第35話
さっきの寝ぐせのままだったお父さんは、また私から視線を外して階段を指さした。
「リビング、行かないか」
黙って頷くと、扉を閉めて後ろ姿を追いかけるように階段を降りた。最近家族と個別で話すことが増えた。こんな状態じゃなければ、今日も平和だと思えただろう。
リビングの扉の向こうには、もちろん誰もいなかった。この家にいるのは私とお父さんだけ。お父さんはソファに座って、私は地べたに座り込んだ。
お父さんは座ったと思えばいそいそとお茶の準備をしていた。ただ、紅茶を淹れるなんてことはお母さんの分担だったせいで、どこに何があるかわかっていないらしい。キッチンでいろんな扉を開けては閉めてを繰り返していた。
そんな様子を見兼ねて、私はお父さんの立つキッチンへと向かった。ティーパックとポットを戸棚から取り出してお湯を沸かす。そんな様子を眺めながら、お父さんは小さく「すまん」と呟いた。
一気に手持無沙汰になったお父さんは、唯一わかるマグカップを二つ取り出して、ソファの前にあるテーブルに置いてまたソファに座った。
ティファールが湧けたぞ、とボタンがカチリと戻ってきた。ポットにお湯を注ぐと、耐熱ガラスでできた透明なポットの中をパックが泳いだ。パックから染み出てくる紅茶がお湯の中を揺蕩い、燻る。
ポットを持ってソファに座る。紅茶は数分蒸らすと美味しいのよ。そんなお母さんの話を思い出して、すぐには注がずに色が濃くなっていく紅茶を眺めていた。
「多分母さんから聞いたとは思うんだけどな」
「……離婚、するんだよね」
ポットを掴んで、お父さんがお茶を注いでくれた。その様子を、まるでテレビを見るような感覚で眺めた。本当に私の人生で起こっている出来事なのだろうかと不思議になる。
す、と差し出してくれた紅茶を受け取った。それも口は付けなかった。お父さんは黙って淹れたての紅茶を一口飲んで、マグカップを置いた。そしてこちらをじっと見つめて、優しい笑顔を浮かべた。
「こうなったのは、父さんのせいだ。昨日母さんに怒られたよ。都がどんな気持ちで見ているかわかってるのって。子供はなんでも見ているって、本当にそうだと思う。本当に、すまないことをした」
暖かいカップはだんだん熱さを増していく。カップを持つ手もじわじわと熱くなっていく。カップを机に置いて、これまでのことをしばらく考えていた。
決して良好とはいえなかったお父さんとの関係。引きこもり始めてからはもっと悪くなっていった。どんどん歯車が合わなくなっていったのは、私だけではなかった。
お父さんもカップを置いて、ソファから地べたに座って私に向きなおった。正座状態のお父さんは、頭を下げた。俗にいう、土下座だった。肩が小さく震えている。
「今まで本当にすまなかった。父さん、都のことなにもわからなかった。母さんに昨日言われるまで、本当に何も知らなくて。仕事も上手くいかないし、母さんとも上手くいかなくて、そんな時にお前が閉じこもってしまって……。いっぱいいっぱいだったんだ。本当に、ごめんなさい」
頭を下げ続けたお父さんの声は、確かに震えていた。呆けっぱなしの私は、ドラマや映画でよくあるセリフを口走ることしかできなかった。
「頭、あげてよ……お父さん。お願い、だから」
「まだ俺のこと、お父さんって呼んで、くれるのか?」
眼鏡は涙で濡れて、鼻水も垂れて、顔全体がぐちゃぐちゃのお父さん。それでも無理に笑って、私の頭を小さく撫でた。大きな手は熱くて、その温もりにいつまでも触れていたい。それは叶わない願いと知っているけど。
「都。お前は、お母さんのそばにいてあげなさい」
私の頭から手を離して微笑んだお父さんは、あんなに怖い雰囲気なんてまとっていなくて、むしろ思い出の中で優しく私を褒めてくれたお父さんそのものだった。でもお父さんは、私と一緒には居たくない。そういう、ことなのだろうか。
眼鏡を取ってTシャツの裾で拭きながらお父さんはもう一度口を開いた。
「確かに俺たち四人家族は、今週末で父さんは欠けてしまう。でもな、都。なにも一生会えなくなるわけじゃない。この町からお父さんは出ていかないし、都が望むのなら住所だって教える。都は優しくていい子に育った。だから人一倍痛みを感じやすいし、母さんと似て溜めやすい。そんな都だからこそ、母さんを支えてやってほしいんだ。父さんは一人でも、やっていけるさ。だから心と二人で、母さんを支えてやってほしい」
お父さんの真剣な顔は、今までになく本気だということを物語っている。私にもお兄ちゃんにも、二人はこんな大切なことを、どうして。
二人揃って話してくれないんだ。
「どうして……?」
お父さんが妙にすっきりした顔に向けて、私は強く唇を噛んだ。家族がバラバラになってしまった事実も、お父さんが出て行ってしまうことも、全て仕方ないと思うことにしたはずだ。
でも。私の気持ちはまだ、置いてけぼりだ。そんな簡単に家族を諦められない。
「どうして二人は、二人揃って私達に話してくれないの? 私が、引きこもりだから? お父さん、言ったよね。私の絵はゴミだって。これしか持っていなかったのに、お父さんに否定されたら私、どうしたらいいの? お父さんとお母さん、どっちも好きなのに……。どうして諦めなきゃいけないの……?」
「都も、もう十七歳だ。今年で十八になる大人だ。だから、分かってくれ。本当に、すまない……」
また情けなく涙を流すお父さんに、もうかける言葉は見つからない。せっかく淹れた紅茶は湯気を失っていた。
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