第36話

 お父さんは私の問いには答えず、顔を歪ませるだけだった。それ以上、私たちの間で会話が生まれることはなかった。

 そうしているうちにお父さんは紅茶のマグカップを持って、足早にリビングを出ていった。そんな様子をただ見守ることしかできなかった。

 これからどうすればいいのか、ちっともわからなかった。お母さんの傍にいてあげてほしい、なんて、口で言うのは簡単だ。

 だけど、一緒にいて何ができるというのだろう。生まれ育ったこの家を、思い出を全て置き去りにして、お父さんは新しい生活を送る。それに対して駄々をこねているのは紛れもない私だ。

 フラフラとお茶の片づけを済ませて、私専用のお茶のボトルを持って部屋へ戻った。

 心の中で暴れまわるのは、悔しい感情と死にたい欲求だ。私の中を暴れて、壊して、叫ぶ。見慣れた部屋も、しっかりかけられたカギも、ふわりと浮かぶヨルンさんも、そこにある普通は用意された普通なんかじゃない。

 なら、私がこうして生きている普通は、誰のわがままなのだろう。


「生きるって、何なんでしょうね」


「最後まで生きなければ、永遠にわからないことだ」


「……私には自信、ないな」


 チェアに座って、私はいつものようにペイントソフトを立ち上げた。

 イッコちゃんの夢が鮮明に思い浮かぶ。泣き叫んだイッコちゃんを抱き上げたヨルンさん。あの時の顔も今は思い出せないけど、きっと優しい顔をしていたんだろうな。ラフの絵を描いて、一旦ペイントソフトを閉じた。

 四時を回ったパソコン上の時計を見て、うんっと伸びをして新規キャンパスを呼び起こした。そして、手が止まった。

 次の夢は、荻原さんと空を飛んだ夢だった。私は彼女をきちんと描けるのだろうか。彼女が生きた証なんて、残せるのだろうか。

 深呼吸をするようにTwitterへログインした。学校終わりの学生がタイムラインを埋め尽くしている。しばらく更新していなかったのに、通知欄は五十件を超していた。今までアップしていたイラストたちが少々注目されていたらしい。

 単純に、嬉しかった。だけどそれでは満たされなかった。今までならこんなにも注目され、綺麗だと褒められることが生きている上での最大の喜びだったはずだ。

 でも今必要なのはネットの海から上がった飛沫なんかじゃなくて、現実に住む人間からの小さな反応だけなのだ。それも、最も近しい人間である家族というコミュニティからの。


 データから呼び出したのは、あの少年の夢だった。満たされない心をなんとかいっぱいにできるように、画像を選択して何も呟かずに投稿した。アップされた投稿は自ずと一番上に映し出される。

 私の小さな創作心を満たしていくTwitterの中で、私はもがいた。誰か息をさせてほしい、と強く願う。その心を汲み取るように、ハートが増えていく。通知欄が埋め尽くされていく。そうして、初めてのコメントが来た。


『ルナさんのイラストの中で、一番幻想的で美しいものだと思いました』


 そんな反応に、私はようやく腹をくくった。

 描こう。どんな人の生き様だって描いてやる。描いて描いて、最後は私も幸せな夢を見て死んでやる。


 下書きだけを終わらせて、昨日見た夢の景色の下書きも終わらせた。そして、私はイッコちゃんの清書へと入っていった。

 イッコちゃんの夢の最後はおもちゃ屋さんだった。あんなに怖いお母さんでも、イッコちゃんは手を引かれながら笑って消えていった。

 可愛らしいおもちゃが並ぶウィンドウ。手を引かれながら振り返るイッコちゃんの視線の先には、やっぱりヨルンさんがいる。アンバランスだなあ、なんて思えなかった。

 それが自然に見えて、ヨルンさんの後ろ姿に、あの時の顔がフラッシュバックした。あんな表情をしていた彼の顔と、あんな態度だったイッコちゃんのお母さんが物語っていた。イッコちゃんはきっと、幸せな家庭を知らないのだろう。

 あんなに短い生涯の中でも、彼女は小さな幸せを見つけ出してはあんな風に笑っていたのだろう。


「あの女児は、ちゃんと上へ登れた」


「私が描いてるときに話しかけてくるの、珍しいですね」


「子供は好きだ。気がかりで上に確認したりもしたんだ。一応、知っている身の都にも伝えておこうと思って」


「……ありがとうございます」


 ヨルンさんの話のおかげか、イッコちゃんの顔はより一層幸せなものへと変わった気がした。彼女はすごい。子供特有のあの幸せそうな顔は、きっと忘れられない。

 私もいつか子供を持つときが来るのだろうか。そんなときを生きて迎えることが、できるのだろうか。

 背景であるおもちゃの棚は、女の子が好きそうなアニメのものやぬいぐるみなどをふんだんに飾った。あの子がどんなものが好きだったのかはわからないけど、今頃こんなおもちゃたちに囲まれていればいいな、という願望も込めた。

 背景が細かすぎて少し手こずったが、半分ほどの着色が終わったところでご飯の合図がやってきた。今日も、きっと三人だけの食卓だろうと向かうと、テーブルにいる面々に固まった。


 いつぞやぶりの、での食卓に心臓が一気に鼓動の速度を上げた。

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