいよ」
学生の頃に呟いた「そのうちあの頃はよかった、なんて言う大人になっちゃうのかしら」なんてセリフは、言うまでもなく否定された。
先の見えない不安に打ち勝ちながら、栞さんはそんな過去も愛した。苦しみながら、もがきながら、彼女はその答えにたどり着いた。私もそんな風になれるのだろうか。
夕日が沈みだして、部屋はだんだんと薄暗くなっていく。終わりが近付いているんだな、と思った。自然と涙が頬を伝うのを感じ取れたのは、握りしめた両の拳に雫が落ちてからだった。
「今は何も許せなくていいのよ。でもね、これだけは覚えておいてほしいの。この世に絶望しても、何もかも信じられなくなっても、あなたの味方は見えないかもしれないけれどたくさんいるってこと。例えば、あなたの目の前にいるおばあちゃん、とかね」
いたずらっぽくウインクした彼女は、窓の外を見た。白い月が照らす部屋。窓の外には月とは別の光の玉が浮かんでいた。
最後にこちらを振り返った彼女は、泣いていた。微笑みながら泣く彼女の姿から目が離せなかった。
私たちから窓に視線を移すと、窓に向かって手を伸ばした。体はだんだんと光が溢れていた。
「遅いですよ、あなた」
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