第34話

 あの空間でしばらく一人で過ごしていたが、強烈な光が世界を覆ったところで目が覚めた。昨日カーテンを少し開けたせいか、気付けば窓から差し込む光が恨めしい。上半身だけ起こして壁の時計を見ると、なんと時刻はまだ朝の九時頃だった。


「おはよう、都」


 夢の中でのあの泣き顔はいずこへ消えたのかというくらい、無表情なヨルンさんがふわりと浮かんでいた。


「おはようございます。珍しく早起きしちゃった……ふわぁ」


 大きなあくびをひとつ吐くと、首をぐるりと回した。ポキポキ、と骨の鳴る音が朝の気怠さを醸し出していた。こんな時間に起きることは、とっても久しぶりだったせいでいくらか気分は良かった。

 どこまで続くのかわからない生活に、私もヨルンさんもいよいよ慣れてきた。そこに浮かぶ彼も、私に黙視されるくらいでは驚かないだろう。


 しばらく布団の温もりを享受していたが、体が起きてしまえば生きるために体を循環して、さらに老廃物を出すというサイクルが働きだす。

 観念したように布団から出て、部屋の前にあるトイレに行こうとすると、顔に衝撃が走った。


「わっ、ぷ」


 懐かしい香りがした。もう長い間包まれていない、大好きなあの香り。


「……ごめん」


 降ってきたのは、お父さんの声だった。もう何も会話することなく出て行ってしまうのではないかと思っていた。まだスウェットにトレーナー姿のお父さんの頭は寝ぐせでいっぱいだった。

 お父さんの顔は見れなかった。あの不機嫌そうな顔だったらどうしよう。取り繕うように何か言わなければ、とあたふたしてしまう。


「あ、いや」


「今日は」


 遮られた声に驚いて思わず顔を上げた。眼鏡の端を指で持ち上げ、お父さんはわざと私から視線をずらした。


「家に、いる」


 そう言い残して、お父さんはさっさと階段を降りていった。心臓の高鳴りが、体のサイクルを邪魔してしまったように、私は扉の前に立ち尽くしていた。大きかったはずの背中は、お母さんのか細い背中とよく似ていた。

 しばらく立ち尽くしてはいたものの、結局トイレを済ませて部屋に戻った。朝の時間に階段の下へ降りていくのは、とても気が引けて思えた。それくらい頭の中はぐちゃぐちゃだった。


 扉を閉めて、カギも忘れずにかけた。昨日は閉め忘れたおかげであんなことが起きたが、まだこのカギを開けっぱなしにできるほどの余裕はない。

 今日はお父さんが家にいるのか、と息が細くなっていきそうだった。またこの間のように怒鳴られてしまうのだろうか。それとも、会話もなく一日が過ぎていくのだろうか。

 もう一度布団の中へ戻る。まだ私の体温を持ったままだ。頭の先まで布団で覆って、手を強く握り合わせた。ぎゅっと目を瞑ると、寝ぼけた頭ももう一度眠りの準備を始め、私はそのまま睡魔に手を引かれて、身を任せた。


 目の覚める合図は、トントントン、と三度のノックだった。はっと目が覚めて、はるか昔に交わした約束の合図そのものだと瞬時にわかった。

 このノックは、私とお父さんとの秘密の合図。小学校高学年で一人部屋をもらったとき、お父さんと決めた約束。


「このノックがしたら、都にきっといいことが起きる。それはお母さんや心には内緒で、だ。だからこのノックがしたときはお父さんだと思って開けてほしいんだ」


 思い出の中のお父さんが、大きな手で私の頭を撫でた。約束した合図は、家族の誰かと喧嘩したときに必ず響いた。お父さんと喧嘩して口をきかなくなったときは、一日も待たずにそのノックが響いたこともあった。

 ドアを開けて待っていたのは、頬を掻きながら困り笑いしていたお父さんだった。そして決まって、美味しいご飯を食べに連れて行ってくれた。時にはケーキを用意して、一緒に食べてくれた。そんな優しい思い出たちが溢れ出る。

 

 時計を見るとお昼の一時を回っていて、ノック以降は秒針が動く音だけだ。部屋の前に、お父さんはずっと立ち尽くしているというのだろうか。

 また、怒鳴られてしまうのだろうか。

 忍び足でドアの前にやってくると、耳をそばだてた。するともう一度、トントントン、とノックが優しく響く。あの時のように、激しくドアを叩くのではなく。


「都、ちょっと、いいかな」


 気弱そうに、耳を澄まさなければ聞こえないくらい小さく、お父さんの声は部屋へ届いた。一歩だけ後ろに下がると、ぱたりと足音を鳴らしてしまった。

 向こう側に聞こえたのだろう。もう一度ノックが響いた。


「な、なに?」


「この間は、ごめん。お父さん、カッとなって酷いこと、言ったよな。ほんとうにごめんな。顔、見せてくれないか」


 ドアノブに目線を落とす。勝手に開けようとガチャガチャしたりなんかはしていない。ただ、向こうで声をかけているのは本当にお父さんなのだろうか。

 あんなに怒鳴って、お母さんに手をあげていて、酷い言葉ばかりを吐いていたお父さんとは思えなかった。

 でも私にとってのその変化は、素直に嬉しかった。こんな風じゃなければ。お父さんと話す機会がもっとあれば。こんなこじれることもなく、幸せな家族を続けられただろうか。

 意を決してカギを開けてドアノブに手をかけた。大好きだったお父さん。今だって、お父さんが大好きだ。その気持ちに嘘はない。

 ドアを開けると、面食らったような顔をしたお父さんがいた。眼鏡の奥にある目が潤んで見えた。

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