第32話

 夕飯をぺろりと平らげたあと、お母さんはゼリーを出してくれた。詰め合わせセットの箱の中から、私は白桃を選ぶとお兄ちゃんは「俺も桃がよかったなあ」なんて呟きながら、みかんのゼリーを手に取った。お母さんは何も選ばずに、神妙な面持ちで私たちがゼリーを口に運ぶ様を見守っていた。


「二人とも、話があるの」


 口を開いたお母さんは、微妙に気まずそうで、でもどこか吹っ切れたような顔をしていた。夕方に見せた辛そうな表情でないのは、私にその心境を話せたからだろうか。私もお兄ちゃんも手を止めて、お母さんに視線を注ぐ。


「お母さんとお父さんね、離婚……しようと思うの」


 ぐっと眉に力がこもった。お母さんもその言葉を口にしたとき、表情が強張って私とお兄ちゃんを交互に見やる。でも、仕方ないことだろうと思った。既に聞かされていたとはいえ、修復することは不可能だと悟ってしまっている。

 この先何を聞いても、夕方ほどの動揺はないと思う。


「あなたたちがお父さんに着いていくならそれでもいいわ。ここに残るのでも、構わない。二人は、どうする?」


 沈黙が痛い。離婚、という言葉を直接聞くと、どうすることもできないのかと泣いてしまいそうになる。まだまだ至らない子供のせいで、何も守れない自分に腹も立つ。

 仕方ない。その言葉で片づけられたら、どれほどよかっただろう。思わず俯いて膝の上で拳を握った。

 どちらに着いていく、なんてわかりきっている答えだった。だけど、それを選ぶことが正解なのか、わからない。


「俺は」


 最初に沈黙を破ったのはお兄ちゃんだった。はっと顔を上げると、まっすぐお母さんを見つめるお兄ちゃんの顔は、どこか覚悟を決めていた顔だった。


「俺はなんとか家族を修復させるために帰ってきた。それが出来なかったのは、俺の落ち度だ。二人がそう決めたんなら、それでいいんじゃないかな。母さんだけの収入だけじゃ不安だろ? 俺が助けるよ」


「心……」


 少し震えたお母さんの声が、夕方の出来事を思い出させる。ここ最近で救われているのは、紛れもなくお母さんの気遣いによるものだ。でも、私はお兄ちゃんと違って家の経済状況を助けてあげられない。

 そもそもまだ高校生で、十七歳で、子供すぎる私がこの家にいてもいい理由なんてあるのだろうか。


「俺がこの家を守るよ。もちろん、残るのなら都だって。俺は都のお兄ちゃんだからな」


 優しく私の頭を撫でたお兄ちゃんは、目に薄く涙を溜めていた。こんな状況になっても、お兄ちゃんは優しい。その優しさが、今は痛い。


「私、は」


「今すぐに答えを出さなくていいのよ。お父さんが引っ越すのは今週末の話だし、それまでにお母さんに教えてくれたらいいから」


 お母さんはにこりと笑って、自分の分のゼリーを選び取った。フィルムを外して、一口頬張ると「おいしっ」とまた笑って見せた。

 それに倣って、お兄ちゃんも最後の一口を食べ終えて、手を合わせた。もうお腹も胸もいっぱいだったけど、残してしまうのも勿体なくて残りをかき込んだ。

 ゼリーの容器を捨ててリビングを後にすると、すぐにお母さんの嗚咽が聞こえた。唇を強く噛んで耳を塞ぎながら部屋へと戻った。


 自室に戻って部屋を見渡してみた。何も変わらない、私だけの世界。世界でただ一つの居場所。この居場所を手放す? いやいや、冗談じゃない。ならお父さんはどうでもいいのか?

 もちろんそんなはずない。切っても切り離せないのが家族なのだから。

 デスクに突っ伏して、これから先の未来を考えた。どちらに着いても、一人欠けてしまっている家族。それを受け入れることが、私にできるのだろうか。

 揺れる心は方向性を失ってフラフラと寄り道を繰り返す。私は何も守れなかった。その現実から逃れるように、私が大人だったら、なんて考えたりもした。

 顔を上げて、スリープ状態だったパソコンを起こす。なんのキャンパスも開かれていない状態で、ペイントソフトが立ち上がりっぱなしになっていた。

 下書き状態で保存してある、猫の夢を立ち上げて線画へと移った。薄暗い路地裏、段ボールで丸まってこちらを見つめる三毛猫。と、その隣に手帳を開いたヨルンさん。手帳で顔を隠して、でも目線は猫に向けた、そんな構図だった。

 動物を描くのは久しぶりだ、とペンを走らせる。線画が終わり、着色を進める。

 何かを考える隙間を与えないように、何かを考える余裕をなくすように、ひたすらペンを走らせた。


 猫の寿命は、およそ十六年ほどだ。人間が八十歳まで生きるとしても、四分の一も生きられない。そんな中であの猫は最後まで野良として生きて、ねぐらにしていた段ボールに丸まって消えていった。

 街を練り歩き、大好物だったであろう猫缶を食べ、公園で猫の集会に参加して、可愛らしい鳴き声と共に消えていく。彼にとってのただの日常。その中にどれほどの幸せがあったというのだろう。

 そこに、どれほどの価値があったのだろう。

 生死を説くほどできた人間ではない。だけど彼はきっと満ち足りた生涯を送った。だから消えた。成仏したのだ。背景のブロック塀をちまちまと塗るころには、泣きすぎた目が限界を訴えかけていた。

 今日は、一体どんな夢を見るのだろう。そもそも私は今日も夢を見るのだろうか。布団に潜りながら、ヨルンさんの声が静かに響いた。


「おやすみ、都」

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