第31話
少年の夢。アカリさんの夢。喋る猫の夢。迷子になっていたイッコちゃんの夢。そして、荻原さんの夢。
どの夢の主人公も、この世にはもういない。
だからこそ、見てきたからこそ。完成させた少年の夢の絵のように、完成させてあげられれば。それが彼らの生きた証になるのではないだろうか。
それはかなり傲慢なことなのかもしれない。人の人生をわかってあげられるほど達観した人間でないことは、自分でよくわかっている。
それでも会話したり、時には助けになってあげたりもした、たくさんの夢の主人公たち。そんな人たちと出会えたから、死ねなかったのかもしれない。
そう思って必死にペンタブレットのペンを走らせた。時折聞こえるキーボードのコマンド入力と、板に走らせるペンの独特の音が響く。
「人はどうして、死をわかっている状態で生きなければならないんでしょう」
画面から目を離さず、手も止めずに呟いた。
人は生まれたときから死ぬことを知っている。だからいつだって死は隣りあわせ。だけど何人がそれに気付いているのだろう。
明日も明後日も、きっと同じように朝が来て、同じような一日を過ごして、そして眠る。そのサイクルの中で、死を意識することなんて滅多にない。それこそ、この平和な日本では特に。
アカリさんはこの絵では笑っている。ネオン街のど真ん中で、素敵なドレスに身を包んだアカリさん。その手には、あの時手にしていたシャンパングラスを手にして、その隣にはやっぱりヨルンさんがいる。
どういう経緯で死んでしまったかはわからないけれど、あの長袖のドレスの中に隠してしまったアカリさんの傷を知ることはもうできない。
「人に与えられた罰だ」
長い沈黙の末に、ヨルンさんはようやく呟き返した。
「それは、宗教のお話ですか?」
「違う。今となってはこんな仕事をしているが、俺が生きていた頃は無神論者だった」
「無神論者って、説得力ないですね」
「俺もそう思う」
夜の帳、ネオンの煌めく新宿は、アカリさんにとってのステージだったはずだ。月明りをスポットライトにして、彼女はドレスを身にまとう。
完成した絵は、死んでしまったとは思えないほど生き生きとした、一人のお姉さんだった。
現実世界もすっかり夜となり、時刻は二十二時をすこし回っている。あのネオンを思い出しながら、私は窓を見やった。ベッドの向こう側にある、拒絶した世界。
その世界は、この数日で少しだけ見方が変わった。自分の部屋以外の世界をたくさん見た。どうしようもない世界だけど、死んでしまったからこそこの世界の先を知ることはない彼らの代わりに、現実を垣間見るのも悪くないかもしれない。
ベッドに乗りあがって、普段は閉め切ってあるカーテンをちらりと開けた。もちろん外は真っ暗で、反射して映るのは鬱陶しそうな前髪を携えて目の腫れた私だけだった。
「珍しいな」
声が後ろから降ってくる。私の後ろに映ったのは空中で座って手帳を開いてこちらを向くヨルンさんだった。顔を動かしたことで、金色の髪がさらりと揺れた。さっきよりも随分と穏やかな顔をしている。
窓に手を当てると、かなり冷え切っていて外の冷気を含んでいる。それが熱を持った手には心地いい。
「今まで出会ってきた人たちは、こんな世界でも笑って消えていきました。こんな窓一枚で隔てた部屋の向こう側の世界を、きっと愛していたんだなって思うと、なんていうか……」
「興味が出てきたのか」
「もともと私も住んでいた世界ですよ」
まだこの窓を開ける勇気はない。踏み出していける余裕もない。それでも、私はこの向こう側の世界に思いを馳せた。
たくさんの人が繋がりながら作り上げた世界。そんな世界を、私はまた信じることができるのだろうか。ぐっと唇に力を入れて、誰も通らない通りを眺めていた。
トントン、とノックの音を合図に、私は窓から手を離してさっさとベッドから降りる。あんなことがあっても、しっかりカギを閉めていた。
ドアへ向かう途中、ヨルンさんのほうへ振り向くと目が合った。ふわりと微笑むヨルンさんに、私も微笑み返した。カチャリと小気味のいい音と共に、ドアノブに手をかけて廊下へと出た。
いつまで続くかわからない夢での冒険が、できればこの先ずっと、私が死ぬまで続きますように。お母さんの後ろに着いていきながら、強くそう願った。
リビングに入るとお兄ちゃんもテーブルに座っていて、私を見るや否や満面の笑みで出迎えてくれた。
「お兄ちゃんもご飯まだなの?」
「あぁ、残業でさっき帰ってきた所なんだ。それにさっき母さんからいろいろ聞いたところでさ」
夕方に起きた、悲惨なお茶碗に乗ったご飯を運んでくるお母さんの目は、やっぱり腫れていた。それでも気丈に振舞うお母さんに、罪悪感が芽生えないわけがない。
ずきりと痛む心とは裏腹に、大好物のほうれん草とチーズのオムレツを目の前にして、ごくりと唾を飲み込んだ。
全員のお茶碗が行き渡って、お母さんが席に座って、私たちは手を合わせた。お兄ちゃんとお母さんが楽しく談笑しながらお箸を進めていく。時折私にも話を振る二人のおかげか、お父さんの席が空いていることに気を配らなくて済んだ。
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