第39話

「先生はどこ出身の方なんですか?」


「イタリアだ」


「いい所ですか?」


「とっても」


 明らかに異質な二人なのに弾む会話を聞きながら、この中で一番異質なのは私であるとようやく気付いた。

 明らかに私服の、しかも部屋着の私は学校という場所にはあまりにも浮きすぎている。ヨルンさんが教諭のフリをするというのなら、私は一体何者だと言い訳ができるのだろう。突っ込まれたらどうしよう、という心配は的中した。


「あなたは……、同じ学年にいたっけ?」


「あ、うん、忘れ物取りに来て、先生と話して、その」


 動揺する私に、ヨルンさんは下手くそなウインクをよこした。これで誤魔化せるのならそれでいい、とでも言いたそうだ。


「卒業して、私はこれからどうなっていくんだろう。あなたもそう思わない?」


「え、う、うん」


「ずっと制服を着ていられると思っていたのに、時間はとっても残酷だわ。そのうちあの頃はよかった、なんて言う大人になっちゃうのかしら」


 おさげを揺らした少女は、最後の空欄を日誌に書き込んで、微笑みながら日誌を閉じた。世界はくるりと一回転して、おさげの少女はスーツを着込む会社員となっていた。

 会社のデスクでパソコンを見つめる彼女は、相変わらず優しそうな目をしながら仕事をこなしている。こちらなんて見えてもいないように「清水しみずさん」「しおりちゃん」とたくさんの人に声をかけられているのに答えていた。

 常に彼女の周りには誰かがいて、彼女の独特な雰囲気に充てられて笑顔になっていく。


「あの人、すごいですね。優しさで周りを包み込んで、たくさんの人に好かれて、特別な人までできて」


「都にもできるさ」


「生きていれば、ですか?」


「先に言うな」


 彼女を取り巻くたくさんの人の中に、いつも遠目で眺めている人物がいた。それは彼女へ向けて特別な思いを秘めているのは、私ですら感づくほどのものだった。

 雑談をよそに世界は変わり、全面ガラス張りの綺麗なレストランだった。窓際の一番いい席に対面して座っているのは、可愛らしいピンクのワンピースに身を包んだ清水さんと、熱い視線を送っていた男性だった。ぴっしりとスーツを着込んでいるが、その顔はかなり緊張しているのか強張っていた。

 ヨルンさんはウエイターの格好をしていた。空気にでもなっておけと言わんばかりに視線が突き刺さる。誰にも見られませんように、なんて思いながら、清水さんの座るテーブルを観葉植物の陰から遠目で見つめた。

 ヨルンさんがデザートらしきプレートを配膳し終えたとき、男性は内ポケットから箱を取り出した。


「僕とっ……名字をお揃いにしてくれませんかっ!」


 あまりに大きな声はレストラン中に響いた。その場にいる人間の視線が一気に集中した。彼の名字は知らないが、指輪がなければ何を言っているかわからなかったかもしれない。

 ハラハラとその様子をヨルンさんと見守っていると、栞さんは目元を一度指で拭ってから、コクリと小さく縦に振った。

 お客さん全員がその様子に拍手を送る。微笑ましく可愛らしいプロポーズは成功に終わった。

 だがその指輪は清水さんにはかなりぶかぶかで、二人は笑いながらデザートを楽しんでいた。


 私とヨルンさんは、見知らぬマンションの天井近くの高さで浮いていた。ありふれたマンションの一室で、彼女は専業主婦となっていた。おさげができるほど長かった髪を切って、ベリーショートになっていたが優しそうな雰囲気は変わらなかった。

 そこには三人の子供がいて、小さい子供たちはみんなお母さん、お母さん、と話しかける。男の子二人と女の子一人の、三人兄弟だ。お父さんとなった彼は、そんな様子を微笑みながら見守っている。

 暖かい家族だと、素直にそう思えた。


 世界が変わると、子供たちは一気に大人になっていて、マンションではなく一軒家となっていた。

 リビングに座る栞さんは学生だった頃の面影を残しつつ、でも確実に年を重ねていた顔をしていた。私たちはそんな表情を天井付近で浮かびながら眺めていた。


「子供たちが自立していくと、やっぱり寂しいねぇ」


「二人でゆっくり楽しむ時間が増えたな」


「もう、何言ってるのよお父さん」


「はは、いいじゃないか。僕たちも随分年を取ったなあ」


 ほんわかとした二人の会話を、私たちは無言で聞いていた。二人の時間が長ければいいのになと願うも空しく、暗転した世界では、旦那さんのお葬式の場面だった。

 三人の子供たちがぼろぼろ泣くのに対し、彼女は常に笑顔を絶やさなかった。一通の手紙を握りしめて、子供たちの背中をさすっていた。


「お母さんのことは心配しなくていいのよ。お父さんもあなたたちを愛していたから、次はあなたたちがその愛を返してあげなさい」


 そんな優しい言葉に、また子供たちは泣いた。子供たちの傍にはそれぞれの子供が立ちすくんでおり、親を見上げてはどうしていいかわからないような素振りをしていた。棺の前に置かれた焼香の煙が立ち上る。


「あの人の夢もヨルンさんが担当したんですか?」


「その頃は別の地区にいたから、俺は知らないな」


 私が死ぬ時までに出世して、私の夢を守ってくださいね。そんな念を送ってみても、彼に届くことはなく、くるりと回った世界で彼女はベッドに寝たきりになっていた。

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