第38話
部屋に戻ったとき、カギに手をかけて、しばらく迷った。迷いながら、私はやっぱりカギをかけた。
「また、泣いたのか」
なんでも見透かしているようなヨルンさんの目は、どこか迷いを見せているようだった。
どうしてそんな顔をするのか、私にはわからなかった。だから私は笑って見せた。今できる精一杯の笑顔だった。
「やっぱり私に家族は救えなかったみたいです」
もう涙は出なかった。包帯の巻かれた手首は今更になって痛みを増してきた。それくらいいろんなことがあった。だんだん普通になっていったのだ。それがたまらなく怖かった。何が怖いかもわからないくせに、足場のない宇宙に放り出されたような気分だった。
「でも都はよく頑張った」
「いや、なにもできませんでしたよ」
「きちんと話せただろう」
ベッドに身を投げて、ベッドに置きっぱなしになっていた携帯の電源を入れた。LINEの通知は二百件を超えていて、背景に設定していたミュシャの黄道十二宮が映し出された。ソシャゲの通知もかなりたまっていて、通知アイコンがいたるところに着いている。
電話帳を開いて、お父さんの文字を確認した。ちゃんと登録されているお父さんの電話番号を見て、ほっとした。家族のつながりはこれから十一桁の数字のみに変わる。これを無くしてしまうとなくなる。そっとお気に入りボタンを押した。
久しぶりに開いたLINEは、クラスで仲の良かった子たちや部活仲間たちからの心配のLINEや、クラスのグループで埋め尽くされいた。
返信する勇気はまだない。だけどそのLINEの中身は私を心配する声ばかりで、私の悪口で埋め尽くされていることはなかった。
スリープボタンを押して、仰向けに寝転がった。白い天井が高く感じる。
「ヨルンさん」
「なんだ」
「私やっぱり、死にたいって気持ちを殺せないんです。こんなに友達から心配されているのに、連絡一つ返せない。臆病すぎて反吐が出ますよね」
「それが人間だ」
一点だけ見つめながら、体も視線も動かさない。ヨルンさんの姿は見えないが、咳ばらいが一つ聞こえた。
「生きているからこそ、だ。俺にはもう手が届かない」
ぼうっと見つめていた天井に、今まで描いた絵が浮かぶ、その絵を描いて、私はどうするのだろう。今度こそ死ぬのだろうか。
目を閉じると瞼の裏に浮かぶ家族や学校での私。今ですら生きることに精一杯で、上手く息もできないのに、これからも生きていかなければならないというのだろうか。
そんなの、残酷すぎる現実だ。
*
見慣れた白い空間にヨルンさんはいた。白すぎる空間に、ヨルンさんの黒すぎるスーツと金髪はあまりにも目立つ。最初にここでヨルンさんを見たときも、そういえばこんな顔をしていた。
驚いた目は青く光る。ヨルンさんの目つきの悪さも慣れたものだ。
「部屋の電気、付けっぱなしだったぞ」
「いいんです。夜中にそれで起きるかもしれないですけど」
「そうか」
手帳を開いて、ヨルンさんはすぐにぱたりと閉じた。ポケットに仕舞って、別のポケットから煙草を取り出した。
「ヨルンさんの他にも同じお仕事をしている人はいるんですか?」
「いる。数えきれないほどいるぞ」
「会ってみたいですね」
「それは都が死ぬ時だな」
ふ、と煙を吐き出したヨルンさんは、ぶっきらぼうにそう告げた。でも私が死ぬ前に見る夢は、ヨルンさんがいい。他の人に会ったこともないのに、そう思った。
死を軽く見ていたわけではないが、最後に逃げられるのは終わりを告げる死だと漠然に思っていた。死は最大の逃避行為なのだろうと。
その先に待っているのが地獄だろうが天国だろうが、はたまた無だろうが、なんでもよかった。
それでも結局死ねなかったのは、怖かったからなのだろう。一番先の見えないことだから。用意されたその先の世界が保証されていないのだ。怖くなって当然だ。
扉を開けたヨルンさんはなかなか寄ってこない私を不審に思ったのか、振り返ってこちらを伺っていた。
私が死んだらヨルンさんと同じ仕事に就ければいいな、なんて思いながら私も扉をくぐった。
見慣れない古びた校舎に夕日が差し込んでいた。廊下を進み、板張りの教室へ踏み出す。両サイドを三つ編みにした女の子がセーラー服に身を包んでいた。ノートか何かにペンを必死に動かしていた。
「日誌は捗っているか」
「えっ?」
急にヨルンさんが話しかけるものだから、おさげの女の子は驚いてこちらを見上げていた。垂れた目が大きく見開かれている。そばかすの目立つ顔は、夕日に照らされて赤く染まっていた。
「あなたは、誰、ですか?」
「来年度から赴任する英語教師だ」
あ、嘘ついた。咄嗟にヨルンさんを見上げると、相変わらず無表情でつかつかと女の子に近付いていった。そして女の子の前の席に腰かけた。私もそれに倣って、その女の子の隣の席に座った。
「そっか、じゃあ私は先生に教われないんですね」
「そうだな」
「いろいろあったなあ、この三年間」
懐かしむその顔は、学生生活が本当に充実していた顔そのものだった。優しそうに微笑みながら、書きかけだった紐で閉じられた日誌を撫でた。
「あとは卒業式だけなんて、あっという間でした。瞬きをしてすぐに終わってしまったみたい。友達とも離れ離れになって、きっともう会うこともないんだなと思うと、寂しいですね」
そう語る彼女の横顔は、淡い夕日に負けないくらい儚げで、今にも消えてしまいそうに見えた。
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